自傷

 藤堂線の駅で電車を降り、JR駅の方に歩いていく。


 たとえばテレビなどでこの風景が流れたら、なんだこの寂れた駅前は、と思うだろう。名古屋に住んでいる頃、ごくたまに帰ってきた時などは実際にそう感じていた。

 何の特徴もない、寂れた地方都市。学生時代は、こんな小さな町ではなく、もっと都会で過ごしたいと思っていた。だから名古屋に出て本当の人混みを目の当たりにした時は、とても嬉しかったのだ。


 だが、こうして山深い施設から戻ってくると、人が多いなと感じる。いや、人だけではない。ビルにしろ道路にしろ、至る所に掲げられた看板にしろ、人工物に覆われた町並みを何か不自然に感じてしまうのだ。


 たった一日働いただけじゃないか、と私は苦笑いする。オウルにいたのは半日程度に過ぎないのに。


 駅前の大通りを横切り、帰宅方向にあるスーパーマーケットに入った。


 カートを取り、灰色の買い物カゴをセットする。向かうのは冷凍食品売場だ。


 いくつも並んだ冷凍庫の扉を開け、見慣れたピラフやチャーハン、パスタなどの袋をカゴに入れていく。


 実家に戻ってしばらくは、自炊にも挑戦した。だがすぐに面倒になって冷凍食品ばかりの生活になった。どれだけ頑張って作ろうが、母は礼ひとつ言わないのだ。機嫌が悪ければ、まったく手を付けないこともあった。そんな状況ではやる気もなくなる。


 カゴはすぐに冷凍食品でいっぱいになった。それに二リットルの烏龍茶のペットボトルを二本加え、レジに向かう。若い店員が、大量の冷凍食品に驚いたように私の顔を見、すぐに目を逸らす。


 そういえば、オウルの食事は健康的だったなと思う。


 色の薄い、そして味も薄い料理の数々。だが、あの開放的な食堂の雰囲気もあってか、食べていて豊かな気分になれた。ジャンクな冷凍食品とは対極に位置する食事。人間は本来ああいうものを食べるべきなのだろう。特に母は、ただでさえ運動不足で不健康な生活を送っているのだ。


 そんなことを考えながら、私はスーパーを出た。



 両手に大きな買い物袋を下げながら歩くこと十五分、やっと自宅のある住宅街の入口に到着した。


 まっすぐ伸びた道路の左右に、百メートル以上住宅が並んでいる。どれも二十年以上前に建てられた、新しいとは言えない住宅だ。雲が多いせいか、あるいは湿った空気のせいか、いつも以上に暗い雰囲気だ。


 ふと、違和感を覚えて立ち止まる。


「何だろ……あれ」


 思わず呟いた。視界の先に、小さな赤い光が見えていた。チカチカと忙しげに点滅している。


 ──救急車だ。


 理解した瞬間、嫌な予感がした。


 足が自然に動き出す。焦りは苛立ちに、そして恐怖に変わっていく。


 両手にぶら下がる重い袋が煩わしかった。この辺りには老人も多い。別の家の誰かが具合を悪くしただけだ、そう何度も自分に言い聞かせながら、足を引きずるように進んでいく。


 だが、嫌な予感は当たった。救急車は自宅前の壁に沿って停まっていた。


 駆け寄る私の姿が見えたのだろう、救急車の中から隊員が一人降りてきて、軽く頭を下げる。


「あ、あの……何が」


「失礼ですが、こちらの方ですか?」


 隊員は落ち着いていた。灰色の作業服を着て、同色のキャップをかぶっている。


「そう……そうです……戸田です。何があったんですか」


「説明しますので、ちょっとここでお待ちを」


 頷くしかなかった。門扉を抜け玄関へと近づいていく隊員の背中を追う。玄関扉は半開きになっていて、その間から別の隊員の背中が見えている。


「母さんっ」


 私が叫ぶと、中にいる隊員が私を振り返る。近づいてきた隊員と二言三言言葉を交わすと、頷いて扉を閉めてしまった。


「母さんっ……ちょっと、何で閉めるの」


 思わず声を荒げて門扉を抜けた。体格のいい隊員が通せんぼをするように両手を広げる。


「落ち着いてください。心配はありません」


「心配? 心配って何よ!」


 苛立ちが膨れ上がり、口調が荒くなった。やはり母なのだ。母のために救急車が来ている。私は掴みかかる勢いだったが、隊員はあくまで穏やかに、「まあ、とにかく落ち着きましょう」と言う。


「確認のためにお聞きしますが、あなたは戸田佳代さんとはどういうご関係でしょうか」


 バインダーを取り出して聞いてくる。そこには書類が挟まれている。手にはノック式のボールペン。


「どういうって……娘です。戸田佳代は私の母です」


「ありがとうございます。あなたのお名前をお聞きしていいですか?」


「小夜子。戸田小夜子です。小さい夜に子」


 隊員の胸には岩井と書かれた名札がついている。年齢は私と同じくらいだろうか。どちらかと言えば童顔だが、その落ち着いた態度からは長い経験を感じる。岩井は頷き、手元の書類に何かを書き入れながら、「失礼ですが、年齢は?」と続ける。


「年齢……二十九ですけど」


 岩井は一瞬、書類から視線を上げて私を見た。すぐに視線を戻し、ボールペンを動かす。


「……それで、何があったんですか」


 苛立ちを覚えながら言うと、岩井は小さく頷き、やっと言った。


「約三十分前、お母様本人から司令課に通報がありました。自傷行為をしてしまったと」


 ──自傷。


 それを聞いた時に私に訪れたのは、驚きよりも、ある種の納得感だった。


「……それで……母は……」


「大丈夫です。命に別状はありません。ただ、少し興奮されていたので、救命士が対応しています」


 救命士というのは、先ほど玄関に見えた隊員のことだろうか。よくわからない。私は深呼吸した。二度、三度。それを見た岩井は、それでいいんです、と言いたげに微笑む。


「お母様は、衝動的に自分の体を傷つけてしまいました。ご自身の爪で手首から肘の間を引っ掻いたんです」


「……爪で、ですか」


 どこかでホッとする感覚があった。包丁やカミソリではないのだ。


「そうです。動脈には達していませんから、血液が薄く滲む程度です。でも、血を見て怖くなってしまったんでしょうね。ご自分で一一九に電話された。……これまでも同様のことがありましたか?」


 私は首を振る。実際に自傷行為に及んだのは初めてだ。だが、いつかこうなるのではという気もしていた。これまでに兆候がなかったと言えば嘘になる。母は常に情緒不安定で、自分の体を顧みないような態度を取ることも少なくなかった。


 岩井は「そうですか」と頷いて、書類に何かを書き込みながら話を続ける。


「それで我々が報告を受けまして、こちらに伺った次第です。すぐに救命士が応急処置をしました。といっても、血を拭き取り、消毒して絆創膏を貼った程度ですが。傷は浅いのでこれ以上の処置は必要ないでしょう」


 岩井は一瞬だけ後ろ、つまり玄関の方を振り返った。扉は閉まったままだ。それからまた私に向き直って言う。


「怪我がひどければ外科や内科ということになるんですが、自傷の場合は基本的に精神科の管轄になります。お母様はかかりつけの病院がありますか?」


「え? ああ……心療内科で薬をもらっていますけど。病院に行った方がいいんですか」


 言いながら、付き添うのは自分なのだろうなと暗澹たる気分になる。どう説明しろというのか。不安になって聞くと、岩井は迷うこともなく首を振った。


「いえ、その必要はないでしょう。怪我も大したことはないし、興奮なさっていると言っても、病的なほどではない。既に落ち着き始めているようですし、措置入院などの対応も必要ないでしょう。このまま自宅で様子を見ていただいて、心配なら明日、一般の外科に行ってください」


 岩井の声はあくまで落ち着いている。落ち着きすぎて、淡々としているようにすら思える。もしかしたら、こういうケースは多いのかもしれない。


「じゃあ、そろそろお母様に」


 振り返って玄関へと歩いていく岩井の後を私も追った。

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