永遠

「あれ? 所長、お出かけですか」


 鎌田カルチャーセンターには、入口を入ってすぐに事務所スペースがある。玄関脇のスペースに灰色のデスクを並べただけの、よく言えば開放的な、悪く言えば取って付けたような造りだ。だが、そこにいつもいるはずの所長の姿がない。


「そうなのよ、珍しいでしょ」


 そう答えた典子さんは五十代後半の小柄な女性で、もう二十年近くここで働いているらしい。白髪交じりの髪をひっつめにし、白いブラウスにスカートというような、地味ながら清楚な格好をしている。それでいて性格はサバサバしており、明るくて屈託がない。葛城所長同様、過去に一度も結婚したことがないらしく、もしかしたら二人は男女の関係だったのかもしれないが、実際の所はわからない。


「どこに行ったんです? もう外、だいぶ暑いですよ」


 言いながら靴を脱ぎ、自分の席に座る。


「うん、なんかヤボ用があるって、空港まで」


「空港? 何でまた」


 最寄りの空港まで、車で行けば片道一時間半はかかる。思わず典子さんの顔を見ると、なぜか含みのある笑みを浮かべ、「まあ、そのうちわかるわよ」と肩をすくめた。


「もう、何ですか」


「小夜ちゃん、きっと喜ぶわよ」


 結局はぐらさかれたまま一時間ほど書類の整理や電話応対をした。


 新しい講座の生徒名簿が届いていたので、そのデータ入力をのんびりと始める。来週から始まる「英語で着付け」なるユニークな講座で、応募した生徒さんの自己紹介シートの中には、以前私が行っていたパソコン教室の生徒さんだった人の名もあって、思わず頬が緩む。


 昼近くになると、開け放たれた入口から、熱せられた空気が入り込んでくるようになった。もはや初夏とは言えない。本格的な夏の到来だ。


「クーラーいれる?」


 頻繁に額の汗を拭う私に典子さんが声をかけてくれる。


「大丈夫ですよ」とやせ我慢をした時、建物のそばまで車のエンジン音が近づいてきて、止まった。


 すぐに玄関先に所長が顔を見せ、「やあ小夜ちゃん」と片手を上げる。


「あ、おかえりなさい」


 席を立って迎えに出ると、所長の後ろから、痩せて背の高い、ウェーブした黒髪を肩まで垂らした妙な男が入ってきた。


 上は白いタンクトップ一枚で、下は暑苦しいボロボロのブーツカットジーンズ。そのくせ足元はビーチサンダルだ。


 どう見てもまともな人間ではない。だがその奇妙な男は私を見ると、突然大声で「小夜子!」と怒鳴った。


「久しぶりじゃねえか。感動の再会だな」


 意味がわからず黙っていると、所長は嬉しそうに笑い、「永遠とわだよ」と言った。


「え、永遠? ほんとに?」


 言われてみれば、それは確かに永遠だった。葛城永遠とわ。高校時代の数少ない友人だが、卒業後は私が地元を離れたこともあり、連絡はとっていなかった。


「お前が伯父さんとこで働いてるなんてなあ。偶然もいいとこだぜ」


 永遠は葛城所長の甥だ。ここにバイトの面接に来た際、履歴書にある私の年齢と出身校を見た所長が「もしかして、葛城永遠って知ってる?」と聞いてきて、所長と永遠が親類だということがわかったのだ。


「あんたこそ、何突然現れてんのよ」


 私が言うと永遠はキヒヒと笑い、長い髪を手首につけていたゴムでひとまとめにする。顔が顕わになり、ああ、永遠だと思う。


 南国の人を思わせる褐色の肌と濃い顔立ち。私より頭一つ分背が高く、高校の頃は詰め襟の制服がよく似合っていた。もっとも、ボタンをきちんと留めているところなど一度も見たことはなかったが。


 私と永遠が一緒の学校に通っていた高校時代、私はかなりの人見知りで、うまく友達が作れなかった。クラスメイトたちからも半ば無視されたような状態で、学校で一言も言葉を発しない日々が続いた。誰からも話しかけられなかったし、自分から話しかけることもできなかった。毎日毎日、私は自分には価値がないのだと思いながら過ごしていた。


 一年の一学期のうちに、どういう理屈か、私はタバコを吸うようになった。自動販売機でキャスターマイルドを買った。微かにチョコの味のする煙を、おいしいと感じた。


 授業が終わると私は、学校からも家からも遠く離れた海浜公園まで自転車で行き、コンクリートで固められた人工の海岸に座って、海を見ながらタバコを吸った。自分を慰めているような、罰しているような、不思議な時間だった。父は既に仕事人間で、母も毎日ホームセンターで働いていたから、家に帰っても一人だった。それでもなぜか、家に戻りたくなかったのだ。


 そんな私だけの秘密の公園に、ある日学生服を着た痩せた男が現れた。突堤に腰を下ろし脚をぶらつかせながらタバコを吸う私の隣に、その男は何も言わずに腰を下ろした。そしてタバコの箱から無断で一本抜き出し口に咥え、「火、ある?」と言った。それが永遠との出会いだった。


「永遠くん、久しぶりじゃない」


 少し遅れて戻ってきた典子さんは、さして驚いた様子も見せずに言った。


「ああ典子さんじゃん。久しぶり」


 二十年も前から所長と働いているのだ、永遠と顔見知りでも不思議ではない。そして私は、今朝の典子さんの顔を思い出す。いたずらっぽい顔をして、「小夜ちゃん、きっと喜ぶわよ」と言っていた。これのことだったのだ。


「典子さん、永遠が来るって知ってたんだ」


 典子さんは「うん、知ってたの」と当然のようにいい言い、「麦茶でも入れようか」と、給湯室の方に戻っていった。



 すぐに昼の時間になり、私と永遠が近所のコンビニで皆の昼食を買ってくることになった。帰り道、袋の中から永遠が高校時代毎日のように食べていたコーヒーゼリーが出てきて、私は呆れると共に嬉しくなる。


 聞けば永遠はこの数年間、東南アジアを放浪していたらしい。バックパッカーというやつだろうか。仕事もせずフラフラと各国を回り、今日何の当てもなく帰ってきた。今は無職で、家もない状態だと言うから驚く。とりあえず落ち着くまで伯父さん、つまり葛城所長の家に居候することになっているんだと笑う。


 所長はここから徒歩十分ほどの場所に一人で住んでいる。マンションではなく庭付きの平屋だから、永遠一人ぐらいならどうとでもなるのだろう。


 カルチャーセンターに戻ってきた私たちは、事務スペースに皆で集まって弁当を食べ始めた。


「で? あんた仕事はどうするのよ」


「まあ、ちょっとやりたいことはある」


 弁当を一瞬でたいらげ、コーヒーゼリーを食べ終えた永遠は、今度は筒型のパッケージに入ったポテトチップスを開け、一気に十枚くらい重ねて口に運ぶ。これも高校時代から変わっていない。


「やりたいことって何よ」


「秘密」


「バカ永遠。ほんと変わんないんだから」


 思わず口調が高校時代に戻ってしまう。だが考えてみれば、こんな風に遠慮ない会話ができる相手は永遠しかいなかった。


 公園で知り合い、その後校内で再会し、以来私がクラスで浮いた立場であることも気にせず話しかけてきた。私が多少なりともコミュニケーション能力を身につけられたのは、悔しいがこの男のおかげだと思う。


「お前こそどうなんだよ。こんな寂れたとこでバイトなんてよ」


「ちょっと、失礼ね」


 典子さんが笑いながら言って、「小夜ちゃんは今すごいんだから」と付け加える。

「何? すごいって」


 永遠が次の十枚を手にセットし、口に近づけながら言う。典子さんは得意げな顔になって答えた。


「施設でね、先生を始めたの。私、応援してるのよ」


「施設? 先生?」


 なぜだか私は嫌な予感がした。オウルでの仕事を隠す理由はないし、典子さんの応援も素直に嬉しい。だが──


「施設って? 老人ホームとかか」


「違う。障害者の施設」


 私は自分の頬が強張るのを感じる。


「障害者? 何でまた」


 その軽い言い方に、楽しい気持ちが消えていく。


 永遠に悪気がないのはわかっている。だが、小駒の掲げる大きな理念、そしてオウルで出会った利用者たち、それに母のこともあり、私にとっては非常に重い話題なのだ。軽々しく扱ってほしくはない。


「ここに出入りしている施設の人が、誘ってくれたのよ。私も興味があったし」


「ふうん。障害者施設ねえ」


「障害者支援施設よ」


 永遠の言葉が終わらぬうちに訂正していた。その鋭い口調に、自分でも驚く。


 小駒と何度か話す中で、彼が「障害者施設」という言い方を好んでいないことに気付いた。小駒は必ず「障害者支援施設」と言う。どう違いがあるのかピンとこなかったが、今の私には分かる気がする。


「おいおい、なに怒ってんだよ。別にどっちだっていいだろ」


「私、真剣なんだから。そんな風に茶化した言い方しないでよ」


 私の言葉に、永遠が苦笑いして、なんだこいつ、というように所長や典子さんを見る。所長はどこか悲しそうな表情をして、「小夜ちゃん、ごめんね」と言う。


「永遠は別に文句を言いたいわけじゃないんだよ。悪気はないんだ」


 わかっている。わかってはいるが、どうしても笑顔が作れない。永遠はわけがわからないといった表情で私を見る。確かに、何も知らない永遠が理解できるはずもないのだ。


「実はね──」


 そして私は、母の事を話した。交通事故にあって顔にひどい怪我を負ったこと、それが原因で家に閉じこもるようになり精神を病んでしまったこと。所長も典子さんも知っている話だった。だが、卒業以来連絡をとっていなかった永遠には当然、初耳だろう。


「マジかよ、おばさんが?」


 学校でも話すようになった私と永遠だが、不思議と気が合い、学校外でもよく会うようになった。ほとんどは例の公園で一緒にタバコを吸うだけだったが、何度かは私の家にもやってきて、その懐っこい性格で母ともすぐに仲良くなってしまったのだ。


 あの頃の母は元気だった。明るくて行動的で、自慢の母だったと言ってもいい。その母が顔に大きな傷を負い、そして精神障害者となっていることに、さすがの永遠も驚きを隠せない様子だった。


「それで障害について考えるようになったの。だから今回の話も、いい機会だと思って」


 私の言葉に、誰も反応しなかった。タイミングがいいのか悪いのか、壁掛けの鳩時計が午後一時を告げた。

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