提案

「戸田さんの仰った通り、障害者支援施設の待機者というのは、非常に多くいらっしゃいます。つまり、入所したいのにできない、という人が大勢いるということです。この状態自体が大きな社会問題ではあるものの、なかなか解決手段がない。施設の数は限られていますし、先日話したように、施設には定員が定められているからです」


 それはもちろん理解できた。こういった施設だけではない。幼稚園とか保育所でも同じ問題が起こっていると聞く。供給より需要が多ければ、何だって足りなくなる。


「定員なんて無視してどんどん入所させちゃえればいいじゃないか、と言う人もいますが、そういうわけにもいかないんです。というのもこの業界では、定員を越えた人数に対してサービスを提供してしまうと、施設側にペナルティがあるんですよ」


「ペナルティ?」


「ええ。専門用語で言うと、定員超過利用減算、と言うんですが」


「定員超過……何ですか」


 小駒は、おそらくは既に冷めているだろうコーヒーに手を伸ばし、ゆっくり一口飲んだ。


「その前に、障害者支援施設というところがどうやって成り立っているかを説明すべきかもしれませんね。オウルも含めたこういった福祉施設の多くは、利用者に提供したサービスに応じて支払われるサービス費、というもので運営されています。これは国から支給されるもので、利用者さんから直接お金をいただくわけではないんですね」


 そうなのかと思う。そんなことすら知らなかった。


「で、先ほどのペナルティの話です。定員超過利用減算、言葉としては難しいですが、要するに、定員をオーバーした場合はサービス費の減額をしますよ、ということです。つまり、定員を超えて利用者を増やせば増やすほど施設が損をする仕組みになっている。もちろんこれは、国が意地悪をしているということではありません。こういう制度を設けないと、サービス費を増やしたいがために、どんどん入所者を増やして施設に押し込む悪徳な施設が出てきてしまう。結果、支援サービスの質は下がり、利用者さんが苦しむことになる。それを防ぐための措置なんです」


 なるほど、と思う。確かに、人が多ければ多いほど、一人ひとりに割ける時間は少なくなる。結果、自然とサービスの質が下がる。そう考えれば、しごくまっとうな制度に思える。


「利用者さんのことを考えた制度なんですね」


 私が言うと、小駒は「その通りです」と頷く。


「とにかくそういうルールがあるので、入りたいという方が大勢いたとしても、我々施設としては定員以上を受け入れるわけにはいかないんですね。仮に現場が、もう少し増えても大丈夫だと言っても、自由にはできないわけです。これが、入所定員に関する基本的な実情です。なんとなく、おわかりいただけましたか」


 専門的な話だが、全くわからないということはない。 私が頷くと、小駒は微笑んで頷き返してくれる。


「さて、その上でオウルの話に移りますが、実はオウルは少し特殊な状況にあります」


 小駒はそう言って背中をソファに預け「……ここからはさらに分かりづらい話かもしれませんが」と苦笑いを浮かべる。


「オウルは、約五年前から私が来た一年前にかけて、経営母体の社会福祉法人が方針を変えつつありました。簡単に言えば、就労継続支援事業、つまりいろいろな作業をして報酬をお支払いするというスタイルではなく、より重度な障害者を受け入れる、いわゆる収容型の施設に変わろうとしていたわけです」


 以前だったら既に混乱していただろう話だったが、今の私にはなんとなく理解できた。


「方針変更の理由は……まあ、平たく言えば国からのプレッシャーです。先日もお話したように、私たち施設側はもう障害者の障害度や障害の種類を問えなくなっています。今後は重度障害者の受け入れもしていかなければならないから、それに合わせた体制に変えていかなければならない、ということです」


「そう変わらなければならない状況だった、ということですね」


「そういうことです。少なくとも国はそうしてほしいと思っていた。しかし一方で、開所時からずっと続けてきた作業、つまり労働に力を入れるスタイルこそがオウルだ、と考える利用者や職員も多かったんですね」


 私は頷いた。まだ数度しか来ていないのに、オウルの魅力はやはり、利用者がそれぞれ担当を持って作業をしているところだと感じていたからだ。


 小駒はしかし、小さくため息をついた。


「とはいえ、国の方針ははっきりしているのだし、それにきちんと対応していくべきだ、という意見の人も当然出てきた。──で、まあ、意見の相違から、職員間でトラブルが起こるようになっていったんです。まあ、トラブルと言っても、口喧嘩程度のことなんですが、それが無視できないくらい頻繁に起こるようになってしまったんですね。で、こんな状況で障害者支援なんてできないと、当時の理事長がある判断をしました。内側の人間でやりあっていても先はない。だから外部から人を入れて、第三者の目で判断してもらおうじゃないかと」


 なんとなく小説のような話になってきた。その第三者がどんな判断をするのか、私まで気になってくる。


「じゃあそうしようということになり、公平な第三者を選ばなければならないということで、公募を行うことになりました。それまでオウルの求人というのは、こういう立地だということもあって、基本的には縁故採用ばかりだったんですね。地元の人とか、現スタッフの家族とか友人とか。それがここにきてオウルは初めて、まっさらな人材を採用しようとなった。それで求人媒体に募集広告を出し……それを私がたまたま見た」


「あ」


 私は思わず言った。話がつながった。小駒がそれまでより深く微笑む。


「そうなんです、そういう経緯なんです。転職先を探していた私は興味を持って、応募しました。障害者支援の経験はなかったのですが、求められていたのはオブザーバー的な視点だったので、むしろそれも好都合だということになった。それでこちらで働くことになって、先ほど言っていた変化したい人としたくない人の間に立ってですね、まあなかなか大変でしたが、意見を取りまとめていったんです」


「そうだったんですか。なんだかすごいですね」


「社会福祉法人の理事や幹部たち、そして時には利用者さんとも話し合いを重ね、結局、やはりオウルの伝統は守っていこうじゃないかということになりました。国の要請に対しても、何も言わずに受け入れるということではなくて、あくまで合法的にですが正当な抵抗──まあ、抵抗というのは語弊がありますが、私たちの伝統を守るための工夫はしていこうと、そういう方針になったわけです」


「よかった」


 思わず言った。小駒の頑張りが功を奏したのだ。


「ええ。でも、それはそれで痛みを伴う決定だった。どうしても納得できない人たちは、オウルを離れていきました。職員だけでなく利用者の中にも、別の施設に移動したり、自宅療養に切り替えたりする利用者が出始めた。たまたま高齢や病気などでお亡くなりになるケースも重なって、まあこれはトラブルとの因果関係はないんですが、ただとにかくそういう動きがあったことで、利用者の人数がガタガタっと減った。それが先月くらいの話です」


 なんとなく話が見えてきた。小駒は視線をこちらに向けて、満足気に頷く。


「それで──すみません、ご質問の答えを言うのにだいぶ回り道をしましたが、そういうわけで現在オウルには、数人の空きがある状態なんです」


 つまり、今なら母さんはオウルに入れる、ということなのだろうか。


 思わず黙った私に、小駒は心をさらに揺さぶるような言葉を続けた。


「もっとも、先ほども申しましたように待機者は大勢いますから、間もなく埋まってしまうとは思いますけどね」


 私はツバを飲み込んだ。


 間もなく埋まってしまう。このチャンスを棒に振ってしまう。


「あの、母がここに入所することは現実的に可能なんでしょうか」


 もう何を気にしている場合でもない。私はズバリ聞いた。


 小駒は私の目を見、しっかりと頷く。


「ええ、オウルはもともと軽度精神障害者の多い施設です。この場で確約する、ということはできませんけども、ご希望ということであれば、あなたが勤務くださっているという縁もありますし、優先的に入所していただくことは可能だと思います」


 図らずも物事が前に進んでいく。自分で何かを決めているつもりはないのに、状況が逃げ道をなくしてしまう。


 そもそも、母はどう感じるのだろうか。母はもう長い間、外部とのコミュニケーションを完全に拒絶している。いつもの調子で、なぜ勝手に決めてきたんだと、私は施設になんて入らないと罵倒されるに決まっている。


 私はいつの間にか追い詰められていた。よくわからない感情が喉の奥からせり上がってくる。そんな重要なことを、今ここで、私が決めなければならないのだろうか。


「でも……母は……きっと納得しません。家を出る事も、ほとんどないくらいで」


 奥歯を噛みしめる。母の頬にできた、本人だけでなく見ている者の希望すら削ぐような大きな傷。完治していることが、逆に絶望を深くする。母の傷が消えることは一生ないのだ。そう考えていると、先日の自傷行為の記憶が蘇り、感情が溢れてきた。それはやがて嗚咽に変わる。私はうつむいて、呻くように泣いた。


「戸田さん」


 小駒の声が聞こえ、それから、肩に手が置かれた。身体が震える。ゆっくりと顔を上げる。そこには目を細めて微笑む小駒の顔がある。


「辛かったですね。あなたはきっと一人で戦っていたんだ」


 優しい言葉に、感情は余計に揺れる。涙が溢れて、頬を流れ落ちた。


「実は、私から提案があるんです」


 小駒はそう言うと、ソファから立ち上がった。キャビネットまで歩いていって、中から一枚のプリントを取り出すと、それを持って戻って来て、私に手渡す。懐かしいわら半紙刷りのプリント。その最上部には、こう書かれてあった。


「──体験入所サービス?」


 涙を拭きながら私は言った。フクロウのオウルくんが、タイトルを羽の先で指差している。


「ええ。入所をご検討されている方に、お試しで宿泊していただくサービスです。入所するにしろしないにしろ、それを判断するのには、やはり実際にここで過ごしてもらうのが一番ですから」


 確かに、そうだ。だが、ふと違和感を覚える。宿泊、と小駒は言った。宿泊?


「体験で、いきなり泊まるんですか」


「ええ、泊まっていただかないと、入所施設での生活はイメージできないと思いますよ」


 そう言われれば、確かにその通りだ。ここはデイサービスなどと違い、通うのではなく暮らす施設だ。体験、という言葉から、先日自分が見学に来たときのような数時間のプログラムを想像したが、あれだけでは入所生活のリアルな感触は掴めないだろう。


「もちろん、体験いただいた結果、オウルには合わない、となるかもしれません。でも、それも一つの前進です。別段デメリットはありません。体験してみて、ここは違う、ここは嫌だと思えば、入所しなければいいだけなんですから」

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