本島

 小雨が降る中を、私の乗る藤堂線の車両が走っていく。


 水曜の朝八時過ぎ。線路の脇、窓ぎりぎりまでせり出した木の葉が、雨のせいか灰色がかって見える。やがて電車は徐々にスピードを失い、大同駅に到着した。


 雨の大同駅は、それはそれで美しかった。晴れた日にはうるさいくらいの森も、雨の下では別物のように静かだ。


 駅舎からロータリーを覗くと、停まったワンボックスの中に小駒の姿が見えた。すぐにドアが開き、ビニール傘を持って、だがそれを広げることなくこちらに駆けてくる。


「おはようございます。これ、使ってください」


「でも、小駒さんが濡れちゃいます」


「山の生活に慣れてくると、こんなの雨のうちに入りませんよ」


 小駒はそう言って笑った。腕まくりした白シャツに灰色のスラックス。いつも通りの服装で傘を差し出す。


 小駒は私を嫌ってはいない。ふとそう感じた。


 受け取った傘を開きながら、小駒は私以外の女にどんな接し方をするのだろう、と考える。そう、例えば、見学の際に会ったあの瀬能とかいう職員。瀬能は、多少歳はくっているかもしれないが、都会にいても目を引くような美人だった。


 小駒は私のことを嫌ってはいない。自分に言い聞かせるように考える。小駒はあの時、私の手を握った。熱い手で、強く。


「あの」


 運転席に回ろうとしていた小駒の背中に、思わず声をかける。


「はい?」


 いつもの穏やかな笑みを浮かべ、小駒は言う。


 なぜだろうか、小駒の視線を受け止められない。小駒の背後で、ロータリーに沿って植わった柳の木の枝が、私を挑発するように揺れている。


「戸田さん? どうかされましたか?」


 小駒は心配そうに私の顔を覗き込む。私はそして、今日電車でこちらに向かう時にずっと考えていたことを言った。


「実は私、小駒さんに相談したいことがあるんです」



「雨だとね、調子悪くなる人、多いんですよ」


 引率係の職員磯野が、PCルームに入っていく三人の生徒たちの背を見ながら言う。砂山、徳武、坪家。今日は羽原と吉田が体調不良で欠席なのだ。


「そうなんですね。でも、三人も来てくれたら、十分です」


 私の言葉に磯野は頷き、人の良さそうな笑顔を見せながら、プレハブへと入っていく。私もその後を追い、傘を畳んで立てかけ、中に入った。


「さあ、始めましょう」


 室内に小駒の姿はない。だが、前回の経験が自信となっているのか、声はしっかり出た。


「ぱすこん! ぱすこん!」


「そうよ、今日もぱすこん、しましょうね!」


 声を張り上げる徳武に乗って、元気よく言ってみる。その口調に驚いたように磯野が顔を上げ、私が頷いてみせると、表情を和らげ頷き返してくれた。


 少しずつでいい。少しずつ、慣れていけばいいのだ。


 そうすれば、と私は考える。小駒の掲げる壮大なビジョンの実現に、私も協力できるかもしれない。


 心のなかで「よし」と気合を入れ、授業をスタートさせる。


 高齢者のクラスでもそうだったが、前回の授業でやったことを覚えている人はほとんどいない。そのため、授業は前回の復習から始める。その際、前回教えた技術や知識に少しだけプラスアルファの要素を追加すると、より効率的だ。


 今日は予め、フォルダの中にインターネットブラウザのショートカットを入れておいた。フォルダをダブルクリックで開き、そこに現れたブラウザのショートカットアイコンをさらにダブルクリックする。そうすれば画面が切り替わり、検索ボックスのあるポータルページが立ち上がる。


 やること自体に大きな変化はないから、生徒たちはすんなりできてしまう。それでいて、画面上では新たな変化が起こるので、見た目にも楽しいのだ。


 坪家は当然のように課題をこなし、先日左クリックの時点で苦戦していた徳武も、ぎこちなさはありつつも、クリアした。


「すごい! 徳武さん、すごいじゃない!」


 大げさに喜んで見せると、徳武も「おお、おお」と嬉しそうに肩を揺らす。


 今日も相変わらず車のカタログに見入っていた砂山が、様子をうかがうようにこちらを見たのがわかった。


「砂山さんも、やってみる?」


 声をかけると、砂山はハッと驚いた顔になり、それから首がもげそうなほど大きく首を振る。


「しない! やらない!」


 砂山は三十代半ばだが、知能レベルは小学校高学年程度だ。だがそれでも、知的障害の中では軽度の部類に入る。声が出せない、意思表示ができない、コミュニケーションの意思自体がないという人も大勢いるのだそうだ。


 諦めないぞ、と私は思う。そういった人に比べれば、砂山にはずっと大きな希望がある。私が先に諦めたら、何も変わらないんだから。


「そう。じゃあ、やりたくなったら言ってね。いつでもいいから」


「やりたくならない! やらない!」


 砂山は大声でそう言って、車のカタログにくっつきそうなほど顔を近づけてしまう。だがやはり隣が気になるのか、すぐに徳武の画面に目が行ってしまうのだった。それを見て、思わず磯野と顔を見合わせ笑ってしまった。


 笑っている自分に驚きつつ、これでいい、と思う。気負わなくていい。少しずつ、少しずつ、だ。



 授業が終わった後、私は自分用のパソコンでエクセルを起動させ、授業内容や個人の進捗を記録するためのフォーマットを作った。


 生徒には能力差があり、適性もそれぞれだ。二度授業を行って、それが実感としてわかってきた。だから、皆が同じことを同じように進める集団授業型ではなく、個別授業を五人同時にやる感覚で進めた方がいいと感じたのだ。その方が一人ひとりに合わせた指導ができるし、本人にも楽しんで参加してもらえるだろう。


 小駒からは、昼食後に相談を受けると言われていた。


 時間を割いてもらう代わりでもないが、頑張っている証拠のようなものをそれまでに作っておきたかった。


 いや、そうではない。私自身がそうしたかった。授業のことを考えると、生徒たちの成長のことを考えると、何より、小駒のビジョン実現のために、その方がいいと思ったのだ。

「よし」

 私はつぶやくと、エクセル上に組んだフォーマットに、砂山、徳武、坪家の状況を、習得スキルだけではなくその言動、性格まで含めて記録していく。


 吉田、羽原の欄には「欠席(体調不良)」と書き入れた。


 ふと、今後は欠席の詳しい理由を聞いておいた方がいいかもしれないと思う。メンバーは五名しかいないのだ。先日小駒に伝えたように、基本的に今のメンバーに対して全力で臨むという方針に変わりはない。だが、どうしても継続が難しいようなことが起きてしまった場合、メンバーチェンジを検討する必要はある。


 そういうことを考えながらレポートを作っていくのは、充実感があった。カルチャーセンターで担当している単純な事務作業より、ずっとやりがいがある。


 自分の頭が久々にフル回転している感覚を覚えながら、私は今日のレポートを完成させた。


 ファイルを保存し、プリンターで印刷する。ふとディスプレイの隅の時計を確認すると、夢中になっていたのだろう、既に十二時を大きく過ぎていた。


 慌ててクーラーを消し、プリントアウトした紙が雨で濡れないようクリアファイルに入れ、それをさらにバッグにしまった。外に出しっぱなしだったスニーカーは、いつの間にか本降りになっていた雨ですっかり濡れていたが、気にならなかった。傘を開くのも煩わしく感じながら急いで坂を駆け下り、住居棟に向かった。



 住居棟の食堂では、たくさんの利用者が食事をしていた。


 既に食べ終わっている人も多く、食器を片付け持ち場に戻っていく人もいる。


 昼食を食べ終えた後、お聞きしますね。今朝駅で相談を持ちかけた私に、小駒はそう言った。


 食堂の中に小駒の姿を探したが、見つからない。書類の作成にずいぶん時間がかかってしまった。


 今日の献立は、青魚の南蛮漬けと野菜サラダ、それからじゃがいも入りの味噌汁と麦ごはん。食べないのも失礼だとそれらを受け取り、じっくり味わいたい気持ちを抑え、急いで食べ終える。


 ひとまずはクラブハウスに行ってみよう。そう思いながら立ち上がり、食器返却口に向かって歩き出した時だった。


「戸田先生」


 後ろから声をかけられ、私はぎくりとして立ち止まった。


 ゆっくりと振り返ると、そこに知らない男性職員が立っていた。


 職員だとわかったのは、その中年男性がオウルくんTシャツを着ていたからだ。


 中肉中背、具合でも悪いのか顔色が悪く、神経質そうで、ぎょろりとした目が忙しなく動いている。


 呼び止めたのは自分なのに、居心地悪そうにしているだけで何も言わない。


「あの──」


 不気味に思いながら言うと、顔色の悪いその職員は、突然両手を私の方に差し出した。咄嗟に身体を引きかけたが、職員の手は私の身体ではなく盆に向かい、半ば強引にそれを奪い取ってしまった。


「ロッジに行ってください」


 職員が言った。抑揚のない声。


「え?」


「これはいいですから、ロッジに」


「え……あ、ありがとうございます」


 食堂の係か何かで、私の代わりに盆を片付けてくれるということなのだろうか。違和感を拭い去れない私がぼんやりしていると、男は微かに舌打ちのようなものをして、苛立ったように言った。


「小駒さんが待ってます。ロッジに行ってください」


「あ、ああ、はい。わかりました」


 私はそして、追い立てられるように食堂から出た。ロッジというのは、先日小駒が連れて行ってくれたあの建物のことだろう。


 小駒からの伝言ということなのか。釈然としない気分で出口に向かいながら、肩越しに振り返る。不気味な職員は滑るような独特の歩き方で返却口に向かっていた。


 その口元を見て私はぞっとした。彼は何かを喋り続けていた。

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