報告

「あれ、小夜子じゃねえか」


 カルチャーセンターの軒先に、大きな工作物が置かれてあった。赤や緑のペンキで派手にペイントされた、ダンボール製の建物。その向こうから、長い髪をお団子にした永遠が顔を出していた。手にはペンキのついた刷毛を持っている。


「あんた何してんのよ。お父さんのとこに行ったんじゃないの」


「うるせえな、ボランティアだボランティア。せっかくの休みなのによ」


 よくわからないが、子ども好きの葛城所長が何かイベントでもやるのだろう。居候の永遠はその手伝いに駆り出されたということか。


「ま、せいぜい頑張りなさいよ、居候」


「うるせえ。……あれ? お前、バイトじゃねえだろ今日」


 いちいち説明する気にもならず、無視してセンターの中に入る。


「おや、小夜ちゃん。いらっしゃい」


 事務所スペースで新聞を読んでいた所長が、特に驚いた様子も見せずに言う。


「こんにちは。やることなくて、来ちゃいました」


 そう言うと所長は肩をすくめ、「まあ、ここも大してやることはないけどね」と笑う。


「そんなことないわよ、夏祭りのあれこれ決めないと」


 まるで奥さんのように典子さんが言うが、所長は聞こえないふりをする。なるほど、さっき永遠が作っていたのは夏祭り用の出し物なのかもしれない。


「アイス買ってきたんです。皆で食べませんか」


 私がコンビニ袋を上げてみせると、「わあ」と典子さんが嬉しそうに手を叩いた。




「へえ、体験入所」


 典子さんがアイスを口に運びながら言った。私は頷き、そのプログラム内容を簡単に説明する。泊まりのプランなのだと言うとやはり驚いた顔をしたが、入所の体験なのだから泊まらないと意味がないのだと言うと、「それもそうだわね」と深く頷く。


「オウルは信頼できる施設だし、そもそも小夜ちゃんが働いている場所だしね。お母さんも安心だろう」


 所長が言い、典子さんも同意する。二人の顔は真剣で、まるで私の両親のようだ。やることがなくて来てしまった、とは言ったが、行き先はどこでもよかったわけではない。


 体験入所の話はそれで終わり、「パソコン教室の先生は、どうなの?」と、この件をやけに応援してくれている典子さんが言う。


「うーん、まだ始めたばかりだから、何とも。でも、少しコツが掴めてきたっていうか」


「やっぱり相手が障害を持った人だと、いろいろ違うわけでしょう?」


「そうですね、お爺ちゃんお婆ちゃんとはちょっと違うかな。でも、みんな個性的でおもしろくて」


 嘘ではなかった。最初は不安を感じていた砂山や徳武にも、最近では親近感を覚えるようになっている。


 そこに永遠が入ってきて、「うわ、ズルいな。言えよ」と文句を言いながら、ペンキだらけの手で冷凍庫を開け、箱の中からミルクバーを取り出す。


「それで? お前何しに来たんだよ」


 相変わらずの言い方だが、むしろこの無神経さが今は心地よい。今更隠し立てする必要もないと、私は母たちが施設の体験入所に行っていることを説明した。


「入所? おいおい、施設って通所じゃなくて入所なのかよ」


 素人のはずの永遠から、通所、入所、という単語が当たり前に出てきて驚く。


「そうだけど、何よ。文句でもあるの?」


 焦りが言葉に出る。何かまた嫌なことを言われるのではないか。数秒前までは心地よいとすら感じた永遠の悪気のなさが、途端に心配になってくる。


「お前な、障害者の入所施設っつうのは、老人ホームなんか比べらんないくらい倍率が高いんだぜ? それなのに体験入所? その施設、なんか怪しいんじゃねえの」


「永遠」


 所長がたしなめるように言うが、永遠は首を振る。


「施設を見極めるってのは大事なことなんだ。悪質な社福も実際あるんだから」


 社福。つまり、社会福祉法人。私もオウルで働き始めるまで知らなかった言い方だ。よくわからないが永遠には福祉施設に関する知識があるらしい。


「ちょっと、あんたみたいなのがどうしてそんなこと知ってんのよ」


 私が聞くと、永遠はあっさりと種明かしをした。


「親父がいま福祉業界の記事を書いてんだよ。俺はその資料集めのバイトをしてるわけ。何時間も施設の記事を読んでんだ、嫌でも詳しくなるっつーの」


 先日メールに送信されてきた、書庫のような場所にいる写真が思い出された。そういうことか。要するに永遠は、覚えたての知識を披露できる場を見つけて、舞い上がっているわけだ。なんだ、と思い、少し肩の力が抜ける。


「あのね永遠。施設にはそれぞれの事情があるのよ。一般論だけで理解できる話じゃないの」


 諭すつもりで言った。だが、永遠はなおも絡んでくる。


「バカ、施設ってのは定員が決まってんの。それで国は金払ってるんだから」


 さすがに苛立ちを覚え、私は少し口調を強めた。


「知ってるわよそれくらい。あんたさ、私がオウルで働いてるって知ってて言ってんの? ちょっと新聞読んだくらいのあんたとは違うのよ。とにかく、私は施設の事務長さんの話をじっくり聞いて、納得して決めてるの」


 よくわからないが、永遠の方も苛立った様子で、声を荒げた。


「事務長ってその小駒とかいうヤツだろ。なんだよそいつ、急に現れてお前に講師やれとか親を体験入所させろとか、どう考えても怪しいっつうか──」


 永遠が小駒の名を口にした瞬間、私の中で何かが弾けた。気がついたときには椅子から立ち上がっていた。


「いい加減にしてよ! 何なのよ一体! 黙ってよ!」


 大声を出す私に、場が凍りつく。ハッとして周囲を見回すと、所長も典子さんも驚いた顔で私を見ていた。


「な、なんだよ、俺はただ──」


 バツの悪そうな表情で永遠が何かを言いかけたが、もう何も聞く気はなかった。


「私、帰る」


 手に食べかけのミルクバーを持ったまま、私はセンターを後にした。




 自宅に戻ると、まっすぐ自分の部屋に行きマットレスに倒れ込んだ。


 目を閉じると、永遠とのやりとりが蘇ってくる。


 永遠が悪いのは間違いないが、所長や典子さんの前であんな風に怒鳴ることはなかった。自己嫌悪が襲ってきて、手に触れていたタオルケットを引き寄せる。


 別のことを考えよう。そう思った時、待っていたかのように瀬能の顔が浮かんだ。


 施設のワンボックスの中から、明らかに私を見ていた。いや、睨んでいた。


「何なの……あの人」


 そして気付く。瀬能はもしかしたら、私と小駒のやり取りを見ていたのではないか。手を握り合い、見つめ合う様子を。


 それであのような表情をしたのだとすれば、私同様に瀬能も小駒に好意を持っていたということなのだろうか。


 そう考えると、間違いないという気がした。初めてクラブハウスで顔を合わせたときの妙な態度も、憧れている小駒が知らない女を連れてきたことに戸惑ったのかもしれない。


 私は自分の手を見つめた。


 小駒が強く握りしめた手。心のなかにわだかまっていたものが溶けていく感覚があった。


 瀬能がどう思っていようが関係ない。小駒のあのときの目は、私を求める目だった。小駒が見ているのは瀬能ではなく、私なのだ。





 ──微かな振動。細かく、だが継続的で、人工的な振動。


 数十秒続いて、途切れる。


 ゆっくり目を開ける。見慣れた自分の部屋だ。


 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。


「電話……」


 呟いて体を起こし、バッグの中から携帯を取り出した。着信があったことを示す青い光が点滅している。


 着信履歴を表示させ、その発信元に「オウル」の文字を見た途端、眠気が飛んだ。そして、父と母が体験入所に行っていることを今更のように思い出す。


 まさか母に何かあったのだろうか。慌ててかけなおす。


「はい、オウルです」


 柔らかい男性の声がして、私はそれが小駒だとすぐにわかる。


「あ、小駒さんでしょうか。私、戸田です。お電話いただいていたみたいで」


「ああ、戸田さん。すみません急に。お母様の状況をお知らせしようかと思って」


 その穏やかな口調から、緊急のことではないとわかる。


 ほっとしつつ壁掛け時計を見上げると、午後四時過ぎを指していた。カルチャーセンターから帰ってきたのが正午頃だから、四時間も眠っていたことになる。


「お母様ですが、先ほど作業体験を無事に終えられました。今から住居棟に移動して部屋にご案内し、少し休憩を挟んだ後、夕食という流れになります」


「そうですか……あの、様子はどうでしたか。何か問題とか……」


「いえいえ、順調そのものでしたよ。お母様ご自身も、楽しかったと仰ってくれました。今日は紙すき班で作業をしてもらったんですが──」


「紙すきって、あの」


「ええ、見学の際にも見ていただきましたが、パルプを水に溶かして紙にする作業です。お母様はほんの三十分ほどでマスターしてしまわれまして。それに、紙すき班には重い知的障害の利用者さんもいらっしゃるんですが、お母様はとても面倒見がよくて。その方のことも丁寧にサポートしてくださったんですよ」


 小駒はその後も、母の様子を細かく報告してくれた。でき過ぎだと思うくらい、母は充実した時間を過ごしたようだ。小駒の語る母は、まるで昔の母だった。明るく積極的で、人と話すことが好きだった頃の母。


 たった一日で母をそのような状態に戻したオウルに、嫉妬のような感覚を覚えた。ひたすら家で母の罵倒に耐えていたこの半年は何だったのか。だが、もちろんこれは喜ぶべきことだ。半年でこういう機会に恵まれたことを感謝しなければならない。


「そういえば、父はどうしてますか」


 なんとなく話を変えたくて、私は言った。


「ああ、今はお母様と一緒に住居棟にいらっしゃると思います。夕食と入浴が終わったら、職員と合流してミーティングに同席いただくことになります」


「あの……何か問題はなかったですか」


 小駒は質問の意味がわからなかったのか、「問題というと?」と聞き返してくる。


「ああ……あの、父は何ていうか、ちょっと視野が狭いところがあって。オウルのような施設に行くのも初めてだから、ちょっと心配で」


「いえいえ、お父様も楽しそうでしたよ。こういう自然の中で過ごすと気持ちいいと」


 本当だろうか。なんとなく疑ってしまう。だが、嘘だろうが何だろうがそういう大人な対応を取れているなら安心だ。とにかく母も父も問題がないとわかり、私は安堵した。


「報告は以上となりますが、戸田さんの方から何かありますか」


「あ……いえ。大丈夫です」


 そう答えつつ、もっと小駒と話していたいと思ってしまう。父や母のことではなく、私と小駒のことについて。私の手を握り、まっすぐ顔を見つめたときの気持ちについて。


「では、明日またお電話差し上げます。こちらのことは心配なさらず、ゆっくりお休みください」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る