体験入所
体験入所プログラム当日、朝の九時。家の外で車の停まる音がした。
「あ、来たみたい」
ミュールをつっかけて玄関を開けると、門扉の向こうに、既に見慣れたオフホワイトのワンボックスが停まっていた。
無意識に小駒の姿を探して運転席を覗くが、そこに座っていたのは小駒ではなかった。ぎょろりとした目が印象的な、顔色の悪い中年男性。
その顔には見覚えがあった。先日食堂で会った不気味な職員。名前は確か、本島。
そして私はその奥の助手席に、さらにもう一人、見覚えのある人物の姿を認めた。
ゆるく編んだ栗色の髪、整った顔立ち。私がまだオウルに入る前、見学のために施設を訪れた。あの日、クラブハウスから作業所に向かおうとした時、ちょうどトイレから女性社員が出てきた。
助手席にいるのはあの時の女性だ。名前は瀬能。私のことを見て、なぜかひどく驚いた顔をしていたのを覚えている。
「いよいよだな」
振り返ると父が立っていた。自分の分と母の分、二つのボストンバッグを持っている。その奥では久しぶりに小綺麗な格好──白いブラウスに紺色のガウチョパンツ──をした母がいる。
「何してるんだ、早く出迎えなさい」
「あ、うん」
本島はまだしも、私は瀬能の姿に少し動揺していた。彼女を見るのはあの日以来だ。私は基本的にPCルームに詰めているので、他の職員と顔を合わせるのはクラブハウスか食堂を利用する短い時間だけなのだ。
「母さんに靴履かせるから、先に行ってて」
父を先に出させ、母を玄関に座らせた。この日の為に新しく購入したスニーカーに母の足を入れながら、表情を伺う。緊張はしているのだろうが、顔色はいい。
「おはようございます」
そう声がして振り返ると、玄関先に小駒が立っていた。
「あ、おはようございます。今日はよろしくお願いします」
慌てて立ち上がり頭を下げると、小駒は微笑んで頷き、「私がやりましょう」と母の足元にしゃがみこむ。そして、丁寧に靴紐を結び、そして母の手を取った。母はどこか照れたような笑みを浮かべ、小駒に支えられながら立ち上がる。
「じゃ、お母様には施設の車にお乗りいただきますから」
小駒と母に続いて玄関を出ると、門扉の手前で父と談笑している瀬能の姿が目に入った。
先日会った際の妙な雰囲気は一切ない。まるで女優のような明るい笑顔を浮かべ、父の手からボストンバッグを受け取る。父は父で、突然現れた美人に気分が悪くなるはずもなく、鼻の下を伸ばしただらしない表情で礼を言っている。
瀬能は茶色いオウルくんTシャツの下にぴったりとしたチノパンを履いていて、この強い日差しの下では、下着のラインも微かに確認できる。そんなことに、なぜか強い不快感を覚える。
他にもたくさんの女性職員がいる中で、小駒はなぜわざわざ瀬能を連れてきたのか。もっと普通の、年齢のいった職員でもよかったはずだった。いや、そもそも女性である必要もないではないか。
そんな理不尽な不満を感じていると、頭に嫌な仮説が浮かんできた。それは、瀬能と小駒はもしかしたら男女の関係なのではないか、というものだ。私が知らないだけで、二人は恋人同士なのかもしれない。
焦りとも怒りともつかない感情に襲われながら、母が施設の車に、父が自分の車に乗り込むのを見ていた。
よりリアルな体験のため送迎時から別行動で、というのは小駒の提案だったが、父にしても、母と顔を突き合わせて一時間弱のドライブをするのは気が進まないのだろう。その提案を快く受け入れ、自分の車で向かうことになったのだ。
このプログラムは体験者と付添人のみが施設に行く。つまり私は今回、留守番だ。
しかし、瀬能のことが原因なのか、今更になって本当にこのまま行かせてしまっていいのだろうかという気持ちになる。
「では、行って参ります」
すべての準備が整うと、小駒一人が私のもとに戻ってきて、にこやかに言った。
「はい……よろしくお願いします」
「戸田さん? どうかされましたか」
小駒にとっては、訳がわからない話だろう。いや、私自身にもよくわからない。だが、感情が妙に昂ぶっていることは確かなのだ。瀬能と小駒が絡み合うイメージが頭に浮かんで、叫びだしそうになる。
「小駒さん……私……」
何をどう言えばいいのだろうか。瀬能さんとあなたの男女関係を疑って気分が悪いのです、などと言えるはずもない。なぜこんなにも不快に、そして不安になるのだろう。私は言葉を継げないまま、不思議そうな表情の小駒を見つめる。
「あの……だから……何ていうか……」
言いながら泣きそうになってくる。私は一体なんなのだ。どうしてこうなってしまうのか。そもそも私は小駒に対し一方的に好意を持っているだけだ。小駒は私の気持ちに気づいてもいないだろう。瀬能との関係が事実でないとしても、他に好きな人や恋人がいるのかもしれない。
様々な考えが頭に浮かび、私を攻撃してくる。どうすればいいかわからずうつむいたとき、突然、小駒が私の手を握った。
熱く火照った指先、手のひら。頭の中で何かがスパークする。
驚いて視線を上げると、真剣な眼差しでこちらを見つめる小駒の顔があった。手と同じように熱のこもった目。私は手の感触と強い視線に茫然となり、燃えていた怒りや嫉妬や自己嫌悪が一瞬で蒸発するのを感じた。
小駒の目には、確かに欲望の色があった。
普段の素朴な小駒からは想像できないような、まっすぐで、強烈で、暴力的な欲望。そしてその対象は……この私だ。
時間にすれば数秒のことだったのだろう。気がついた時には手は既に離れており、いつも通りの穏やかな笑顔を浮かべた小駒が「じゃあ、行って参ります」と再び言った。
「あ……はい、よろしくお願いします」
不思議な酩酊感を覚えつつ答えると、小駒は頷き、小走りに車へと戻っていった。
小駒が後部座席に乗り込み、中からスライドドアが閉められるのを、私はほとんど呆けたような心地で見つめた。
そして、扉が閉まる一瞬前。
私は確かに見た。
母の隣に座っていた瀬能が、冷たい目で私を睨んでいるのを。
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