所長

「じゃあ、俺、そろそろ行くわ」


 昼休みが終わり、私たちが仕事に戻りしばらくすると、永遠はそう言って立ち上がった。お茶の入った湯呑みを、まるでビールを飲むようにぐいっと空にする。


「典子さん、ごっそさん。小夜子もまたな」


 先ほどの気まずい空気を忘れたように、永遠はケラケラと笑う。私は内心ほっとしながら「うん、じゃあね」と答える。


「伯父さん、行ってくるわ」


「ああ、あいつによろしくな」


 所長が新聞に目を落としたまま言い、永遠はビーチサンダルをつっかけると、片手をひらひらと振りながら出ていった。


「あいつって?」


 所長に聞くと、「永遠の親父さ。私の弟でもあるけれどね」と答える。どうやら永遠は、今から父親に会いに行くらしい。


「永遠のお父さんか。そういえば会ったことないな」


 永遠が私の家に遊びに来ることはあったが、永遠の家には行ったことがない。いや、父親だけでなく、母親にも会ったことはない。


「雑誌記者をやってるんだ。日本全国、いや世界中を飛び回ってる。永遠に似て、根無し草でね」


「へえ、雑誌記者」


 所長は新聞をたたみ、鼻下までずり落ちていた黒縁メガネの位置をなおす。体格も雰囲気も全く違うが、やはり親族だけあって、よく見れば永遠に似ていなくもない。会ったことのない永遠の父親も、こういう顔なのだろうか。


「まあ、上品とは言えないゴシップ誌の記者なんだけどね。芸能人の噂を暴いたり、暴力団とか裏社会とかさ、そういう内容が多かったから、永遠はずっと親父の仕事を嫌ってたんだ。でも、何があったんだろうね、突然帰ってきたと思ったら、俺も記者になるだなんて言い出して」


「あ、それがさっき言ってたやりたいこと、ってやつ?」


 話を横で聞いていた典子さんが言う。


「うん。もう見習い的なことをさせてもらえるよう、頼んであるんだそうだ」


「永遠が記者……想像つかないな。だいたいあいつ、まともな文章書けるのかな」


「あら、私は似合うと思うけどな。なんか探偵とかさ」


「まあ、ゴシップ誌ってところが、確かに永遠っぽいですけど」


 あくまで永遠をけなしながら、ふと思う。先ほどの永遠も、今の私くらいの気持ちだったのだろう。別に障害者支援施設の仕事を貶めるような気はなかった。今更ながらに、過剰反応だったなと反省する。


「小夜ちゃん、ちょっと時間あるかい?」


 所長が何気ない様子で言い、ちらっと廊下の奥の方を振り返る。


「え? あ、はい」


 所長は典子さんに「ちょっとお願いね」と言って、席を立つ。典子さんも当たり前のように「ええ、ごゆっくり」と答える。


 席を立って先に行く所長の後をついていく。廊下を進み、角を曲がる。止まったのは、先日小駒と話をした応接室の前だった。所長はガラガラと引き戸を開けると、散らかった室内を見て「まったく、ここもそのうち片付けなきゃな」などと独り言を言いながら、「さ、座って座って」と奥のソファセットを示した。


 先日小駒が座っていた所に所長が、向かいに私が座った。所長はあくまでリラックスした雰囲気で、「ごめんね、さっきは」と話しだした。


「永遠は小夜ちゃんのお母さんの事情を知らなかったから。悪気はないんだよ」


「あ、いえ……そんな。私の方こそ大人気なくて」


「家族のことだもの、無理はないよ」


 思わずうつむいてしまう。数秒の沈黙の後、所長は言った。


「それで、お母さんの具合はどうなんだい?」


 顔を上げる。その目を見れば、興味本位ではなく本当に母を、そして私を心配してくれているとわかる。


「……実は昨日、家に戻ってきたら救急車が停まってて」


 分厚いレンズの向こうで所長の目が見開かれる。私はうつむいて、これを話していいのかどうかを考える。だが心は話したがっていた。父も……いや、誰も頼りにならない。


 母の自傷行為、救急隊、そして噛み合わない父との関係──私は話した。


 話が終わると、所長は大きなため息をついた。


「そうだったのか。とにかく、怪我の方は大丈夫なんだね」


「自分で引っ掻いただけの傷で、静脈の傷だから大したことないって、でも……」


 感情がこみ上げて、喉の奥からせり上がってくる。歯を食いしばった。そうしなければ、泣いてしまいそうだったからだ。


「でも、本当に見るべきはそこじゃなくて、心の傷の方だと言うわけだね」


 私は頷いた。そう、その通りだ。自傷による傷が浅くても、心が無事とは限らない。


「病院には行っているんだろう? 精神科──いや今は心療内科と言うのか」


「ええ。月に一度、心療内科に。薬をもらって、それはちゃんと飲んでると思うんですけど」


「でも、あまり効いているようには感じない?」


「どうなんでしょう。よくわかりません。でも、今回みたいなことは初めてで」


 所長が天井を見上げたのがわかった。お手上げ。それはそうだろう。所長は精神科医ではないのだ。いや、その精神科医も、どれだけ頼っていいのか怪しいものだ。


 ふと、昨日救急隊の岩井から聞いた話が頭に浮かぶ。思わずつぶやくように言った。


「人を死に追いやるのは、孤独なんだって」


「ん?」


「救急隊の人が言っていたんです。人を死に追いやる一番の理由は、孤独なんだって。……でも、私や父がずっと母についているわけにはいかないじゃないですか。どうしても母が一人になる時間は出てきてしまう。じゃあ私たちが仕事をしないで家にずっといればいいのかと言うと、それも違う気がするんです。うまく言えないけど、障害というのは本人だけじゃなくて──」


「家族にも負担を強いてしまうものだ、というわけだね」


 私は頷いた。身内が障害者になったのなら、他の者はすべてを犠牲にしてそれを支えるべき。そういう言葉は部外者にしか言えない。この問題はそれほど単純なものではない。


「あのね、差し出がましいとは思うんだが──」


 所長が言い、私は顔を上げた。黒縁メガネの中から、所長の目が見つめてきた。


「これはあくまで私の考えだから、参考程度に聞いてほしいんだけど」


「はい」


 私が頷くと、所長は私の顔を覗き込んで、言った。


「小駒さんに相談してみたらどうだろう。彼は障害者支援のプロなんだから」

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