進行
夜九時過ぎ。風呂から出てくると、こんな時間に珍しく父が帰ってきていた。
既に部屋着になり、ダイニングの椅子で四合瓶の日本酒をちびちび飲んでいる。
チャンスだと思い、母が部屋に戻っていることを確認した上で、私はカバンから昼間小駒にもらったチラシを取り出す。
「ちょっとこれ、見てほしいんだけど」
私はチラシを父の前に置いた。
「なんだこれ……体験入所?」
「今日、施設の事務長さんに相談してみたのよ、母さんのこと」
「はあ? お前なに勝手なこと──」
うんざりした気分でその言葉を遮った。
「父さんが忙しいから私がやってるんでしょ。いいから読んでよ」
父は不満げに舌打ちしてみせたが、おちょこを置き、書類を掴んで読み始める。
「いきなり泊まりだって聞いてちょっと驚いたんだけど、昼間見学して帰るだけじゃ、入所施設の体験にはならないって」
先回りして言うと、意外にも父は「まあ、そりゃそうだな」と納得したように言う。そしてチラシをテーブルに置き、腕を組む。
「オウルって、お前が働いてるとこだよな。母さんみたいな人もいるのか?」
「うん。母さんみたいな人が、入所して改善するケースが多いって」
父は無言でまたチラシに視線を下ろし、しばらく黙った後、言った。
「まあ、体験なんだし、別にいいんじゃないか? けど──」
そして母の部屋の方を気にする素振りを見せる。
ああ、と私は思う。父が考えているのは、母にこの話をどう伝えるのか、どう納得させるのか、ということだ。そしてそれは、私自身も悩んでいるところだった。頑なに引きこもる母が、体験入所、それも泊まりのプログラムを簡単に受け入れるとは思えなかった。
固く閉ざされた母の部屋の扉を見ながら、私や父には無理なのではないかと思う。小駒はこういう悩みにもアドバイスをくれるだろうか。実の母にまともに向き合えないのかと呆れるだろうか。呆れて、私を嫌いになってしまうだろうか。
そんなはずはない。小駒はそんな人ではない。まるで自分で自分に反論するようにそんな考えが浮かび、私は父にばれないように顔を背けると、小駒の笑顔を思い描いた。
その日の夜、携帯電話に一本のショートメールが届いた。差出人は葛城永遠。
そういえば、この間再会した時に、途切れていた連絡先を交換したのだった。
開いてみるとタイトルも本文もなく、ただ自撮りしたアップ写真が添付されているだけだった。目を細めて鼻の穴を膨らませ、ウサギのように前歯をむき出しにするいつもの変顔。高校の頃から、写真を撮るたびにこの顔をしていた。
永遠の顔を見ていると、昔の記憶が蘇ってくる。
私と永遠は不思議な関係だった。友達には違いないのだが、もう少し近いと言うか、兄弟とか双子とか、何か同じものを共有しているような感覚があった。暗くて無口で、それでいて気の強い私と、明るくて人懐っこくて、そして優しい永遠。性格は真逆と言っていいのに、毎日のように一緒にいた気がする。
永遠はいつでも女子から人気があって、いろんな子に告白されては、付き合ったりしていた。それでも永遠はなぜか、私にかまうことをやめなかった。多分、私にとっての永遠がそうだったように、永遠にとっての私も、ある種のセーフゾーンだったのだろう。
懐かしいな、と思いながら永遠の変顔を眺めていると、ふと、その背景に目が止まった。バカなウサギの向こうに、図書館を思わせる書棚が並んでいる。
「あ、そうか」
思わず呟く。昨日永遠は、記者をやっている父に会いに行ったはずだ。もしかしたらこの本棚は、出版社にある資料室か何かなのかもしれない。あるいは図書館のような所で調べ物をしているのか。
永遠が本気で記者になりたいと思っているなら、それは単純にいいことだと思う。私たちももうすぐ三十だ。いつまでもフラフラしているわけにはいかない。
もういい加減、足元を固めなければならないのだ。
◆
「はい、オウルです」
数回のコールで電話は繋がり、落ち着いた感じの男性が出た。
「朝早くに失礼します。そちらでお世話になっている戸田です。あの、パソコン教室の」
「ああ、はいはい。お疲れ様です」
すぐに通じたので安心し、小駒に繋いで欲しいと言った。相手の職員は「少々お待ちください」と言い、すぐに保留のメロディが流れ始めた。話したことのない相手のようだったが、既に私の存在は知っているらしい。
一分ほど待った後、「もしもし」と小駒の声が聞こえた。
「あ、あの、戸田です。すみません突然──」
「いやいや、とんでもない。お電話いただけて嬉しいです」
いつもの声。小駒の柔らかい微笑みが頭に浮かぶ。
「あの、昨日ご提案いただいた体験入所の件なんですが」
「ええ。どうされましたか」
「昨日、父とも話しまして。それで、いいんじゃないかという話になっていて」
「そうですか。それは何よりです。じゃあさっそくスケジュールの方を──」
「ただ」
本当に小駒はがっかりしないだろうか。緊張を覚えつつ、続ける。
「実はまだ、母には伝えられていないんです。正直に言って、本人が素直にオーケーしてくれると思えない状況で──」
不安に怯えながら黙ると、意外なほどあっさりと小駒は言った。
「ああ、その点は大丈夫だと思いますよ」
「え?」
思わず聞き返した私に、小駒はそれまでと変わらない口調で答える。
「これまでも何度か体験入所のコーディネートをしたんですが、皆さん同じような状況なんですよ。家族は興味があるが、本人があまり乗り気じゃない、あるいは完全に拒否しているというね。ただ、私の経験則ですが、私ども施設の人間が直接お話できれば、ほとんどの方は前向きに検討してくださいます」
「直接、ですか?」
「ええ。そこが大事なポイントで。結局、ご本人が一番不安なんですよね。その不安はいくら家族でも取り除くのが難しい。というより、なんと言いますか、どうしても疑心暗鬼になってしまうんです。家族は自分を追い出したがっているだけなんじゃないかと」
「ああ……なるほど」
「そういうわけで、できれば今回も、職員がお宅に伺って直接説明させてもらえないかと」
「それは、あの、母に直接、ということですよね」
「そうですね。まずは戸田さんとお父様にあらためてプログラムをご説明し、ご納得いただけたら、初めてお母様に、という流れになります」
「なるほど……」
言っていることはわかる。そもそも、自分で話す自信がないからこうして電話しているのだ。代わりに説明してくれ、母を納得させてくれるのなら、何の文句もないではないか。
だが一方で、何かが壊れてしまいそうな怖さもある。疑心暗鬼、と小駒は言った。こんなことがないうちから、母は何度も、お前は私を嫌っているんだろう、と喚いていた。
今回のことが、私たち家族の絆を、決定的に断ってしまわないだろうか。
「わかります。不安ですよね」
気持ちが伝わったのか、小駒が優しく言う。
「すみません。こういったことは初めてで」
「あの、こんなことで戸田さんの不安が収まるとも思わないんですが、今回のお母様へのご説明、私に担当させていただけませんか?」
「え? 小駒さんが来てくださるんですか?」
小駒が来てくれる。小駒が説明してくれる。まだほとんど親睦も深まっていない職員に頼むより、その方がずっと安心だ。それに、小駒のような柔らかい人なら、母さんも心を開くのではないか。
「あの……そうしてもらえると、私としても」
「よかった。じゃあぜひそうさせてください。ただ、すみません、私のスケジュールが少し埋まっておりまして……そうですね」
電話の向こうで何かをめくる音が聞こえる。手帳で予定を確認しているのだろう。
「ああ、すみません。非常に急なんですが、今夜ならお伺いできます。夜八時頃になってしまいますが、いかがでしょう」
「え? 今日ですか?」
「ええ。でも、さすがに今日は難しいですかね。そうだな、今日じゃないとすると──」
また手帳をめくる音。その時、これ以上小駒を困らせたくないという考えが浮かんだ。いや、もっと本能的な感覚だった。今日、小駒に会える。
「大丈夫です。今日で」
気付いたときには言っていた。
「夜八時ですね。父にもできるだけその時間までに帰宅するよう言っておきますから」
「あ、そうですか? 了解いたしました」
電話の向こうで小駒が微笑んだのがわかった。その顔が目の前に見えるようで、私は思わず照れてうつむいた。
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