ロッジ

 昼食後の午後はデザイン業務を、という話ではあったが、初日ということで、少しミーティングをしようということになった。


「ちょっといい場所にお連れしますから」


 いたずらっぽく言う小駒についていくと、作業棟の脇に、人が二人三人通れるくらいの狭い道があった。道は微妙に右にカーブしており、先は林の奥に消えている。小駒はその道を慣れた足取りで進んでいく。


 それに着いていくと、やがて数十メートル先に、一軒の家が建っているのが見えてきた。


「わあ、すごい」


 私は思わず声を上げた。


 ログハウスというのだろうか、丸太で組まれた家だった。その周囲を、大きなウッドデッキが囲んでいる。


「元々は前の理事長が住居として使っていたらしいんですが、今は私が借りていまして」


 小駒が言って、腰に取り付けた鍵束から、一本を引き伸ばして自慢気に私に見せた。


「え? 小駒さんあそこに住んでいるんですか?」


「ええ、そうなんです。私自身、住み込みの職員ってことですね」


 小駒はそう言って建物に近づいていく。私もその後を追う。


「私は事務長という立場上、外部の方と打ち合わせたりする機会も多くて。それで、応接スペース兼住居として、特別にここを使わせてもらっている次第で」


 小駒はウッドデッキに作られた数段の階段を登り、慣れた手つきで鍵を差し込んだ。



 建物の中は独特のにおいがした。


 大同駅を降りてすぐに感じたあの山のにおいに、ヒノキなのだろうか、どこか温泉を思わせる木の香りが混じっている。天井も吹き抜けになっているからか、室内なのにまるで屋外にいるような開放感がある。


 壁のないメインスペースの他に、正面の壁に沿うようにキッチンがあり、そこから奥へと続く廊下が伸びていた。その先にトイレとシャワールームがあるのだと小駒が教えてくれた。


「とりあえず座ってください。コーヒーはいかがですか」


 小駒はそう言って、部屋の中央に置かれた大きなソファを指し示す。赤いコットン生地のカバーがつけられた、丸みを帯びた可愛いデザインだ。


「あ、じゃあ、いただきます」


 ソファに腰を下ろして、あらためて室内を見回した。


 ソファの正面の壁には大きな窓があり、レースカーテンを透かしてすぐそばまで迫った森が見えている。その手前には懐かしいブラウン管テレビがあるが、ソファとはまるで違う方を向いており、長らく使っていないことが伺える。あまり熱心にテレビを見るタイプではないのだろう。私はなぜか、そんな所にも好感を覚えた。


 やがて香ばしいにおいと共に戻ってきた小駒は、コーヒーの入ったカップをソファ前のローテーブルに置くと、躊躇なく私の隣に腰を下ろした。


 その距離は一メートルと離れていない。私は思わず息を呑む。だが、小駒の方は何も気にしていないようだ。普段と変わらぬ口調で話しかけてくる。


「あらためて、どうでしたか? ここで行う最初の授業だったわけですけど」


「あ……ええと、そうですね。全然、まだまだという感じで」


 息を整えるようにしながら言った。すると小駒は、わざとらしいくらい大きく首を振った。


「いえいえ、とんでもない。先ほどもちょっとお伝えしましたけど、慣れない環境の中だというのに、素晴らしいと思いました。やっぱり私の目に狂いはなかった」


 小駒はそう言って、まるで自分の手柄だというように胸を張ってみせる。


「やだ、そんなこと」


 私はそう言って手を振ったが、悪い気はしなかった。小駒の太鼓判をもらったことで、私はむしろ、授業の内容について客観的に考えることができた。


 先ほどの授業の様子を思い出してみる。小駒が駆けつけてくれたこともあって、確かに途中からは、あまり緊張せずに進められたように思う。だがそれは私自身の振る舞いの問題であって、授業として課題がなかったわけではない。


「……でも、先は長いなと感じたのも確かです。マウスに触ってもらうことすらできなかった方もいましたし」


 生徒の一人、砂山のことを思い出しながら言う。車のカタログをずっと見ているだけで、目も合わせてもらえなかった。


 小駒は「ああ、砂山さんですね」と頷いた。それから視線を上げ、少し考えてから言った。


「彼は……もしかしたら難しいかもしれませんね」


 難しい。それはどういうことだろうか。


「難しい、と言うと?」


「彼にパソコンスキルを習得してもらうというのは、やはり無理があったのかもしれません」


「……」


 思わず私が黙ると、小駒は私から視線を外し、ローテーブルの上のコーヒーを手にとった。ゆっくりとそれを一口飲むと、あらためてこちらを見、私の目を覗き込むようにしながら言った。


「戸田さん、以前もお伝えした通り、私はこの試みで障害者の社会参加の新しいスタイルを作りたいと思っています」


「あ……はい、そう仰っていました」


 小駒は真剣な顔で頷き、続ける。


「つまり、彼ら全体の地位を上げていきたいのです。ですから、あの五名がパソコンを使えるようになれば終わり、ということではなくて、むしろそれをスタートにして、他の利用者にもどんどん続いてもらいたいんです。障害を持っている人たち広くパソコンを使ってビジネスを行えるようになれば、彼らの社会との接点が、今とは比べ物にならないくらい広く、そして深くなっていく」


 私は思わず大きく頷いた。


 そう、それが小駒が掲げるビジョンだ。会って数回の私でも、何度も小駒自身から聞いている。小駒の中では、それほどに明確なビジョンなのだ。


 だが小駒は視線を落とし、小さくため息をつく。


「……すみません、白状すると、砂山さんは難しいだろうとは予想していました。明るくて皆に愛される方なので、彼が興味を持ってくれれば他の人も動くんじゃないかとメンバーに選んだんですが、今日の様子を見ると、やはり私の人選ミスだったかもしれません。もし戸田さんの負担になるようなら、今からでもメンバー交代を──」


 明らかに無念そうに小駒がそう言った時だった。


「大丈夫です。私、頑張りますから」


 気づいたときには言っていた。小駒が驚いた表情で私を見る。


 考えて言ったというより、口が勝手に反応したという感じだった。


 だが、でまかせを言ったわけではなかった。 


「あの……なんていうか」


 私は慌てて言った。


「まだ……まだ答えを出すには早いと思います。彼も、砂山さんも、どうすればいいか分からないだけだと思うんです。焦らず、じっくりやっていけば、きっと面白さに気付いてくれるはずです」


「……そうですかね。砂山さんでも、大丈夫でしょうか」


 私の言葉を無言で受け止めていた小駒が、また視線を落とし、不安そうに言う。その様子に、私も少しムキになってくる。


「カルチャーセンターでもそうだったんです。お爺ちゃんお婆ちゃんたちも、できないうちはつまらなそうでした。でも、ほんのちょっとなんです。ほんのちょっと何かができるようになるだけで、変わるんです。今日のあの方もそうでした」


 もう一人の知的障害者、徳武のことが頭に浮かぶ。退屈そうだった彼も、ダブルクリックが成功したとき、声を上げて喜んでいた。


「だから……だからできるだけ、諦めずに頑張りたいんです。彼らより前に私が諦めてしまったら、何も変わらないじゃないですか!」


 思わず語調が強くなった。しまったと思って口をつぐんだが、小駒は信じられないという顔でこちらを見ていた。


「あ……」


 やってしまった。こともあろうに勤務初日に、上司である小駒に対してこんな言い方をするなんて。


 一気に広がっていく後悔を、自嘲のような感情が上書きしていく。


 考えてみれば、私はいつもそうだった。気が強くて、女らしい振る舞いが全くできない。すぐに感情的になって、言わなくてもいいことまで言ってしまう。


 そう、だから三十歳目前のこの歳まで一人なのだ。


 自然と視線が落ちていった。小駒によく思われたいと選んだ、お気に入りのセーター。その先で小さく縮こまっている自分の手が見えた。


 これで終わりだ。せっかく見つけた恋人候補なのに、付き合っている人がいるかどうかも知らないうちに終わってしまうなんて。


 だが、小駒から返ってきたのは、意外な言葉だった。


「そんな風に……考えてくださっていたなんて」


 小駒の声がした直後、さみしげだった私の手が、急に別の手に包まれた。


 えっと思って顔を上げる。私の手を握った小駒が、こちらをまっすぐ見つめていた。


「ありがとうございます。いや、驚きました。そんなにもこの仕事に熱意を感じてくださっているなんて。やはり戸田さんに頼んでよかった」


 そう言って小駒は満面の笑みを見せたが、私はその言葉の内容よりも、手から伝わってくる温度に硬直してしまっていた。


 熱い手。熱い男の手だった。

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