授業
オウルまでの電車は藤堂線というローカルな私鉄で、地元側の駅はJRとは少し離れた場所にある。寂れた裏通りの中にポツンと建つ、忘れかけられたような駅だ。
強い日差しに手をかざしつつ改札を抜けると、歳のいった胡麻塩頭の駅員が、笑顔で「おはようございます」と声をかけてくれる。
水曜の朝八時過ぎ。隣のJRのホームは今頃、サラリーマンや学生でごった返しているはずだが、こちらはのんびりした親子連れや老人のグループがいるくらいで、静かなものだ。
電車に乗り込みしばらくすると、ガタン、と床が大きく揺れ、ゆっくりと景色が移動を始める。それを窓の外に見ながら、オウルに向かう自分のことをあらためて考える。
父からの同意を得たその次の日、つまり先週の日曜、私は小駒に連絡を入れた。
受け取っていた名刺には携帯電話の番号もあったが、オウルのある場所は山の中過ぎて電波が入りづらいらしく、施設の固定電話にかけるように言われていた。
電話に出たのは真面目そうな声の男性で、小駒に用事があるのだと告げると、「転送をかけますので、少々お待ちくださいませ」と丁寧に案内してくれた。
やがて電話口に出た小駒に、働きたい旨を伝え、すぐにシフトなどについての打ち合わせをした。小駒から、今回の話の仲介役となってくれた葛城所長の手前、できればカルチャーセンターの仕事と両立する形でスタートしてもらえないか、と言われ、私もそれに同意した。
結局、 月水木の週三日をオウル、火金をカルチャーセンターで、ということで落ち着いた。
お互いの準備もあるだろうから、と初週の今週のみ水曜からの出勤になったわけだが、小駒はさっそくこの月曜火曜の二日間でパソコン教室の生徒選定を行い、五名のメンバーを選びだしたらしい。
障害の度合いは全員軽度。三名が精神障害者、二名が知的障害者だと言う。
授業に際しては職員一名が必ず同席し、不測の事態が起きた際にも対応してくれるらしい。午前中を授業、午後はデザイン業務、というざっくりしたスケジュールだけ決めておいて、あとは随時現場で相談しましょう、ということでまとまった。
印象としては、あっという間の出来事だった。所長から小駒を紹介されて二週間ほどしか経っていないのに、状況がどんどん変わっていく。
この日大同駅で降りたのは私一人だった。
心細さを感じる間もなく、先日も嗅いだ強烈な自然のにおいが襲ってくる。思わず目を閉じ、その暴力的なにおいを体に満たす。
目を開けると、視界は一瞬で緑色に染まる。いや、こうして間近で見ると、山の自然というのは実にカラフルだ。遠目からでは緑一色に見えるが、よく見れば黄色や茶色や、赤やオレンジなどが混じり合っている。そしてそれらが渾然となってこの生々しい、強いにおいを発しているのだ。
まるで異世界、そんなことを思う。
だが、気分が悪いわけではない。それどころか、蓄積していたストレスが洗い流されていくような感覚がある。この風景やにおいだけでなく、父や母との鬱屈した生活から物理的に離れている、ということがそう感じさせるのかもしれない。
駅舎を出ると、ロータリーまで小駒が迎えに来てくれていた。いつも通り白シャツにシワのよったスラックス、スニーカーという姿だ。町中で見れば野暮ったく見えるのかもしれないその格好も、こんな自然の中ならまったく気にならない。
◆
「鍵はここにありますから」
小駒はそう言って、クラブハウスの壁に備えられたキーボックスに手を伸ばす。ボックス自体は施錠されておらず、半開きの状態だ。
中には数十の鍵が吊るしてあった。様々な形状だが、全てに名札型のキーホルダーがつけられ、どこの鍵なのかわかるようになっている。
小駒はその中の一つを取ると、真新しいキーホルダーに書かれた「PCルーム」という文字を見せた。
「鍵を持っていく際は、ここに名前を記入してください」
キーボックスの下にはキャビネットがあり、その天板の上にノートが開いた状態で置いてあった。鍵の持ち出し及び返却を記録するものらしい。今日は小駒が見本として書き入れてくれた。それから振り返って「磯野さん」と小柄な中年の職員に声をかける。
「そろそろ皆を集めてもらえますか」
「わかりました」
磯野と呼ばれた男性職員が奥の扉から奥へと消えると、小駒は鍵を私に手渡し言う。
「磯野さんが生徒さんを集めて連れてきてくれます。戸田さんは一足先にPCルームに行って、準備を始めていてくれますか?」
「わかりました。でも、あの……小駒さんは来られないんですか」
不安を覚えて聞くと、小駒は申し訳なさそうな顔をした。
「すみません、どうしても対応しなければならない用事ができてしまって。でも今日は顔合わせだけというか、ちゃんとした授業はしてくださらなくてもいいので」
「そう…ですか」
これだけ大きな施設の事務長なのだ。きっと小駒は私が思う以上に多忙なのだろう。だが、やはり心細く、私は思わず視線を落とした。
「あ、でも、磯野さんは常にルーム内にいてくださいますから。業界歴の浅い私なんかよりずっと頼りになります。彼はベテランですし──」
思わず顔を上げた。小駒の慌てた口調に、どこかほっとし、そして同時に恥ずかしさを覚えた。勝手に小駒はずっとそばにいてくれるような気になっていた。私はここに遊びに来ているわけではないのに。
「すみません……いきなりこんなんじゃ、先が思いやられますよね」
肩を落とす私に、小駒は言った。
「そんなことありません。最初なのだからご不安になっても当然です。私のほうが至らなくて……本当に申し訳ない」
すまなそうに頭を下げる小駒を前に、私は何をやっているのかと思う。しっかりしなくては。小駒を失望させてはいけない。
◆
クラブハウスからPCルームまでは、歩いて一、二分で行ける距離だ。
私は大股で坂を登り、プレハブの前に立つ。私にとって、今日がオウルでの初仕事なのだ。立派にやり遂げて、小駒に安心してもらわなければ。
「よし」
注意深く解錠して扉を開けると、微かに湿気たようなにおいが、夏の日差しに熱せられた空気と共に漏れ出てくる。
靴を脱いで中に入ると、とりあえずクーラーをつけた。それから全部で七台ある端末を順に起動させていく。三台が二列、向かい合う形で置かれ、残りの一台は独立したデスクに置かれた講師用、つまり私が使うものだ。
とりあえず自分の席に座り、カバンの中からクリアファイルを取り出した。大同駅からここに来る車の中で小駒から受け取っていたものだ。中には一枚のプリントが挟まれている。
私が受け持つことになる五人の生徒の名簿だった。私はその名前一つ一つを、口の中で呟くように読んでいく。
徳武真司、砂山和希、羽原孝、吉田昭一郎、坪家庄司。
名前の隣には、年齢と障害の内容が書いてある。
年齢は二十代から五十代と幅広い。障害については、徳武と砂山が軽度の知的遅滞、他の三名は双極性鬱などの精神障害らしい。しかし障害について詳しくない私には、その言葉から具体的なイメージはあまり沸いてこない。
プリントを置き、落ち着かない気分で立ち上がると、窓際まで移動した。
やがて、窓から坂の下を凝視している私の目に、先ほどクラブハウスで会った職員、磯野を先頭にした集団が見えてきた。室内で彼らを待ち受けるのもどうかと思い、慌てて外に出て、スニーカーに足を突っ込む。
「すみません、遅くなりまして」
あらためて対峙した磯野は、五十代半ばくらいの小柄な男性職員で、着ているオウルくんTシャツより、地味なスーツが似合いそうな風貌だ。中小企業の経理課などにいそうな雰囲気と言えばいいだろうか。二、三分遅刻したことを何度も謝ってくる。
「あの、全然大丈夫ですから。本当に気にしないでください」
何度か言うと、磯野はやっと納得して、後ろで待機していた「生徒」たちを振り返る。私もそれに合わせて、磯野の向こう側にいる彼らを初めてしっかり見た。
顔に五センチ大のデキモノがある五十代くらいの男。灰色のトレーニングパンツの股間部に濡れたシミを作っている太った若者。マッシュルームカットのような髪型でピッタリしたパンツを履き、右手の指先をこすり合わせるように激しく動かしている男。そして、どこか似たような雰囲気のメガネを掛けた暗そうな二人。
先日見学に来た際にも、多くの障害者に会った。あの時はそれほど戸惑ったりはしなかったのに、自分の「生徒」として対峙した彼らに、私は驚くほど緊張した。何かを言わなければ、と思うが、喉に何かが張り付いたように声が出ない。
「あ……あの……」
生徒たちは私を見ていた。磯野も不安げにこちらを見ている。その表情に焦りはどんどん強くなり、ついに私は何も言えなくなってしまった。
その時だった。坂の下から誰かが小走りに駆け上がってくるのが見えた。
「ああよかった! 間に合いましたね」
そう言って顔を見せたのは、息を弾ませた小駒だった。
私がその時感じたのは、感動といっていいほどの喜びだった。どちらかと言えば小柄な、素朴な印象の小駒が、これまでの中で一番大きく、頼りがいのある男に見える。
「小駒さん……どうして」
「やっぱり心配で、用事はちょっと待ってもらうことにしたんです」
小駒はそう言って無邪気な笑顔を見せると、私の隣に立ち、生徒たちの方を向いた。
「今日からここで教室を開いてくださる戸田小夜子先生です。ほら皆さん、ちゃんと挨拶しましょう」
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