救急隊
岩井が扉をノックし、ゆっくりと開ける。玄関にはもう一人の隊員のスニーカーが見えたが、本人はいなかった。私が岩井と話している間に、家に上がったらしい。
玄関に入り、母の部屋の方を覗いた。扉は半開きになっており、その合間からもう一人の隊員の背中が見えた。物音が聞こえたのだろう、隊員は背中越しにこちらをと振り返り、「ほら、娘さんも帰ってきてくれましたよ」と、岩井同様の落ち着いた声で言った。
岩井に促されるまま、両手に持った買い物袋を置いて、母の部屋へと移動する。近づくと、ベッドに腰掛けて呆然とした表情をした母が見えた。左腕、手首から肘にかけて真新しい包帯が巻いてある。
「戸田さん、では私たちは帰りますから。娘さんもあなたの味方ですよ。大丈夫」
隊員がよく通る声で言うと、母は視線を落としたまま何度か頷き、それから呟くように、「すみませんでした」と頭を下げた。
隊員は母の手を取り「とんでもない。お大事になさってください」と答えると、立ち上がった。そのまま部屋を出て来、立ち尽くす私に軽く微笑みかけると、「ちょっといいですか」と私をまた玄関へと促した。
言われるままに再度靴をつっかけ、外に出る。私の後から隊員──名札には佐野とあった──も出てきて、外で待機していた岩井と何事かを確認し合う。やがて岩井が差し出したバインダーを佐野が受け取り、私の前に立った。書類には「救急隊活動記録表」とタイトルがあった。先ほど岩井が記入していたものだろう。佐野は胸ポケットからペンを取り出すと何かを記入し、書類を裏返した。
「岩井からお聞きかと思いますが、お母様は、傷も浅く興奮状態でもないので、病院への搬送は必要ないと思われます」
「あ……はい」
「ここにサインを頂けますか?」
裏返された書類には、サインを書く場所があった。「救急不搬送承諾書」とある。文字通り、救急車で搬送しないことに対する承諾書なのだろう。一瞬、私のサインでいいのだろうかと思ったが、平日の今日、父はまだ家に戻っていない。
私は頷いて、自分の名前を書いた。佐野はそれを確認すると「ありがとうございます。それでは、私たちはこれで」と、踵を返しかける。
「あ……あの、ちょっと」
思わず声をかける。これからどうすればいいのか全くわからない。
「はい?」
佐野は日焼けした頬を緩めて微笑んだ。岩井にしろ佐野にしろ、救急隊がこれほど穏やかな人たちだとは知らなかった。柔らかい笑顔のせいで、つい甘えたくなってしまう。
「どうして母は、こんなことを」
一緒に住んでいる自分が、今日初めて母に会った救急隊員に聞くのもおかしいと思いつつ言った。しかし彼らが帰った後、私はどんな顔で母に会えばいいのか。
「……母は顔の傷が原因で、ああなったんです」
うつむいて、独り言のように言った。その一言で蓋が取れたように、ボロボロと言葉が溢れた。
「前は、どちらかと言えば明るい方で、アルバイトもしてました。ホームセンターの、接客の仕事です。同僚とも仲が良くて……でも、事故の後、あの大きな傷ができてからは、どんどん具合が悪くなって。もう、家から一歩も出ません。一日中、汚い格好のまま、ぼーっとしてテレビを見てます。ニュースとか、囲碁の番組とか、多分、それが見たくて見てるわけじゃなくて──」
佐野の靴の先は私の方を向いたままだ。顔を上げる。
「あの……私は母と、どう接していけばいいんでしょう」
佐野の顔に一瞬、驚きの表情が浮かんだ気がした。だがそれも一瞬のことで、先ほどまでの穏やかな表情がすぐに戻ってくる。
「そうですね、やはりお医者様に相談するのが一番じゃないでしょうか。信頼できるお医者様に」
佐野の言葉に、私は心が冷めていくのを感じた。
毒にも薬にもならない正論。そんな言葉が聞きたくて質問したのではなかった。
過去に何度か顔を合わせた心療内科の医師を思い出す。母の主治医となっている人だ。物腰は柔らかいが、柔らかいだけで、特に信頼できるという印象はない。「じゃあ、薬を出しておきますからね」と優しく言っておけば、私も母も納得して帰ると思っている。
私の表情を見て何かを察したのだろう、佐野は申し訳なさそうに視線を落とした。
「すみません。私たちは医師ではないので、専門的な助言はできないんです」
そう言われてしまえば、返す言葉はない。悔しいやら寂しいやら、よくわからない気持ちで私は黙った。
すると、一部始終を見ていたらしい岩井が近づいてきて、後は自分が対応するから、というような素振りを見せた。岩井の方が佐野より先輩なのだろう、佐野は素直に頷き、半歩ほど後ろに下がった。
「戸田さん、すみません。彼の言った通り我々は医者ではありません。だから、これは単なる個人的見解だと思って聞いてくださいね」
「え……あ、はい」
私が言うと岩井は頷き、何かを思い出すように、斜め上の方に視線を上げる。
「自傷行為による通報は、本当に多いんです。どれくらい多いかというと、通報の半分以上です。そして、そのうちのほとんど……実に九割以上が、命に別状のないケースです」
「え……」
思わず声が漏れた。通報の半分以上が自傷によるものだなんて、考えてもみなかった。しかし、命に別状がないケースが九割以上、というのはどういうことなのだろう。
「つまり、ためらい傷、というやつです。医療的に言えば静脈の傷ですね。人間は静脈を傷つけても滅多に死ぬことはありません。一方、動脈の傷は命に関わります。しかし、動脈というのは皮膚の下のかなり深いところを通っているので、簡単には到達できません。……そして実際のところ、自傷行為をする人はそのことを知っています」
そこまで言うと、岩井は待機していた佐野にバインダーを差し出し、先に救急車に戻っていろと指示した。佐野は黙って頷くと、頭を下げて離れていった。
私は佐野が門扉を出ていくのを見送り、言った。
「じゃあ、なぜ自傷なんてするんですか。死ねないって分かってて、どうして」
思わず強い調子で聞く。岩井は私の疑問ももっともだ、と言わんばかりに大きく頷いたが、その返答は思いのほか強烈なものだった。
「違うんです、戸田さん。自傷行為というのはそもそも、命を絶つことを目的にするんじゃない。私を見て、私に気付いて、というサインであることがほとんどなんです」
その言葉に、脳が痺れるような感覚を覚えた。
目眩がする、というのはこういうことを言うのだろう。私を見て、私に気付いてというサイン? そのために自分の体を傷つける? 母の今日の行動は、つまり、私や父に対するメッセージだとでも言うのか。
「……母も、そういうことなんでしょうか。気付いて、という」
呻くように言った。だが、岩井はあくまで微笑を絶やさない。
「私にその判断はできません。しかし、自傷行為の根本にあるのは人との繋がりを取り戻したい、という感情です。ですから、医者を頼ると同時に、家族でよく話をして、お母様としっかり向き合っていくことが大切なのだと思います」
岩井はそう言って、励ますように頷いた。何も言えずに呆然としていると、頃合いと思ったのだろう、「では、私もこれで」と門の方へと進んでいく。
遠ざかっていく背中を見ていた私の頭に、唐突にあることが浮かんだ。
「あの!」
門扉に手をかけていた岩井が動きを止め、振り返る。その顔に、微かに困惑の表情が浮かんでいた。だが、構わない。私は岩井に駆け寄り、言った。
「施設というのは、どうなんですか。あの、作業所みたいなところで、他の人と協力しながら、いろんなものを作る施設です」
「それは……私には何とも……」
「個人的な意見で構いません。教えて下さい。あなたはどう思うんですか」
岩井は小さく呻き、しかし私が視線を離さずにいると、「そうですね、あくまで私個人の意見ですよ」と念を押した上で言った。
「一つの方法としては、有効だと思います」
「え?」
「お母様の状態にも詳しくはありませんし、施設にもいろいろあります。だからあまり無責任にアドバイスすることはできませんが、一般論として、ご自宅にずっと閉じこもっているより、外の空気を吸って他の方と接しながら何かをするというのは、いいことだと思いますね。私の知り合いの中にも、そういう風にして回復された方がいらっしゃいますし」
「……やっぱり、そうですか」
頷くと、岩井も頷き返し、じっと私の顔を見つめた。何を考えているのか、その目が迷うように何度か動く。やがて岩井は小さくため息をつき、「一つ、忘れられない話があります」と言った。
「忘れられない話?」
「ええ、監視カメラの話です。──ご存知かわかりませんが、今は主に防犯上の理由から、街の至る所にカメラが設置されています。それで、ある山の中に有名な橋があって、そこにもやっぱりカメラが仕込まれている。なぜ有名かと言うと……いわゆる自殺の名所なんですね。我々の研修課程でそのカメラの録画映像を見るんですが、それは要するに、自殺の瞬間ばかり集めた映像なんですよ。何人も何人も、橋から飛び降りていく。それを長時間見ているうちに、彼らに共通点があることに気付くんです」
「共通点?」
「……全員、携帯電話を持っているんです。飛び降りる直前まで、あるいは飛び降りる瞬間も、携帯電話を持っていた。これ、よくよく考えると不思議なんです。なぜ死ぬと決めたのに携帯電話など持っているのか。その時、講師が言うんですよ。いいか、彼らは死ぬしかないというところまで追い詰められながら、最後まで誰かを求めていたんだ、って。皆、本当は死にたくなんてないんだって」
そして岩井は、絞り出すような声で、言った。
「いいですか戸田さん、人を死に追いやる一番の理由は、孤独なんですよ」
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