第9話 迷子とポトフ
彼女は星のお姫様である、それはもう完璧なほどに。
あの日、あの時、あの場面、私は星の彼方より不時着した彼女を指してそう結論付けた。
長く緩いウェーブの掛かった亜麻色の髪の毛、猫のように大きな瞳、無邪気な言動とその裏に見え隠れする深い海の底のような秘密。
彼女を形容する全てをひっくるめて、私はここに堂々と恥ずかしげもなく宣言しよう。私は彼女に電撃のような恋をした。
・・・
彼女の根城に訪れる。
その日は雨が降っていた、それはもう轟々と降っていた。直近の天気予報は全て快晴の筈だったのだが、昨日に彼女が予言した通りに雨が降っていた。
冬に降る豪雨というのも珍しい話だ、これほどまでに寒々しいというのに降り続ける雨は雪に変わることはない。
私は漠然とこの雨は彼女の連れてきた『未知』の一つではないかと考える、そちらの方がロマンがある。
「やぁ、待っていたよ」
彼女の船の戸を叩くと、そういって笑顔で迎え入れてくれた。どうやら編み物の途中らしかったのは彼女の背後に見えるソファの上に置かれた糸や布で見て取れる。
軽く見渡すだけでも船内は不思議と外から見るよりも広く見えた、その分生活感のなさが重力に逆らって浮かび上がる。まるで彼女の痕跡がないみたいだと足を踏み入れてそう感じた。
「随分と今日は速かったね」
「朝から豪雨の日は半休を取るんだ」
「半休って?」
「半分休みって事だよ」
「そう、素敵な響きね」
それはいつから決まったのか、どうしてそうしているのか分からない私のルーティンである。最初こそ職場の誰もが疑問に思っていたが、今では職場の人達は朝から豪雨の日は私が当たり前のように半休をとるものだと思っている。
私は自分で言うのも何だが勤勉に働いている、社風はイマドキらしく随分と自由なのもあり、そんなデタラメな理由で休みを取る私を誰も咎めない。上司なんかはきっと私が有給を消化するの嬉しく思っているだろう。
「今日のご飯は?」
彼女は餌を待つ犬のように私の周りをグルグルと旋回。しっしっ……と手で払いながら私はバックパックからいろいろなものを取り出す。
「キッチン、借りてもいいか?」
「うん、いいよ。何か作るの?」
「暖かいスープとグラタンを……ていうかオーブンある?」
「似たようなものならあるよ」
「なら……まぁ、大丈夫か」
彼女の宇宙船の中に入るのは初めての事だった、だが彼女が当然のように中に招くので私も当たり前のような顔をしてそれに従った。
私は持参した包丁やまな板で野菜を切る、今日はポトフを作ろうと思っていた……というより私ポトフ以外のスープを飲まない。
先程までは犬だった彼女は私が作業に取り掛かると今度は猫のようにソファの上で私をジッと見つめている。
「君は、どこから来たの?」
私は問いかけた、殊更自然な感じを装って革新を突く。
「さぁ、どこから来たのか分からないの」
彼女があっけらかんと答える。
私は再度問いかける。
「君は何を探して旅をしているんだい?」
「探していたはずのものを……探す旅をしているの」
頭が痛くなりそうな答えだった。
でもきっと、それが本当の答えだった。
私の人参を切る手が思考につられて静かに止まる。彼女がまるで歌うように語り出したから。ざあざあと凄い音を立てて鳴る雨音すら、彼女の声を際立たせるBGMのようでつい聴き入ってしまう。
「気がついたら宇宙に居たわ。生活に役立つことや無駄なことは覚えているのに、自分の名前も目的も帰る場所も思い出せないの」
「何となく思ったわ、きっと記憶を自分で消したんだなって。だから私は何も気にしないようにしたの。知らないふりをして、私は私を演じたの」
「でも何となく胸の奥が痛むのよ。それは思い出せないから痛むのか、それとも何かの病気なのか分からないけれど。なんだか、叫んでる気がするの」
「『帰らなくちゃ!』って、私じゃない私がそう言ってるの。思い出せないけれど、きっと大事な事なのね私にとって」
「それから幾つのも星を旅したわ。でも、それでも分からなくて次第に何だが億劫になって」
彼女は編み物を拾い上げて、語りながらその続きを作っている。それはきっとマフラーを編んでいるのではないかと思った、寒さに震える自分を暖めるために。
私は口を挟まず、彼女の話を聞きながらじゃがいもを1口サイズより少しだけ大きめに切りそろえる。煮込んでいる間に崩れてしまう分を考慮して。
「一人ぼっちでずっと宇宙を旅してきた。辛いことも沢山あった、楽しことはその倍はあったわ。知ってた? 私って、楽しむの案外得意なの」
「でもね、どれだけ感情が身体の中に溢れても胸の奥に穴が空いてるの……そうそう昨日見たドーナツみたいにね。だから、満たされない……それどころか恐ろしくて寒々しい。きっとどれほど感情を詰め込んでも、この喪失感が埋まることはないんだなって分かってるの」
ポトフに入れるのはキャベツではなく白菜が好きだ、個人的にシャキシャキとしている歯応えが好きで、私は自分で作る時は白菜を入れることにしている。キャベツで妥協することはない。
「1人は怖いよね、本当にそう思うわ。だからね、私はこの星に降り立って貴方に会った時、嬉しかったわ」
玉ねぎを切る、少しだけ涙が溢れた。同情したわけでも憐れんだわけでもなく、ただ単に生理現象としての温度のない涙が視界を覆う。
「泣いてくれているの?」
「玉ねぎが目に沁みるだけだよ」
「ほんとに?」
彼女は駆け寄ってきて「貸して!」と包丁を奪うと玉ねぎを切って、暫くして私みたいに涙を流した、でも私と違うところは彼女の涙が紅く見えた。
私の隣で彼女は語りを続ける。
「昨日、あの迷子の女の子を見た時にね。私、彼女に自分を重ねたの。でも、あの子には手を引いてくれる人が居て、帰る場所がある」
「それにねー、嫉妬したんだよね私」
持参した鍋にオリーブオイルを引いて、切ったベーコンと少量のニンニクを投げ入れた。少しだけ焼き色をつけてから切り終えた野菜を適当に全て鍋にぶち込む。
「『あぁ、羨ましい』って『私も帰りたい』ってそう思ったの。どこに帰ればいいかも分からないのに」
「帰りたいんだよ私は家に。でも、帰る家が何処かも誰が待っているのかも、自分が本当は何者なのかも忘れちゃった」
鍋にコンソメを入れて具材が被るくらいの水を入れる。あとは強火にしてコトコト煮込むだけ。
恐ろしいほどに寒くて香りのしない室内を茹だる野菜とコンソメの溶けるいい香りが覆い尽くして少しずつ暖める。
「いい香りがする」
「だろうね。自信作だ」
「なんで、今日は作ってるの? いつもは買ってくるのに」
「……寒い時は暖かい物を食べるんだよ、この星は」
「いいね、それ」
スープを煮込んでいる間に一服しようと彼女に許可を取り、窓辺に腰掛けて私は煙草に火をつけた。グラタンは事前に作って来ているので、今はライカに頼んでオーブン擬きで焼いてもらっている。
私は煙草を吸いながら雨を見つめて噛み砕く、彼女の話と煙草のフィルターをただ、ひたすらに。
「ねぇ、サン」
「ん?」
「私、知って欲しかったんだ」
煙草の煙が窓の向こう側に消えていく、途中まで見えていた煙は雨に打たれて地面に落ちた。
「君に私を知って欲しかったの、ただそれだけだったの。だから、君が気がつくようにサインを出した」
「やっぱり、そうだったのか」
タナカが言っていたことを思い出す。
彼女が本気で隠す気ならば、私では気がつけないほどに上手に隠すと。それ自体がサインであったのだ、私なら気がつくと彼女が信じていたサインであった。
「気がついてたの?」
「まぁ……広義的解釈をするとそんなとこ。でも、踏み込んでいいのか迷った……迷って惑って彷徨って、結局はこの有様だ」
両手をあげて降参のポーズ。
彼女は「なにそれ」と笑っている。
「君に出会って急にさ、寒くなったの。いや、急にじゃないなずっと寒かったんだ……それに気が付いただけなんだ」
彼女が呟く、消え入りそうな声で。
「一人ぼっちは寒くて怖いから……だから知って欲しかったの、君に」
「……」
フーっと吐き出したメンソールはいつもよりも何だかスッキリしない。肺の中に黒く重い何かを残して渦を巻いている。
私が今すべきことはなんだろうか、そうぼんやりと考えた時に不意に過ったのは私が自分に着けた偽名の元となったサン=テグジュペリの星の王子さま。
私の単調な日々に色彩と衝撃を与えた彼女。星空を見上げると彼女のことを思い出すようにしてくれたそんな星からやってきた迷子。
彼女にとって私はこの星にいる数多の人々と変わらない、でも彼女は私の目の前に降ってきて。それで彼女は私にとっての特別になった。
心の中で狐が言う。
「肝心なことは目には見えない」と。
私には責任がある、関わった彼女をここで突き放すことも、私には何も出来ないと匙を投げることできない。家に帰りたいと泣きそうな顔で袖を引く迷子を見捨てることなどできやしない。
「ライカ」
「うん?」
「探そう」
私は目を瞑ったままそう言った。力強く、自分自身を鼓舞するように。
「君の帰る家を探そう。僕に何が出来る訳じゃないけれど」
それでも……一人で寒いと震える彼女の隣に立って上げられるのは今この星では私しかいないのだから。
「それでも一緒に探すから」
彼女は私がそう言うと、静かに頷いてそれから優しく微笑んだ。
「ありがとう……サン。ありがとう」
その日、私は本当の意味で彼女と出会う。
私は今一度彼女に深く恋をする。
「おい……なんか煙が出てる!」
「え!? あっ! 火力調節を間違っちゃったかも!」
「おい!今回のグラタンは自信作なのに! 早くオーブン止めて!」
締まらない私達は雨の音を聞きながら、黒焦げになったグラタンと暖かいポトフを食しながらテーブルに広げた彼女の足先を辿る数々の宇宙的神秘を手に取ってあーでもない、こーでもないとしゃべり続ける。
彼女は頬に雫が伝った、それが汗なのか涙なのかは今はもうどうでもいい話である。
・・・
「ただいま」
「おかえり」
軽くなった足取りで我が家に足を踏み入れる。
寒々しい外気とは一変して汗が出るほどに暖かい室内にはいつの間にか掃除機から体のパーツを取り戻したタナカがコーヒーを飲んでいた。
「聞けたかい、彼女のことは」
「あぁ、聞けたよ」
「どうするつもりだい?」
「探すことにしたよ、一緒に」
私がはっきりとそう言うと彼は「そうかい」と一言だけ呟いて、私の分のコーヒーを淹れてくれた。その口振りは心なしか綻んでいるように見える。
「ポトフあるけど食べる?」
「……君はポトフしかスープを知らないのかい?」
「これが一番美味しんだよ」
「まぁ、たまにはいただこう」
私は鍋を火にかける。彼が温度を感じられないと知っているけれど、私はそれでも鍋を温めた。
「ライカのことさ……」
「あぁ」
「聞こうと思ってたんだ、本当は」
私がそう言うと彼は少し驚いたように振り返る。
「でも、聞かないことにした」
「……」
「どうしようも無くなったら聞くかもだけどさ、今は自分で探してやりたいんだよ。彼女のために」
「うん、それがいいだろう」
私は彼の前によそったポトフを差し出した。
「答えが全て綺麗なものとは限らない」
「お前はまーたそういう気になる台詞を残す」
「性分だよ、見逃したまえ」
そう言って笑いながらポトフを一口。
「あぁ、美味しいなこれは。暖まるよ」
私は煙草に火をつけて「そうだろう」と呟いた。
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