普段は人通りの少ない地元の駅前も、土曜日の今日は多少賑やかだ。


 大同駅からの電車を降り改札を出た私は、歩いて自宅に向かった。バスを使えば十分足らずだが、本数が少ないせいで待つことが多く、またそのせいでかなり込み合う。待つことも人混みも好きではない私は、多少時間がかかっても徒歩で帰ることが多かった。


 特に最近は、外に出ている方が心が休まるので、なおさらゆっくり帰りたくなる。


 今日はオウルの見学のために、仕事が休みの父に母の世話を頼んであった。とはいえ、母は身体機能にはほとんど問題がない。トイレにしろ入浴にしろ自分でできるし、食事を自分で用意することもある。だから、母の世話と言っても、ただ一緒にいて問題がないか見ているだけでいいのだ。


 さすがの父でもそれくらいはできるはずだ。だが、どこかに嫌な予感があった。仕事命で家庭を顧みない父と、家に引きこもり状態の母。相性がいいはずもない。


 果たしてその嫌な予感は的中した。


 家に到着し、ドアノブに手をかけたちょうどその時、家の中から悲鳴が聞こえた。


 慌ててドアを開けると、興奮した動物のような叫び声がぶつかってきた。目に飛び込んでくる風景に息を呑む。


 母が、玄関を入ってすぐの床に四つん這いになっていた。


 その顔は醜く歪み、涎の垂れた口から意味のわからない罵声が放たれている。その矛先であるはずの父は、体半分をリビングの中に残したまま、無表情で見下ろしているだけだ。何があったのかはわからないが、弁解する気も、介抱する気もないらしい。


 そのふてぶてしい視線が私に移動してきたが、視線を合わせるのも嫌で、私は母に駆け寄ると、震える肩を抱く。


 思った以上に痩せて固い感触に、思わず手を引きかける。母は体をこわばらせたまま、握った拳をフローリングの床に振り下ろし、何度も叩く。


「母さん……やめてっ」


 私は咄嗟にその手を掴んだ。子供がいやいやをするように母はのけぞり、首を振る。それから、それまでの罵倒の言葉とは雰囲気の違う、悲しみと苦しみに満ちた声で泣き始めた。私はとにかく、母を抱きしめた。リビングから出てこようともしない父を睨む。


「……何があったのよ」


「何がって」


 困惑というより、嘲笑するような表情を浮かべた父が答える前に、母は身をよじって私の手から逃れると、あっという間に自室の扉を開け、中に閉じこもってしまった。



「何があったの?」


 父と二人、ダイニングに向かい合って座り、あらためて聞く。グラスに注いだ烏龍茶を置いてやると、父は諦めたように首を振った。


「そんなこと、俺にもわからん」


 私が出掛けている間、父と母は家に二人だった。父はずっと二階の自室で本を読んでいたが、喉が渇いてリビングに下りた。コップに入れた茶を持って再び二階に上がろうとした時、ソファでテレビを見ていた母が突然喚き出したらしい。


「どうしてそうなるの」


「だから、わからないって言ってるだろ」


 言いながら父は、口元に自嘲的な笑みを浮かべた。何を笑っているのか。頭に血が上って、言葉がうまく出てこない。黙って父を睨みつけていると、さすがの父も居心地の悪さを感じたのか、母の部屋をちらりと見て、ため息をついた。


「どうしろっていうんだ。ああなったらどうしようもないのはお前も知ってるだろ」


「それは……」


 確かに、それはそうなのだ。母が感情的になった際のうまい対処を私が知っているわけではない。理不尽な罵倒に、思考停止状態になる気持ちも理解できる。私自身、母が突然起こす感情の爆発に、呆然と立ち尽くした経験は何度もあるのだ。


「お前にまで責められたらかなわん」


 父はまた馬鹿にするように言う。咄嗟に反論しそうになるが、奥歯を噛んでこらえる。ここで私が何を言おうが、この人は変わらない。


「それで? 施設見学はどうだったんだ」


 私が黙ったことで解放されたと思ったのか、父が話を変え、私もそれを受け入れた。


 私は今日見聞きしたことを説明した。普段なら小言を挟むような場面でも、父は黙って話を聞いていた。先ほどの母の発作を目の当たりにしたことで、施設への関心が高まったのかもしれない。オウルが作業主体の入所施設だと言うと、興味を惹かれたようだった。


「いいかもな。ただボーっとしてるより、母さんには何か仕事があった方が」


 私も同じ意見だった。今でこそ引きこもってテレビを見続けている母だが、元来は明るく活動的で、働くことも好きな人だったのだ。


「で、お前、そこで働くのか?」


 意外な言葉が出て驚きながらも、「うん、そうしたいと思ってる」と落ち着いて答える。


「そうか」


「いいの?」


 思わず聞いた。父は頬を歪めるように笑ったが、それから真顔に戻ると、小さくため息をついた。


「何かしら変えていかないとな。それくらい俺にもわかってるんだ」


 父はそう言って立ち上がり、リビングを出ると、一人で階段を上っていった。

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