有給

 サイレンを鳴らさず遠ざかっていく救急車を見送り、家に入る。


 母の部屋は閉まっていた。それでも扉の前まで行き、「母さん?」と呼びかける。


 中から、今日はもう寝る、夕食もいらない、と返事があった。何かを言わなければ、と思うが、何を言えばいいのかわからない。結局私は「わかった。おやすみ」とだけ声をかけ、その場を離れた。


 玄関には、置きっぱなしだった買い物袋がある。冷凍食品のいくつかは既に溶け始めていた。途端に疲労が襲ってくる。


 重い袋を抱えてキッチンに行き、溶けかけたチャーハンや春巻きを冷凍庫に押し込んだ。シンクに置かれたままのコップを簡単に水で流し、買ってきたペットボトルから烏龍茶を注ぐ。


 ぬるい烏龍茶。一気に飲み干して、何度か咽た。


 そのままソファに倒れ込みそうになるのを、何とか止める。言わない訳にはいかないだろう。バッグから携帯電話を取り出し、階段を上っていく。通話履歴を表示させ、父の名前を選択した。


「──なんだ」


 十回近くコールしてやっと繋がった。午後六時少し前。まだ仕事中なのだろう、電話の向こうは騒がしく、一言目から邪魔するなとでも言いたげな高圧的な口調だ。


「大事な話よ。母さんのこと」


「……今じゃなきゃダメなのか」


 父には父の都合があるのだろうが、知ったことではない。「うん、ダメ」私は言う。


「何なんだ、一体」


 舌打ちが聞こえ、それでも電話の背景が徐々に静かになっていき、扉の開閉音を挟んで、何も聞こえなくなった。オフィスを出たのだろう。


「それで?」


 私は事情を話した。時系列に沿って、救急車の赤い光が見えたこと、救急隊の岩井と佐野、母の怪我の状態、不搬送対応のサインをしたこと、それから最後に岩井がしてくれた話まで。


 父はそれを黙って聞いていた。話を終えて私も黙ると、母に対する感想は一切ないまま、「それで、どうするんだ」と言う。


「どうするって、どうするのよ」


「俺に聞かれても……世話をしてるのはお前だろ」


 一気に頭に血が上った。


「……もういい」


 私は一方的に言うと、返事を待たずに電話を切った。



 父が帰ってきたのは、夜十二時近い時間帯だった。当てつけのつもりか、いつもより遅いくらいだ。


 一言言ってやろうと一階で待っていたのに、外で車のライトがチラチラしたのに気付くと、顔も合わせたくないと思い、二階に上がった。


 二階には二部屋しかなく、それぞれ私と父の自室である。階段を上り終えた突き当りを左に進めば私の部屋、右に進めば父の部屋だ。


 自室の扉を開け、中に入る。


 シングルベッドと丸いちゃぶ台、背の低い洋服ダンス、それからデザインに使っていたデスクトップパソコンが一台。


 階下で玄関を開ける音がした。父だ。いつもの通りリビングに行くと思っていたが、なぜか階段を上ってくる。ギシっ、ギシっと音がする。


 そして父は、私の部屋に来た。ドアをノックし、「おい、俺だ」と言う。


 驚いて扉を凝視する。戸惑いを覚えながら黙っていると、ゆっくり扉が開けられた。


「なんだ、起きてるんじゃないか」


 灰色のスーツ。液体整髪料で撫で付けられた七三分けの髪が、少し乱れている。ベッドに座る私を見下ろして、「明日、有給を取ってきた」と言う。


「は?」


 思わず聞き返す。父はなぜか不満げに、「だから、有給だよ」と続ける。


「会社を休んだんだよ。母さんのためにな」


 父は迷いなく不満を露わにした。どう受け止めていいのかわからず私は黙った。いや、言葉が出てこなかった。


「何だその反応。一日休むのがどれだけ大変かわかってるのか?」


 どこか得意気に、私を馬鹿にするように言う父に、吐き気を覚えるほどの嫌悪を感じた。


 そして、どうしようもなく、悟った。


 この人は本当に、仕事以外のことが何もできないのだ。


 人生を仕事に捧げてきた人。仕事以外の基準がなく、そして、相手も自分と同じ価値観の中で生きていると信じている。


 夕方の電話の時も感じた怒りが蘇り、一瞬で悲しみに変わっていく。


「……わかった。じゃあ、明日いろいろ話そう」


 これ以上話していたくなかった。話しても無駄だと思った。母のことに関して、この人は何の頼りにもならない。父はふん、とあくまで被害者ぶりながら扉を締めた。ダン、ダン、ダンと音をたてて階段を下りていく。


 ため息すら出なかった。酒に酔ったような感覚があった。もういいや、とマットレスに転がった。眠気が襲ってきていた。現実逃避のための眠気だという自覚があったが、抗う気にもならなかった。



 いつもよりも早く目が醒めた。感覚でそれを自覚する。


 手を伸ばして携帯電話を探り、画面を開く。まだ朝の五時過ぎだった。二度寝を考える前に、母のことが浮かんだ。


 寝ぼけた頭のまま階下に下りる。母の部屋の前に立ち、扉に耳を近づける。微かにテレビの音が聞こえてきた。


「母さん?」


 声をかけるが、返事はない。今更のように緊張が押し寄せる。母が死んでいたらどうしよう。爪で腕を引っ掻く程度ではなく、動脈に達するような自傷をして、本当に死んでしまっていたらどうしよう。


「入るよ」


 ドアノブに手をかけて開けた。開く瞬間に目を閉じた。薄目を開けるようにゆっくりと瞼を上げていく。母はベッドに腰掛けて、テレビを見ていた。リビングのテレビに比べて二回りほど小さい液晶テレビ。日中はリビングの大きなテレビを見るが、夜間や休日、つまり私や父がリビングを使う時間は、母は自室に戻ってこのテレビを見て過ごすのだ。


「起きてたんだ」


 ホッとして言うが、すぐにその左手に巻かれた包帯が目に入る。


「腕、どう?」


 母は思い出したように自分の左腕を見て、「ああ」と呟くように言った。


「救急隊の人が、痛むなら外科にいくといいと言ってたけど」


「いらないよ」


 その強気な物言いに普段の母を感じ、安堵を覚えた。よかった、と思う。


 昨日母が、どういう経緯で自傷行為に至ったのかはわからない。だが、その後すぐに自分で通報していることからも、死を覚悟しての行為ではなかったのだろう。岩井が言っていたように、何かのSOSだったのだ。


「そう、わかった」


 私はできるだけ平静を装って答え、「何か食べる?」と話題を変えた。母は昨日の夕方から何も食べていないはずなのだ。


「ああ、そうだね」


 母は素直に頷き、筋肉が落ちて痩せた腕をベッドに突っ張り、立ち上がった。


 日も昇らぬ暗い部屋で、母と二人でエビピラフとコロッケを食べた。


 普段はソファで食事をとる母が、珍しくダイニングについてくれた。私と向き合って、朝食にしては高カロリーなそれらを食べる。


 それだけのことで、なんとなく報われた感じがする。ピラフもコロッケもいつもの冷凍食品だが、美味しく感じた。食べ終えると電気ケトルで湯を沸かし、二人分のコーヒーを用意した。母の前に置くと、黙って手を伸ばす。


 しばらく二人で、黙ったままコーヒーを飲んだ。


 母は以前から、コーヒーが好きだった。少しだけ、昔に戻った気がする。自分の頬が緩んでいるのを自覚しながら顔を上げると、そこには、顔の右半分に大きな傷を負った、寝癖だらけの母がいた。思わず視線を逸らす。


「父さんは?」


 母の方から声をかけてきた。


「え?」


 動揺を悟られないよう、聞き返す。


「父さん? 父さんが、どうしたの」


「もう、起きる時間だろ」


 母は顎で壁掛け時計を示した。あと数分で六時になるところだ。確かに普段なら、父はもう起きてきて、出勤準備を始める時間だ。ここから職場までは一時間以上かかる上に、仕事人間の父は始業時間よりずっと早くに出社する。


「父さん今日、有給とったんだって」


 さすがの母も驚いた様子で私を見た。父が会社を休むなんて、あり得ないことなのだ。


「昨日の件、伝えたのよ。そうしたら、心配だから休むって」


 母はゆっくり視線を左右に揺らしながら、うつむいた。長年父に連れ添ってきた人だ。インフルエンザでも会社に行こうとした父が、自分のために有給を取ったと言われても、信じられないのかもしれない。だが、その表情はどこか嬉しそうでもあった。


 こういう小さなことを積み重ねていけば、母の心も回復するのだろうか。救急隊の岩井は、人を死に追いやるのは孤独だと言った。私や父が、母とこうして向き合う時間を増やせば、母は顔の傷を克服することができるのだろうか。


 だが、その岩井が、施設に行くのもいい方法だと言ったのだ。同じ問題を抱えた人、あるいはその家族を、恐らく何十人、何百人も見てきた岩井が、そう言った。


 結局、私にはよくわからない。そして、私以上に父は何もわからない。わかろうとしない。私は思わず天井越しに父の自室を睨んだ。起きてくる気配はない。まさか、休みだからと好きな時間まで寝ているつもりなのだろうか。


 そのうち私が身支度をしなければならない時間になった。今日はカルチャーセンターのバイトがある。父と母を二人にすることに不安を覚えたが、仕方がなかった。

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