相談
「ああ、本島さんですね。彼は少し変わっていますから」
食堂での一件について話すと、小駒はそう言って笑った。あの職員は本島というらしい。
雨のせいで余計に蒸し暑い外と違い、ロッジの中はクーラーが効いていて涼しい。
「手が離せなかったので彼に伝言を頼んだんです。怖がらせてしまったなら、申し訳なかったな」
「あ、いえ、そんな、怖いっていうほどでは──」
あわてて弁解する私にソファを勧め、小駒はキッチンの方に歩いていく。見ればコンロの上のヤカンから湯気が出ていた。
小駒が棚からインスタントコーヒーを取り出す様子を、私はソファから見つめる。
ふと思い出し、バッグからクリアファイルを取り出した。先ほどプリントアウトした個人進捗管理表だ。
やがて小駒が両手にカップを持って戻ってきた。
テーブルに置き、今日も当然のように私の隣に腰を下ろす。
緊張とも期待とも言えぬ気分を覚えつつ、私はクリアファイルから書類を取り出すと、小駒に差し出した。
「あの……こういうものを作ってみたんですけど」
小駒は怪訝そうな顔をして受け取り、それから書類に目を落とす。
「これは……なるほど、生徒さんごとの進捗管理票ですね」
「ええ。二度授業を経験してみて、こういったものがあった方がいいかと思って」
そして私は先ほど考えたことを小駒に伝えた。集団授業よりも個別授業のスタイルで、という話だ。
小駒は真剣な顔でそれを聞いてくれ、最後に大きく頷いた。
「確かに、仰るとおりですね。私も賛成です。そしてそうであるなら、こういった管理票はとても重要ですね。状況も把握しやすいし、計画を調整する際にも役立ちそうだ」
「よかった……」
思わず言った。きっと小駒は喜んでくれるだろうと思っていたが、実際に言われてほっとする。大きく息を吐いた私に小駒は笑いかけ、また書類に目を戻す。
「それに……随分見やすい。デザインセンスがあると、書類一つにも違いが出るんですねえ。これは私や他の職員じゃ作れません。さすがです、戸田さん」
小駒の言葉に、喜びが湧き上がる。血液に幸せという物質が溶け、それが全身に回っているようだ。こんな感覚は、カルチャーセンターはもちろん、以前デザイナーとして働いていた頃にも味わったことはなかったかもしれなかった。
もっと、もっと小駒に認められたい。褒められたい。そんな気持ちが、私の口を勝手に動かす。
「あの、それで、もし可能なら、生徒さんの欠席の理由というか、どういう状況で休まれたのかも知りたいなと思っていて」
「と、言うと?」
私は頷き、先日はああ言ったが、状況によってはメンバー入れ替えを行う必要があるかもしれない、という話をした。
メンバーが五名と少ない分、一人ひとりが担う重要性も大きくなる。
もし欠席が続くようなら、その原因の分析・改善が必要だし、どうしても継続不可能だということになれば、無理にその生徒にこだわるのではなく、他の利用者の加入も検討するべきかもしれないと。
話していると、また頭が高速で動き出す感覚があった。アイデアが次々に浮かんでくる。私の口は止まらなくなっていく。
将来的には、複数のクラスを立ち上げてもいいかもしれない。クラスごとに授業内容を変え、それぞれ別のパソコンスキルを学ぶようにすれば、施設全体で幅広い業務が可能になるのではないか。そうなれば、小駒の掲げるビジョンの実現も、ぐっと近づくのではないか──
私はそういうようなことを、早口に、一気に話した。
喋り終えた私は、少し息が上がっていた。小駒は微かに目を細め、そんな私をじっと見ていた。突然爆発的に話しだした私に呆れたのかもしれない。
「いや、すごいな」
だが、小駒から出てきたのは、感嘆のため息だった。
「戸田さん、すごいです。勤務し始めて間もないのに、そんな風に高い意識を持ってくださっているなんて。あなたのような方をお迎えできて、私たちは本当に幸せです」
その言葉に、背筋がゾクリとなるような、肉体的快感と言っていいほどの喜びを覚えた。
「あ……ありがとうございます。私、頑張ります」
どこか酒に酔ったような感覚で言うと、小駒は穏やかに頷いて、それから「じゃあ、そろそろ本題に」と言った。
「朝仰っていたご相談、お話いただけますか?」
◆
「実は、母のことなんです」
私は覚悟を決めて、事情を話した。母の状態、病名、先日の自傷行為。
母の症状は悪化しているのに、私も父もどうしていいのかわからない、と。
「なるほど」
小駒は言って、黙った。人差し指を鼻の頭に置き、その先端をトントンと動かす。
母の事を考えてくれているのか。あるいは、私がそのことを今まで黙っていたことに、不信感を抱いているのか。
「あの……すみません、黙ってて」
黙っているのが辛くて、私は言った。
小駒は少し驚いた表示になり、首を振る。
「そんなこと、気にされなくて大丈夫ですよ。それに……すみません、実は私、知っていたんです」
「え?」
意外な言葉に思わず身を乗り出してしまう。
「自傷行為の件は初めて知りましたが、お母様の事故の件や、それに伴う生活の変化について、実は少し前から知っていたんです。……ただ、私からその話題を出すことはしませんでした。こちらこそ黙っていてすみません」
小駒はそう言って頭を下げた。
「いえ……そんな。でも、どうして知っていたんですか」
当然の疑問を口にした私に、小駒は落ち着いた口調で答えた。
「葛城所長から、聞いていたんです」
「……え?」
突然所長の名前が出て、混乱する。
「戸田さんがご存じないのは当然です。実は、戸田さんに今回のご依頼をしたいと考えた時、まず私は葛城所長に相談させていただいたんですね」
「そう……だったんですか」
「ええ。所長に断りもなくあなたにお話するのは違うだろうと思いまして。それでそのお話の際、私が真剣だということが伝わったのでしょう、葛城所長もいい話だと認めてくださったんです。そして所長は、もちろん他言無用の約束を交わした上でですが、あなたのお母様が精神的な不調の中で苦しんでおられることを話してくださいました。今回の話は、そういう意味でもよい機会になるだろうと仰って」
「所長が……」
「わざわざ詮索するようなことはしないでほしい。でももし戸田さんから相談やお母様のことでアドバイスを求められたら、できる限りのことをしてやってくれ、と」
所長が小駒にそう頼んでいる姿が、頭の中に浮かんだ。
所長は、きっと、私を心配してくれていた。母自身のことより、もしかしたら、それに苦しんでいる私のことを。だから小駒から今回の話が持ち込まれた時、それがきっといいキッカケになると思い、賛成してくれたのだ。
昨日所長が小駒に相談するようアドバイスしてくれたのも、私から母の自傷行為の件を聞き、いよいよ事態は深刻だと判断したからなのだろう。
私には、頼れる人はいないと思っていた。でも、こんなに近くにいたのだ。こみ上げるものがあって、私はうつむいた。
しばらくの沈黙の後、「それで──」と小駒の声がした。
「私に相談したいことというのは、お母様の入所についてでしょうか」
いきなり核心を突かれ、思わず顔を上げる。
「いや……あの……」
「すごくいいと思いますよ」
考える間もなく、小駒が続ける。
「お母様と同じような症状の方が、施設に入所して改善されたケースはたくさんあります。お母様の場合、オウルのような就労支援特化型の入所施設とも相性がいい。お部屋にじっとしているより、何らかの作業をしていた方が、気持ちも晴れるような気がします」
そう。そうなのだ。もともと社交的でアクティブな性格の人なのだ。だからこそ、今の状態を見ているのが辛い。あの元気で溌剌としていた母と、廃人のようになってしまった今の母を、嫌でも比べてしまうから。
ここなら、大自然に囲まれたこのオウルなら、母をもとに戻せるかもしれない。
だがその時、先日小駒と交わした会話が思い出された。
「あ……でも、定員があるんですよね」
確か小駒は、オウルの定員は四十五名だ、と言っていた。そしてこういった施設は、老人ホーム同様、いわゆる待機者がたくさんいるのだと何かで読んだことがあった。
「入りたくてもなかなか入れないって……オウルには、まだ空きがあるんですか」
結局、そこがクリアできなければ意味がない。オウルがどれだけいい施設でも、定員がいっぱいなら諦めるほかない。
しかし小駒はあっさりと言った。
「そうですね、結論から言えば、空きはあります」
「え?」
思わず聞き返した。
「それは、どうして」
どうして、というのも変な話なのだが、思わず言ってしまう。
小駒は少し考える顔をして、「そうですね、少々遠まわりになりますが、せっかくなので、背景から詳しくご説明しましょう」と話し始めた。
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