ピアノソナタ

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ピアノソナタ

 「かわいいね」

 ミカはそう誰からも言われて育った。そのせいか、愛嬌良く育ち、誰からも好かれた。

 両親、父親は普通のサラリーマンだったが母親は中堅商社の社長令嬢だった。云うところの格差婚であったが、周囲の反対を押し切って二人は結婚した。そしてミカが産まれると最大限の愛情を持って手塩をかけて育てた。ミカが誕生したおかげでミカの母親の両親、すなわち母方の祖父母はミカの父親を赦し、結婚以来断絶していた交流がはじまった。

 ミカがいることで周囲が丸く収まり円滑に人間関係が進むようになった。だからこそ、両親だけではなく周囲の人々もミカを大切にした。

ミカにとってそれが天命だったのか分からないが、幼稚園に入園すると友達の中心になった。その頃から既にクラスメイトの男の子から「ミカちゃんのこと好き」告白されていた。

 母親はミカを大切にしたが、所謂教育ママではなかったし、その両親もミカにそれ以上特別なものを期待しなかった。それは父親も同様で、小学校は私学ではく公立の小学校へ入学した。

 過度な期待をかけられず、伸び伸び育ったミカは幼稚園時代以上に周囲の中心的人物となり、天真爛漫にすくすくと育っていった。

 小学校二年生とき、ミカはピアノを習いたいと母親に申し出た。どうも仲の良いクラスメイトに感化されたようであった。母親はまず、夫に相談してから、実家に置いてある自身が高校生まで使用していた、アップライトピアノを自宅へ運ぶように手配した。ピアノのはミカの誕生日に合わせて行われた。ミカはこわれ狂うくらいに狂喜乱舞し喜びを全身で表現した。引っ越しが終わり、調律師によるメンテナンスが終わると、母親が椅子に座り「昔みたいに弾けるかな」とつぶやきながら鍵盤に指を置いた。手馴しにエルガーの威風堂々を弾き始めた。ミカは今までと見慣れない母親が優雅にピアノを弾く姿に圧倒された。いや、まだそんなことも分からないだろう。ただ直感的に母親以外のものを感じ取った。

弾き終わると、母親はキョトンとするミカをそばに呼び寄せ、笑顔で頭を撫でた。その顔の表情はいつもの母親だった。その後はミカも判る童謡やアニメソングを弾いた。ミカはその傍らで歌い振りを入れながら小さく踊った。最後に母親は、シューベルトのピアノ・ソナタ四番を弾き、続けて同じくシューベルトのピアノ五重奏曲「鱒」を弾いた。ミカは再びキョトンとした表情になったが、その顔は今までになく真剣な眼差しだった。母親が弾き終わると、手を叩いて、大いなる感動を伝えた。

 それから母親の指導の下、ミカのピアノレッスンがはじまった。ミカはすぐにピアノが好きになり、母親もその才能を見抜いた。しかし、母親は自分がピアノで音楽大学へ進めなかった挫折もあり、その経験からミカに対し無理に押し薦めることはしなかった。自分のつらい挫折をたとえ才能があったとしても同じように味合わせたくないという親心もあった。ミカの母親は優しい人だった。


 中学校はミカの担任の薦めもあり、私立に通わせることになった。そこは中高一貫校であり、高校は芸術的分野に強く、このままピアノが大成すればその道も開けるだろうということだった。仮に駄目でもミカの成績ならばそのまま地元の国立大学に進学はできるだろうという見込みもあった。しかし、こんなことはもう少し時間が経過しないと誰もわからない。

「人生は長い。よってその計画も幼い頃から長期的に見ていかないといけない」という担任の言葉はミカの両親にとって、励み以上に重くのしかかった。ピアノを習っていた母親には仮にピアニスト、音楽家の道に進めさせるということは医者にするくらいの金が必要ということはよく理解していた。いくら実家がと言っても限度はある。しかし、ミカの祖父は鼻でその話を笑って、

「一度の人生だ。かわいい子には旅をさせなければ。お前も諦めきれないから、そう不安になるんだろう」

と母の不安を一蹴した。金はあるところにあるものなのだ。それにミカ自身やる気もあった。

 はじめての受験は心配することなく、十分な成績を持って合格できた。そして、入学と同時に専属でピアノ講師を雇った。音楽大学を卒業して楽器メーカーで調律師とピアノ講師を兼ねながら勤務している20代後半の若者を雇った。若く端正な面持ちのピアノ講師米山といい、まず母親が気に入り、すぐに家族ぐるみの付き合いに発展した。父親とも仲良くなり、ピアノ講師はミカの家族に解け込んだ。

 相手がイケメンだと練習も捗り上達も早くなる。母は母親以上に女としてそう考えた。ミカもそれに同調するようにピアノ講師に熱心に教えを請うた。

 それから、半年が経つ頃ミカに変化が起きた。

――初潮だった――

ミカはその頃からピアノ講師に淡い想いを抱いていた。しかし、年の差は十歳以上離れている。米山は恐らく自分を女と見ていないだろう……と考えた。考えると胸が苦しくなって辛かった。

 しかしそれとは別に米山の熱心な教育の賜物か、ミカの腕は目覚ましく上達していった。ミカは持ち前の愛嬌を持って、両親に年明けの発表会で賞が貰えたら、スマホを買ってもらうことと、米山には遊園地でのデートの約束をそれぞれ取り付けた。ミカは一層練習に励んだ。 

 演目は――ベートーヴェン ピアノソナタ第14番 『月光』――米山が用意した。ミカにはまだ難しいと母親は反対したが、米山は大丈夫だと押し切った。

 そして発表会当日。

ミカは母親がかつて発表会で纏った白いドレスに身に包んだ。その姿はとても中学生には見えず、両親やこの日に集った両祖父母はその大人びた姿を讃えた。特に両祖父母は大袈裟に讃えた。年寄は孫には大袈裟に甘いのだ。しかしミカは米山に一番褒めてもらいたかった。しかし、当の米山は発表会のスタッフの一人として会場に入っていたためにそこに立ち会えなかった。この発表会は米山が勤務する楽器メーカー主催の発表会であった。 

 ミカは米山を探しに控室まで降りて行った。そこには今日の発表会の為にミカと同じようにドレスに身を包んだ女性や一張羅を着た男性たちが待機していた。ミカの順番は最後のトリだった。ミカにとってはじめて大きな発表会でトリを務める。大役だったが、米山の「大丈夫」という言葉に励まされた。

 歩き回っていてようやく控室の一部屋に米山の姿を見つけることができた。しかし、そこにはミカとは全く趣の異なったか細く小柄な女性が一緒にいた。年齢はミカより少し年上だろうか。確かプログラムにはミカが一番年下のように記してあったはずだ。米山とその女性は一つの楽譜を顔を寄せ合い見ていた。恐らくイメージトレーニングをしているのだろう。

ミカは生まれてはじめて、他人に情念のような感情を持った。

――嫉妬――

本来ならばあそこに居るのはあの“女”ではない。私だ。

その“女”の指先には米山の指先が重なっていた。まだ、男性と交際したことがないミカでもそれがどういう意味を持っているかは理解できた。

ミカは自分の姿を米山たちに気付かれないようにその場をあとにした。その後は、家族からも離れて、廊下で独り、イメージトレーニングを繰り返した。

そして、ようやく自分の出番がやって来た。イメージトレーニングと言いながらも思い出されるのは米山とあの“女”の姿。米山と知り合って以来、米山の顔だけを視て練習してきた。それが今日の仕打ちだ。何故か自分が惨めに思えた。しかし、壇上で今弾いているあの“女”は決して巧くない。それは確信持てた。

――今日の主役は自分だ――

ミカは何度も自分に言い聞かせた。“女”の演奏が終わると割れんばかりの拍手が鳴り響いた。

“女”がすれ違い様に軽く会釈をした。ミカは勝てる気がした。

ミカは壇上に進み、椅子の前に立つと深々と会釈をした。客席からは拍手が湧き、あれだけ発表会前まで緊張していのが嘘のように感じた。今はただ、米山をあの女から取り返すことだけ。

椅子に腰掛けると拍手は止み、ミカは鍵盤に指を静かに置いた。演奏が始まると、空気が変わった。ミカは今まで米山から習ったこと、なによりも米山への想いの捌けを演奏に込めるだけ込めた。おおよそ九分間の演奏が終わった。ミカにとって永遠のような短い時間が終わった。身体中からは汗が吹き出し鍵盤に滴り落ちていた。

――これが、私の演奏だ――

ミカは立ち上り、最初以上に深く頭を下げると、人生で聞いたことがないくらいの拍手が鳴り響いた。拍手する観客の中には、立ち上がって拍手する者もいた。

 大賞はミカだった。家族、とりわけ母親は自分のこと以上に喜んだ。スマホは確約できた。あとは米山だ。ミカは米山を探した。誰よりも褒めて貰いたい。そして一緒にデートをしたい。頭の中は米山のことでいっぱいだった。

――しかし再びあの控室前に来たとき、女性のすすり泣く声が聞こえた。控室を覗くとあの“女”が泣いていた。そばに米山も一緒だった。米山は“女”の肩を自身の体に寄せて抱きしめていた。ミカはその姿を見て涙がこぼれた。

 それから発表会が終わると米山からミカのコーチを辞退したいという連絡が入った。もうミカに教えられるものは何もないと……

 それからミカは中学卒業まで学校の最寄りの駅の近くにあるピアノ教室へ通うようになった。米山がいなくなり味気のない日が続いた。高校受験は中学の成績を持ってそのまま進学できた。高校生になってからは、音楽の教師が専任になってレッスンをしてくれている。三十代半ば出ミカの母親と年は近いが、精神年齢が幼いのか、ミカと気が合う女性教師だ。レッスン中ももっぱら、他の教諭の悪口やクラスメイトの恋愛話に花を咲かせることが多くなった。それでも、米山の時と違いあの情熱的な日が戻ってこないと思うと、前よりも無気力な時間を過ごしているように感じた。

 高校一年も年末になり、めっきり寒くなった下校時、駅の構内にグランドピアノが設置された。地元の前衛芸術家がデザインした奇抜ピンク色に青色の斑点模様のグランドピアノ。ミカはまだ真新しいピアノに近づき椅子に腰掛けると肩にかけた鞄を隣のバスケットに静かに置いた。

鍵盤はまだあまり人が弾いていないのか、白く美しく光っていた。静かに鍵盤に指を置くと、目一杯力を込めて弾いた。

――ベートーヴェン ピアノソナタ第14番 『月光』――

ミカは髪の毛をかき乱し一心不乱で思いの限りを鍵盤にぶつけた。まだ新しいピアノはまだ音色が硬質でミカの心情と重なっていた。このやるせない思いを誰にもぶつけられず、無気力な時間を取り返すように、無心に弾いた。人々が足を止め、ミカの周りで演奏に耳を傾けた。駅の構内は寒かったはずだったが、演奏を終わる頃には汗をかいていた。白い息が丸い玉のように跳ねるのが見えるようだった。演奏が終わると拍手に包まれた。ミカは正気に戻ると深々と頭を下げた。しかし、拍手はいつまでも続き、手拍子になっていた。

――アンコール――

ミカは気を取り直して、ピアノの前に座ると、シューベルト、ピアノ五重奏曲「鱒」を弾き始めた。すると、ひとりの中年の太った外国人女性が近づいてきてリズムを合わせるように目配せして、大きな声で歌い始めた。



清き流れを光り映えて

鱒は走れり征矢そやのごとく

暫したたずみわれ眺めぬ

輝く水に躍る姿 輝く水に躍る姿

岸にうかごう魚釣人

巧みこらして思案なせど

水の清きに影はしる

糸を入るれど魚かからず 糸を入るれど魚かからず

心あせりて痴れ者

矢庭に川水をかき濁しつ

竿打ち込めば鱒は釣り上れり

惨しとわれは憤れど 惨しとわれは憤れど

(堀内敬三 訳)


その歌声ははじめてのピアノが来た日を思い出させた。母の弾く音色、そして優しい歌声。ミカは今日までの日が急にセピア色に染まるような感覚に見舞われた。

 演奏が終わると、先程の拍手よりも温かい拍手が二人に贈られた。ミカはその外国人女性と握手をしてお互いを讃えあった。

「Ich möchte mich dir wieder anschließen, wenn du ein Profi wirst」(あなたがプロになったらまた、ご一緒したいわ)

女性はそう言うと、ミカの頬にキスをしてその場を離れた。ミカは、何と言われたか分からなかったが、褒められているのはわかったので何度も「Thank you」と繰り返した。英語に弱い自分が恥ずかしかった。

ミカ、それはドイツ語だったんだよ。


 ミカはずっとピアノを独占していることに気づき、そそくさと鞄を持って立ち上がった。今度は若い男性がピアノに座ると「Get Wild」を弾き始めた。

周囲は退勤後のサラリーマンやOLの帰宅ラッシュの利用者で混みはじめていた。

 電車に乗ると、ミカの気持ちは晴れやかで優しい気持ちになれた。はじめて自宅でピアノの音色を聴いたことを思い出して胸が熱くなった。そして先程の演奏時の拍手はいつまでも耳に心地よく残っていた。


ピアノ・ソナタ おしまい 



作者より

 ミカの名前は当初マドカだった。すなわち“円”。あいだを取り成すえんとしたのだが、どうも出来すぎた話に出来すぎた名前が妙に気持ち悪くなり、ミカという名前に変更し、あえてバランスを崩してみた。





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