食堂

 プレハブに全員が移動すると、小駒が生徒を紹介してくれた。


 顔にデキモノのあるのが徳武とくたけ真司、四二歳。トレーニングパンツの男が砂山和希、三五歳。


 この二人が軽度の知的遅滞、つまり知的障害者で、いずれも十年以上このオウルで暮らしているということだった。


 そしてマッシュルームカットの男が羽原うばら孝、二九歳。背が高くガッシリした体つきなので、女性的なその髪型が妙に浮いて見える。メガネの二人は吉田昭一郎二六歳と坪家庄司四◯歳。これで五人。


「羽原さんと坪家さんは、パソコンに触ったことがあるって言ってましたよね」


 小駒が言うと、羽原と坪家は一瞬顔を見合わせ、それぞれ小さく頷いた。


「吉田さんは?」


 聞かれた吉田は小さく首を振る。


「砂山さんたちは、当然、ないか」


 小駒が残りの二人、知的障害を持つ二人に言うと、顔にデキモノのある徳武が「ぱすこん?」と聞く。


 小駒が微笑みながら「これこれ」と端末を示すと、徳武は「ぱすこん! ぱすこん!」と驚くほどの大声で叫び、楽しそうに笑った。「砂夫、ぱすこん、砂夫、お前、できるか」と、隣の砂山に声をかける。


 横から磯野が、「徳武さんは砂山さんを砂夫と呼びます。砂山の砂を取って、砂夫」と律儀に教えてくれる。だが、声をかけられた当の砂山は、眠そうな表情でぽかんと口を開けたまま何も反応しない。


「おい、砂夫! おいおい、おいおい、砂夫」


 徳武が身を乗り出し、叫びながら砂山の肩を掴み、激しく揺すった。次の瞬間、砂山は顔を大きく歪め、「うるさい、うるさい」と手を振り払い、今度は逆に徳武に掴みかかろうとする。


 すると、小柄な磯野が躊躇なく手を伸ばし、脂肪で盛り上がった砂山の肩を掴むと、体全体を使って器用に押し戻した。それを見た徳武は「あひゃひゃひゃ」となぜか大笑いする。


 黙って見ていた吉田がうつむき、笑い声を拒絶するように両手で耳をふさいだ。


 眼の前で展開される光景に、私はまた萎縮しそうになる。だが、小駒や磯野も、平然とした顔をしている。


「ちょっとお二人、最初くらい大人しくできませんか」


 小駒が呆れたように言い、それから私に微笑みかけ、言う。


「せっかくなので、授業のようなことをしてみましょうか」


「え……でも今日は顔合わせだけって」


「なんとなくでいいんです。何かやってもらった方が、彼らも集中できると思いますし」


 そんなことを言われても、何も準備してきていないのだ。しかし、できないなどと言えば、きっと小駒は失望する。


「わかりました。ちょっとやってみます」


 私は小駒にそう言うと、自分のパソコンモニターを彼らの方に向けた。その上でマウスを手に取り、皆に見えるように掲げる。


「ほら、この機械。これ、なんていう名前かわかりますか? マウス、って言うんですよ。ネズミに似ているから、マウス。ほら、ネズミに見えてきませんか?」


 私はそう言って、ネズミを真似て空中でマウスを動かしてみせる。鎌田カルチャーセンターで開いていた高齢者向けのパソコン教室。その初回の授業でもやった〝つかみ〟だった。


「このマウスを動かすと、あら不思議、パソコンの中の矢印も動きます。つまり、この矢印がネズミってことです。皆さんが動かすネズミが、パソコンの中にもいるんです。おもしろいですね」


 私は自分の言葉に自分で笑ってみせる。大切なのは、苦手意識を取り去ることだ。こんなフランクな感じで進めていけば、お爺ちゃんお婆ちゃんも受け入れやすい。


 ふと見れば、私の笑い声につられてか、徳武も「ひひひ」と笑っている。


「さあ、このネズミを使っていろいろやってみましょう!」


 こんな調子で私は初めての〝授業〟を進めた。


 マウスを動かすと画面の中の矢印が動く、フォルダをダブルクリックすると中身が表示される、そういった基本的なことを、狭いプレハブ内を移動しながら、一人ひとりの端末で実演していく。


 パソコンを触ったことがあるという羽原と坪家、そして先ほど耳を塞いでいた吉田の三人は、何の問題もないようだった。


 だが、半ば予想はしていたが、知的障害のある二人、徳武と砂山はダブルクリックでさっそくつまずいた。徳武は顔のデキモノを掻きながら「わかんねえや」と笑っている。マウスを乱暴に動かしているが、押しているボタンが違っているのだった。


「徳武さん、左のボタンを押してみましょう。進むには、左ボタンです」


 声をかけながら左ボタンを指差すと、徳武は不満気に私の顔を見上げたが、やがて言う通りのボタンを押した。


「そう、それを二回。カチカチッと」


 ダブルクリックが成功し、画面上にフォルダの中身が表示される。徳武は画面にひっつきそうなほど顔を近づけ、「おお、おお」と大きな声を上げて喜んだ。


 隣の席の砂山を見ると、既にマウスから手を離してしまっていた。どこに隠し持っていたのか、車のカタログらしいカラー冊子をキーボードの上に広げ、熱心に見入っている。磯野が冊子を取り上げようとするが、砂山はそれを振り払う。私も何度か声をかけてみたが、結局砂山は一度も冊子から目を離そうとしなかった。



 一時間半は、あっという間に過ぎた。


 生徒と磯野が先にプレハブを出ていき、それを見送った後、小駒と二人で坂を降りる。


「どうでしたか。お疲れになったでしょう」


「いえ……なんていうか、夢中で。気がついたら終わってしまっていたという感じです」


 小駒がなるほど、という感じで頷く。


「でも、さすがですね。正直に言って、もう少しひっちゃかめっちゃかになってしまうんじゃないかと思っていたんです。でも、ちゃんと授業になっていました」


 お世辞半分だというのはわかっているが、小駒に褒められほっとする。


 坂を降りると、正面に三つの作業所が見えた。そこから職員や利用者がぞろぞろと出てきて、住居棟の方に歩いていく。何だろうと思っていると小駒が言った。


「お昼休憩です。皆、昼食を食べに住居棟に向かっているんです。我々も行きましょう」


 そう小駒に促されて、私たちも集団の中に入り込むと、一緒に住居棟の方に歩いていく。


「ここには何人くらいの利用者さんがいるんですか」


 辺りを見回しながら聞く。小駒は相変わらずの穏やかな笑顔で答えてくれる。


「はい。定員は四十五名ですね。職員が二十五名程度なので、合計で七十名くらいでしょうか」


「あ、そうか。定員があるんですよね」


 私は言った。こういった施設は、受け入れていい人数に制限がある。以前母のことで施設を軽く調べたとき、そのようなことが書かれてあった。


「そうなんです。定員以外にもいろいろ細かいルールがありまして」


 小駒の返事に頷きつつ、頭のどこかで、オウルにいま空きはあるのだろうかと考える。だが、このタイミングで母のことを話す気にはならなかった。仕事に対する想いではなく、家族の事情のために依頼を受けたのだと思われるかもしれない。


 食堂には既に多くの人が集まっており、先日見たときにはなかった活気を見せていた。


 調理師らしき白衣姿の職員が、クロスの掛かった長テーブルの上に料理や食器を並べている。大きな鍋や重ねられたプラスチック皿が、学校の給食の時間を思い出させる。


 今日のメインはカレー風味のコンソメスープで、豚肉や玉ねぎ、そして大きなジャガイモが入っていて美味しそうだ。


 料理を受け取ると、私と小駒は空いた席に向かい合って座った。


 いただきますの号令などはなく、利用者や職員は席につき次第、各自で食べ始める。隣同士で話しながら食べる人もいれば、一人黙々と食べる人もいる。


「薄味なので、お口に合わないかもしれませんが」


 確かに最初の数口は、普段冷凍食品ばかり食べている私には、少し物足りない味付けだと感じた。だがその分噛む回数が増えるのか、いわゆる素材の味がだんだん感じられるようになる。冷凍食品の単純な味とは違う、野菜本来の甘味。


「美味しいです。こんな美味しいもの、久々に食べました」


 私が言うと小駒は嬉しそうに頷いて、このジャガイモはオウルで作っているものなのだと教えてくれる。


「そうなんですね。だから美味しいんですね」


 私は言った。お世辞ではなかった。料理は実際に美味しく、そしてそれだけではなく、私は気分がよかった。


 大きな窓の外にはキレイな森が見えていて、周囲にはたくさんの人がおり、笑い声や話し声が聞こえている。いつもの食事とは違う、と思う。これまでは毎日母と二人、あるいは父と三人、重苦しい空気の中で冷凍食品を食べていたのだ。


「なんだか、いいですね。自然がいっぱいの中で、皆で食事するって」


 思わず言うと、小駒は微笑んで大きく頷き、「わかります」と同意してくれた。


「ここで働き始めた頃、私もまったく同じことを思いました。どちらかと言うと都会で暮らすことが多かったので」


 聞きながら、そうなのかと思う。考えてみれば、小駒がどんな人生を送ってきたのか、私は何も知らない。この業界に転職してきて一年ほどだと言っていたが、その前にどんな仕事をしていたのか、なぜ転職したのか。どこに住んで、どんな生活を送っていたのか、聞きたいことは山ほどあった。


 いや、そんなことよりも──


 私はコンソメスープを口に運ぶふりをしながら、向かいに座る小駒の顔を盗み見る。優しげでどこか子供っぽくもある、少し女性的な整った顔。この人はこれまでどんな女と付き合ってきたのだろうか。そして今、付き合っている人はいるのだろうか。


 そんな私の気持ちになど気づくはずもない小駒は、話を続ける。


「でも、実はこういうタイプの施設はどんどん少なくなっているんです」


「え?」


「オウルのような郊外型の大規模入所施設を、国はもう作らない方針なんですよ。今はもう街なかの施設が主流になってきています。グループホームとかケアホームとかって聞いたことがないですか?」


「ああ、はい。なんとなく」


「簡単に言えば、都市型の小規模施設です。ここのように街から離れた山奥じゃなく、住宅街のど真ん中に作られるんです。オウルのような郊外の広々とした施設はやがてなくなってしまうでしょう」


「そうなんですか? なんだか残念ですね」


 私は本心で言いながら、周囲を見回す。小駒も私の視線を追い、小さくため息をつく。


「ええ、個人的にはあまり賛成できない流れです。都市型施設を否定するわけじゃないですが、やはり土地の余っている郊外と比べると小規模な施設にせざるを得なくて、小さな一軒家を改装して施設としているような所も多いんですよね」


「ああ、なるほど」


 私が頷くと、小駒は少し声を落として続けた。


「家が密集している場所ですから、そういう所は二十四時間外から鍵をかけて、外出もほとんどできなかったりします。窓に鉄格子がつけられている所もあるくらいで……まあ、周囲の住民を納得させるため、仕方がない措置ではあるんでしょうけどね」


 小駒はそう言って小さくため息を付いた。障害者の未来を真剣に考えている人だ。利用者がそんな扱いを受けていることに強い憤りを感じているのだろう。


 そういえば先日見学に来た際、駐車場付近で森の中に張られた有刺鉄線を見た。あれも周辺住民を納得させるために作られたものだと言っていた。まだ足を踏み入れたばかりの世界だが、やはり一筋縄ではいかないところがあるのだろう。


「どうして国は、そんな方針になったんですか?」


 なんとなく使命感のようなものを覚え、責めるような口調で言った。それに対応するように、小駒の言葉も強くなる。


「その方が作るのがラクだからですよ。大規模施設に比べてお金も少なくて済みますし。さらに言えば、グループホームなら社会福祉法人でなくても、つまりNPOや民間企業でも運営できます。要は間口が広がるんですよ。民間が施設を運営してくれるようになれば、国はある意味この事業から撤退できる。……それはそれで税金問題の解決策の一つなんでしょうが、少し無責任に過ぎる気はしますよね」

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