訪問

 ニュースでは今年は猛暑だという話がよく出るようになっていた。


 カルチャーセンターへの道中、確かに太陽は既に遠慮のない日差しを投げてくる。


 だが、一步公園の敷地に入ると、並んだ木々が日を遮ってくれるのだろう、一気に二、三度気温が下がった感じがする。やがてカルチャーセンターの前のベンチに座る葛城所長が見えた。


「やあ小夜ちゃん」


「おはようございます、所長」


「少し日向ぼっこにつきあってくれないか。どうせ大した仕事はない」


 私は笑い、所長の隣に腰を下ろした。ちょうど通り道なのか、涼しい風が通り抜けて気持ちがいい。


 しばらく何でもない雑談をした後、折を見て私は言った。


「母のこと、小駒さんに相談してみました」


 所長は黒縁メガネの奥で目を見開き、こちらを見た。


「そうかね。それで?」


「オウルへの体験入所を勧められました。父とも話して、それで、受けさせてもらおうかなと」


「ああ、そうだったのか。うん、それはよかった」


 所長はほっとしたように言った。


「でも……実はまだ母には伝えていないんです。今日にも小駒さんが来て説明してくれることになっているんですけど、どうやって説得するつもりなんだろう」


 独り言のように言うと、所長は笑みを浮かべて頷く。


「小駒さんに任せておけばいい。あの人なら、きっとうまくやってくれるさ」


 そう言って空を仰ぐ所長を横目で見る。所長は本当に小駒を信頼しているのだな、と思う。実際、そう言われればそうに違いないという気がしてくる。小駒ならきっとうまくやってくれるだろう。


「そういえば永遠だけどね、うまいこと見習いとして潜り込んだらしいよ」


「ああ、昨日写真が届きました。いつもの変顔」


「あの死にかけのビーバーのような顔だね」


 所長が言って、私は声を出して笑ってしまった。ウサギのようだと思っていたが、確かにビーバーにも見える。所長もあの変顔を知っているということ自体がまたおもしろくて、私はしばらく笑い続けた。自分の笑い声を久々に聞いた気がする。


 それがやっと収まった頃、所長はしみじみと「まあ、でも、よかったよ」と言った。


「結局永遠は、父親の背中を追いかけていたんだな。以前は随分と反発していたんだけどね。父親のようにはならないぞと意気込んで、外国を放浪してみたりさ。ただ、そうやって自分の世界を広げれば広げるほど、父の選んだ記者という仕事に魅力を感じたんだろうな。それにあいつ、意外といい記事を書くと思うんだよ」


 空を見上げ、永遠が記者として活躍する姿を想像する。風貌は記者というより売れないフリーライターという感じだが、所長の言うように、なんとなくいい記事を書く気もする。


「小夜ちゃんも、同じだ」


 所長が言って視線を戻した。黒縁メガネの向こうから、小さな目が私を見ている。


「自分のやりたい事を優先すべきだよ。いろいろ大変なことはあるだろうが、これは間違いなく、君の人生なんだから」


「所長──」


 その言葉に、またこみあげるものがあった。所長のような人が父親だったら、私はもう少し素直な人間に育っていたのではないか。涙が出そうなのを隠すように視線を逸らすと、所長は私の肩をぽんと叩き、立ち上がった。


「さ、そろそろ中に行こう。典子さんに怒られる前に」



 その夜、七時過ぎ、明らかに不満げな表情の父が帰ってきた。


 小駒との電話を切った後、すぐに連絡して事情は話してあった。「今日の今日か」とさすがに驚いていたが、それでもできるだけ早く帰ると約束してくれていた。


「まだ来てないよな?」


 玄関先でそう言われ、頷いて見せる。私と父はそして、思わず母の部屋の方を見る。


 母は私と夕食をとってすぐ、何かを察知したかのようにすぐ自室に戻り、それから一度も出てきていない。


 閉じた扉を見ながら、「一体、どうするつもりなんだ」と声を潜めて父が言い、「わからないけど、任せてくれって」と答える。


「任せてくれって……本当に大丈夫なのか?」


 苛立った口調で言いながら父はリビングに入っていく。母がああなってから、この家に客が来たことはほとんどない。しかも父は小駒に会ったことも話したこともないのだ。


「八時に来るのか? その人は」


 その人、という言い方に刺を感じた。娘とそう歳の変わらない若造、くらいに思っているのかもしれない。父が神経質になるのも無理はないが、一方で、父と小駒なら小駒の方がずっと優秀に違いない、とも考えてしまう。



 八時数分前、チャイムが鳴った。


 扉を開けると、紺色のジャケットを着、きちんとネクタイを締めた小駒が立っていた。


 普段は腕まくりした白シャツ一枚なので、ひどく新鮮に見える。足元もスニーカーではなく革靴だ。門扉の向こうにオウルのワンボックスが停まっているのが見える。


「夜分遅くに失礼します」


 小駒はそう言って頭を下げ、それから私の背後を見上げた。いつの間にか父が玄関先まで出てきていた。半ば予想はしていたが、その顔には既に、小駒を値踏みするような表情が浮かんでいる。


「心身障害者福祉作業所オウルで事務長をしております、小駒と申します」


 小駒は名刺を取り出し、それを丁寧に両手で差し出す。父は片手でそれを受け取った。


 名刺を舐めるように見て、それから「君は──」と口を開きかけたが、それを遮るように小駒が話し始めた。


「小夜子さんには大変お世話になっておりまして。お父様にも本当に感謝しております」


 父は言葉を早々に折られたことに戸惑った様子で、だが、せめて動じない風を装いたいのか、「私に、感謝?」とゆっくりした口調で言った。


「ええ。障害者支援施設で勤務するということで、さぞご心配だったと思います。しかし、お父様は小夜子さんの意志を尊重してくださいました。なかなかできることではありません。勤務開始から間もないですが、小夜子さんは既に我が施設になくてはならない人材として活躍してくださっています。これもお父様のおかげです。本当に感謝しております。ありがとうございます」


 ハキハキと一気に話す小駒に、父は圧倒されたようだった。だが、あなたのおかげですと何度も頭を下げる相手を無下にもできないのだろう、「じゃあ、上がってもらえ」と戸惑ったように言い、先にリビングへと入っていく。


 小駒を中に案内し、ダイニングについた。私と父が横に並び、向かい側に小駒という位置で座る。


 小駒は終始、私ではなく父に向かって話をした。オウルのこと、そこで暮らす利用者や働いている職員、自分の立場や担当業務。それらを非常に丁寧に、私ではなくあくまで父に向かって話そうとする小駒に、父も態度を軟化させていった。


「なるほど、よくわかりました。いや、小駒さんは話が上手だ」


 一通りの説明が終わると、父は余裕を演出するように椅子にゆったりと背を預け、そのまま天井を仰ぐように視線を上に上げる。その一瞬の隙に小駒は私を見、頷いた。その目は、私に任せておいてください、と言っていた。私も目だけで頷いて見せる。もとよりそのつもりだ。


「それで……スケジュールの話なのですが、今週末などはいかがでしょうか」


「え? 今週末?」


 小駒が唐突に切り込んで、にこやかだった父の顔もさすがに強張った。


「奥様のようなケースの場合、基本的に時間をあけるメリットがありません。半月後、一ヶ月後となれば、今より症状が悪化していることも考えられます」


「いや、そうは言ってもね、こういうのは簡単に決めるわけには──」


 父は唸り、そして私の方をちらりと見た。偉そうな態度を取っていても、結局自分では判断できないのだ。だが、別にそれを責めるつもりはない。私も父と同様に、どうしていいかわからないから小駒を頼ったのだ。


「お前はどう思うんだ」


 心なしか声の小さくなった父が聞いてくる。私は頷き、慎重に言葉を選びながら言う。


「私も、できるだけ早くお願いすべきだと思う。小駒さんの言う通り、先延ばしにするメリットはないもの」


 父は低く呻いてテーブルに視線を落とし「……じゃあ、お願いするか」と言った。


 父の同意を受けて、私と小駒はまた一瞬のアイコンタクトを交わした。別に私は、小駒と何かを画策したわけではない。だが、小駒と協力して父を動かしたという感覚があって、言いようのない充実感がわいた。


「かしこまりました。付添人はお父様にお願いしてよろしいですね」


 体験入所プログラムには、一名だけ関係者の付き添いが認められていた。本人にリアルな施設生活を送ってもらうため施設内では基本別行動になるが、いずれかが望んだ場合はすぐに合流できるし、夜間の職員ミーティングにも参加できる。また、本人が体験プログラムを受けている間、施設内の見学や職員への質問なども自由にできる。つまりこのプログラムは、本人だけでなく付添人の施設体験も兼ねているのだ。私は今後も仕事でオウルに行くのだし、顔を立てる意味もあり、父にこの役割を頼んでいた。


「いや、付き添いはいいんだが……肝心の妻にはどう伝えるんです? 直接お話くださるとのことだけど」


 そう、それだ。ここまでは言わば、想定内の流れだった。礼儀正しく、言うべきことはしっかり言う小駒が、父に屈することなどないとは思っていた。


 一方で、小駒が母をどう説得するのか、それについては想像すらつかない。


 父の質問に小駒がどう答えるのか私も注目したが、小駒の口から出てきたのは、拍子抜けするようなものだった。


「特別なことはありません。きちんと向き合って、誠意を持ってご説明するだけです」



「大丈夫なのか?」


 私と父はダイニングテーブルで向かい合って座っていた。視線は母の部屋を向いているが、普段は開け放しているリビングの扉が閉められているせいで、母の部屋はおろか玄関や廊下の様子もわからない。


 小駒が一人で母の部屋に入ってから、既に十五分以上が経っていた。


「大丈夫……だと思う。何かあればすぐわかるだろうし」


 仮に母親が小駒を拒絶した場合、叫び声を上げるとか部屋から走り出てくるとかいった行動にでるはずだ。小駒が本気で母に危害を加えようとすればできないことはないだろうが、そうする動機もメリットもない。


 いずれにせよ、十五分間も母の部屋に留まっているのだから、大きなトラブルは起きていないのだろう。


 さらに十分ほど経った頃、廊下の向こうで引き戸が開けられる音がし、やがて足音が近づいてきて、今度はリビングの扉が開かれた。


 私と父は思わず息を呑んだ。そこには、小駒に手を取られて立つ母がいた。


「母さん……」


 思わず呟き、椅子から立ち上がる。父も呆然とその様子を見ている。


 そして小駒は私たちの方を向いて、「奥様、納得してくださいました」と言った。


「そんな……」


 信じられなかった。しかし、小駒の手を握り、微笑みさえ浮かべる母を見れば、確かに小駒を受け入れていることがわかる。


「母さん、本当なの?」


 それでも確かめたくて、言った。だが、母は私ではなく小駒の方に、どこかぼんやりした様子で笑顔を向け、「小駒さんの施設に、行ってみたい」と言った。


 やがて母は小駒に連れられ部屋に戻された。小駒が一人リビングに戻ってきて、「よかったです」と微笑んだ。


「小駒さん、一体どうやって……」


 どんな魔法を使ったのか知りたくて聞いたが、小駒は「誠意を持ってご説明しただけです」と繰り返すだけで、「お母様のプライベートでもありますから」と、あくまで説明を避けた。


 小駒はバッグから一枚のプリントを取り出し、ダイニングテーブルの上に丁寧に置いた。それは体験入所プログラムの申込書類で、父に署名捺印するように言った。よく見れば、今週末の日付と、母の署名が既に入っている。


「では、こちらにサインをお願いできますでしょうか」


 父は小駒の差し出したボールペンで、付添人の欄に署名した。それを見ながら、本当にこれでよかったのだろうかと考える。母があっさり納得したことに対する驚きがそうさせるのか、微かに嫌な予感がした。


 父が名を書き終わり、ペンを置いた。これにより、今週末の土日、母と父がオウルに行くことが決定した。

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