第5話 船を漕ぐ、そして星に立つ

幼い頃、あれは小学生くらいの時だ両親に海に連れて行かれた記憶がある。

毛も生え揃っていないようなガキンチョの私は親譲の無鉄砲と内から湧き上がる正体不明の無敵感を身に纏い暴れ散らす悪ガキであった。


そんな私が生まれて初めての明確な『死』を感じたのがその日である、足の付かない海の向こうまで泳いでいたら高波に攫われて溺れて気を失った。

その時のことはあまり覚えていない、記憶が意図的に蓋をしているのだろう。後から聞いた話ではライフセーバーのマッチョなナイスガイに救出されて一命を取り止めたそうだ。


それ以降、私は海を酷く恐怖する。

当たり前の生物としての忌避反応だ、恐怖症とまでは行かないが記憶のある限り以降私は海に行ったことなど一度もない。

それがどうして……


・・・


「おぉ! 速い速い! ロマンだ! ロマンだね!」


「絶対違うぞ、その使い方。あと危ないから身を乗り出すな!」


はしゃぐ星のお姫様を連れ出して私は快晴の車道を走り抜ける。

まるで猫みたいに落ち着きがなく動き回るライカを注視しつつもアクセルは緩めない。首都高速を下って大きな長い橋を走り抜ける。彼女は見るもの全てに目を輝かせてキョロキョロしている、そのおかげもあってかあまり陰鬱な気はしなかった。


海に向かうまでの道のりは想像よりも開けていて音楽を流すスマートフォンの画面に表示される地図は先の先まで真っ直ぐな道。


「いい音楽ね」


「ジャズだよ」


「へぇ、体が揺れちゃうわ」


そう言って彼女は変なダンスを助席で踊っていた。


「音楽が発達している星は簡単には滅びないわ」


「へぇ、そりゃ興味深いなセリフだな宇宙飛行士。その心は?」


「音楽ってのはどうしようもない感情の昂りのことを指すのよ」


彼女が首を振りながら笑う。


「音楽がない星は割と呆気なく滅びるわ、どれだけ綺麗で完成された星でもね。逆に言えば汚くて未完成な星でも音楽があれば意外と上手く続いてた」


「滅びた星も見てきたのか」


「二つ三つね。そのうちの一つがこの星」


大事そうに抱えていた『星の海』の瓶を彼女が爪で弾く。


「綺麗だったんだよねこの星、どうしようもないくらいに綺麗だったの」


ジャズがブルースへと切り替わる。

激しかった楽器同士のぶつかり合いを彼女の雰囲気がまるでプレイリストを操作したように引き連れてきたブルースは車内の空気を一変させる。静かだが暖かいそんな雰囲気。


「でも行き着く先がなかった。この星の生命には欲がなかった……もっと言えば感情が薄かった。『生きる』ことに全てを捧げて合理化し続けた星が行き着く先はどうしようもない行き止まりだった」


だから……と彼女が続ける。


「どうしようもない行き止まりにぶつかる前に彼らの一部は私に言ったの『この星から逃してくれ』って」


赤信号でブレーキを踏む。

彼女の掲げる瓶の中身がそんなどうしようもない『星の海』だと聞かされたところで私にはどうしてやれることもない、ただ何となく同情もしたくなかった。

私は音楽を切り替える、ブルースからビバップに。

アドリブ上等のセッションの方が好きなのだ、人生も音楽も譜面通りの合理化ばかりじゃつまらない。


「一個大事なことを聞くけれど。この星にその瓶の中身を解き放っても、何かが決定的に壊れたり終わることはないよな?」


「さぁ、わかんない」


「……えぇ、困るんだけど」


青信号、私はゆっくりとアクセルを踏む。

先ほどまでは軽るかったペダルが嫌に重くなっている、今私のこの足には人類の存亡がかかっていると言っても過言ではない。


「まぁでも大丈夫なんじゃない?」


「いや、ライカお前なぁ!」


「大丈夫だよ、彼らの絶対目的は『生存』であって『侵略』じゃない。生きるために……生きていくために状況に応じてアドリブ使って適応するよ、きっとね」


「希望的観測すぎるだろ、これでもしなんかあったら僕殺されるんじゃないの」


「まぁ、バレないでしょ」


「いやそれでセーフとはならないよ絶対」


「ていうか海はまだ?」


「自由だなぁ。もう後十分もかかんないよ」


片手でハンドルを持って、空いた手で胸ポケットから煙草を取り出して火を付ける。今更ながらに海が近づいているという事実と、もしかしたら今から地球を滅ぼすかもしれないという妄想で靄のかかる思考をクリアにしてくれるのは煙草だけである。


「嫌そうな顔してる割には楽しそう」


「ワクワクはするよ、野次馬根性だけどね」


好奇心は猫を殺す、けれど好奇心の果てに殺されるのなら……『未知』の中で死ねるならそれはそれで悪くない死に方なのではなかろうか?


「ロマンだろ?」


「使い方あってるの?」


ケラケラと笑いながら彼女は鼻歌混じりにそう呟いた。



・・・



「ウオォぉぉぉ!」


近くのコインパーキングに車を止めて海への整備されていない一本道を通り抜けるとそこには青く佇む海があった。

彼女は私になんて目もくれずに奇声をあげて海への道を駆け抜ける、まぁなんとも元気が良くて結構なことだ。

そんな彼女とは対照的に私の心はブルーである、快晴の海の色ではなく曇天で、それでいて荒れている時の海の色。ベタつく潮風を肌と鼻で感じたあたりから私の心臓のドラムがアドリブで嫌なビートを刻んでいる、不協和音にも程がある。


「はぁ……」


ため息混じりに煙草を咥え、火を付ける。海が近づくたびに私の喫煙本数は右肩上がりで止まるところを知らない。何とか平静を保つための煙草も味もしなけりゃ息苦しいだけだった。


「遅いよー!」


遠く向こうで彼女が手を振っている。

シーズンを遠に超えた浜辺には人の影はなく、高い壁の向こう側の隣の漁港の方にはチラホラと人がいる。


「君が速いんだよ。んで、ここから先はどうすんの?」


「あっ! 見て見て! すっごい綺麗な貝殻」


「……そうかー、綺麗だなぁ」


こうなると彼女は満足行くまでテコでも動かないだろうなぁ、そう思いながら辺りを見回すとシーズン中の海水浴客がどこからか引っ張ってきて置いて行ったであろう座れそうな大きな流木があった。

彼女が放り投げた『星の海』の瓶を回収して腰をかけ、彼女が満足行くまで煙草を吸っていよう。


・・・


私はハッとして目を開いた。

そこは大海原のど真ん中、見渡す限りの海である。見上げれば満点の星空で道標みたいなオリオン座だけが目視できた。下を見ればどうやら私の現在地は小船の上らしく頼りなく波に打たれては揺れている。


「……」


吐き気がした、恐怖が喉の奥から迫り上がる感覚だ。

周りに陸の影も見えぬ、それどころか夜の闇が世界を包み込んでいて一寸先すら頼りない。私の乗せられている船は木製らしく揺れるたびにギィギィと不快な音で私の恐怖心をさらに煽る。


「煙草……」


唸るように呟いて胸ポケットに手を当てど、何の感触もない。

あれ、確かに前はあったはずで……


「あれ、前ってなんだ?」


私はここを知っている?

喉元まで迫り上がった恐怖に追いつくように『答え』もまた迫り上がってくる。


「あぁ……そうか、確か!」


答えを口走ろうとしたその瞬間。


『ありがとう、本当にありがとう』


頭上を何か巨大な影が通過する。


呆気に取られるその刹那、明転。


・・・


「何で寝てるの?」


揺り動かされ目を開ければ快晴。太陽光が無防備な網膜に突き刺さり私は何とも間抜けに「ぎゃあ!」と声を上げた。


「大丈夫?」


「……あれからどれくらい経った?」


「随分と。私が綺麗な貝殻をいっぱい集めているうちに振り返ったらサン寝ちゃったから」


現状を確認すると私はどうやら居眠りをしていたようで、流木から落ちて砂浜の布団の上で熟睡していたようだ。悪夢を見ていたのか首の周りには冷や汗にべったりと砂粒がついていて何とも不快な気分である。


「……あれ、なんか夢を見ていた気がする」


何だかとても恐ろしくて、それでいて何か大切な夢を見ていた気がするのだが一向に思い出せない。舌から言葉が飛び出る頃には夢の残滓は解けて潮風に乗せられたらしい。


「サンはさぁ、ここに来た意味わかってる? 遊びに来たんじゃないんだよ?」


「いや、待て! それは君が……いや、うんそうだな。もういいや」


彼女と言い争いをしたところで彼女の無邪気さの前ではどんな理論武装も意味を成さず、結果として私が折れることになる。ならば無駄な問答は省くに限る。


「サンが寝てる間に準備したから行こう!」


彼女は瓶を振りながら笑って見せる。

私も頷いて尻についた砂を落として立ち上がった。


「準備ってここでその瓶を開けるんじゃないの?」


「ここじゃ浅すぎるからね」


彼女は来た道を戻り砂浜と漁港の分かれ道まで足を進める。私は身体中の砂を落としながらその後を着いて回る。

スマートフォンを確認すれば私はどうやら一時間ちょっとも眠りこけていたらしい、その間彼女は貝殻を集めたりした後で色々準備をしたらしかった。


「おじさーん、約束通り借りるねぇ!」


「おーう、あんま遠くには行くなよぉ!」


漁港のおじさんとライカのそんなやりとりを呆然と見ながら、私の額に嫌な汗が伝う。

いや、まさかな。私の考えすぎだろうな。


「じゃ、行こうかサン!」


そう言って彼女は停泊してあった小型ボートに飛び乗った。


「……待て」


「待たない」


「待ってくれ! 頼むから! 色々と聞きたいことがある!」


「船は借りたの、ちゃんと話したら快く貸してくれたよ。免許? ってのも心配しないで上手く話はつけたし。操作とかも大丈夫、これぐらいの機械なら見ただけで大体の操縦方法はわかるから。他に質問は?」


なぜ彼女は私の質問を全て把握しているのか、免許は絶対持ってないから大丈夫じゃないと思うし第一にこの手の小型船舶ってそんな簡単に貸し借りできるのか? 疑問が頭の中で渦潮のように渦を巻く。というか何だその御都合主義の行き過ぎた展開は、私の眠ってた間に一体何があったのか! というか私は砂浜でも割と嫌だったのにそんな不安要素を抱えたまま大海原に漕ぎ出したくはない!

喉元まで出かかったそんな不平不満の数々を嫌いなものを食べていた学生時代の要領で咀嚼せずに飲み込んだ。


知らぬが仏、触らぬ神に祟りなし、ライカに逆らうべからず。


「……ナイデス」


「じゃあ行こうか!」


あぁ、好奇心は猫も人も殺すらしい。


・・・


海に漕ぎ出すのは気持ちがいいと、昔読んだ海外文学で言っていた。断固として否である、不自然なリズムで揺れる船体に私の体のリズムは崩壊の一途をたどり、次第に暮れていく夕陽がまるで砂漠の最後の飲み水みたいに嘆かわしい。


私はウロチョロと尻だけで動き回り続けた結果見つけた比較的揺れが少ない場所で目を瞑ってタバコを咥えた。


「何でそんな不貞腐れてるのよ」


「不貞腐れてるんじゃなくて怖いんだよ」


「何が?」


「海が」


「こんなに綺麗なのに?」


彼女が私の額を弾くので、恐る恐る目を開けた。そこには水平線の向こうに夕陽が沈んでいく美しい光景がある。

心の洗われる美しい景色だ、だが洗い流しただけでは私の心にこびり付く『死』への恐怖は拭えない。首筋に嫌な汗が伝う。


「綺麗でも、怖いよ。死にかけたから昔」


「……そう、それは簡単には楽しめないね」


彼女は先程まではしゃいでいたくせに、私がそういうと途端に潮らしくなる。


「ライカも死にかけたことあるの?」


「うん、何度もあるよ。この星に落ちてきた時も、死ぬかと思ったもん」


煙草の煙が真上に上る。先程まではまるで足跡のように船の後ろを着いてきてた筈なのに、それは船が静かに減速している証拠であった。


「怖いのに旅を続けるのかい?」


「死ねないの私。何でか知らないけれど」


いつもなら冗談だと一笑するような言葉が彼女の真剣な表情と相待って説得力を帯びている。まるで本当に死ねないみたいな口振りだった、死に目に遭ってきても死ねなかったと言わんばかりの瞳だった。


「ま、冗談だけどね」


彼女はまるで劇がかった口ぶりで戯けて見せる。


「でもね、死っていうのは怖いものよ誰だって私だって、違う星の彼等だって」


瓶を掲げる。


「でも、形あるものには終わりがあるわ。どれだけよくできた物語にも、どれだけ心を揺さぶる音楽にでも終わりはあるから。少しばかり寂しいけれど『あぁ、よかった。満足した』って強がりでもいいから笑いたいじゃない」


彼女は笑う。

まるでずっとずっと歳上みたいに、その口の端に哀愁と憐憫を漂わせて。


「ただ怖がるだけじゃ面白くないよ。仮に今すぐ死んじゃうとしても、こんなに綺麗なところで死ねるんならさ、それはそれでいいエンディングだと思わない?」


「……少し思うけれど。やっぱり怖いし死にたくないよ」


「えぇー、私結構良いこと言わなかった?」


「どっかで聞いたことある気がしないでもない」


「何だとぉ!」


「でも、そうだね。怖いけれど、目を瞑るのはやめにするよ」


私が言うと、彼女が笑う。

そうして彼女は不敵に笑うと私に立ち上がるように促した。


「良い子にはご褒美をあげるよ」


「チョコレートがいいな、とびきり甘いやつ」


「残念、甘いものじゃないけれど。きっとこの星で君が有史以来初の目撃者になれるよ」


そう言って、彼女は瓶のコルクに手をかける。

少しだけ力をこめて彼女がコルクを引き抜くと……


















バチンッ! と閃光が走り私は閉じないと言ったばかりの瞼を反射的に閉じていた。ふと目を開けて足元を見れば気がつけば満点の星空だ、先程までは夕陽が綺麗だったのに。それに何だか足元が落ち着かない。

ふと辺りを見回せば私の頭上には海がある。

思考回路が明確に一度止まって、再起動。そうして数分呆然として私は今の立ち位置を理解する。


私は星空に立っている。

見上げれば頭上に海がある。


「どう、すごいでしょ」


筆舌に尽くし難い神秘的な光景、何の比喩表現でもなく私の人生において最も綺麗で美しく心を揺さぶられる光景である。

恍惚としているであろう私の横で得意げにライカが笑った。


「本当に……言葉が出ないよ」


彼女が言っていた話を思い出す、この星を基準に見ればあの瓶の中の星は全てが真逆になっていると。


「見て、上」


足元の星空に気を取られていると、彼女が頭上を指差した。

見上げたそこには両の指で数えられる数の鯨のような巨大な生物が泳ぎ回っていた。


唸り声のような、鳴き声のような音が響き渡ったその後でライカは彼等に向けて手を振った。


「そろそろね」


彼女が言うと、まるで魔法が解けたみたいに辺りの景色は先程までの状況に戻っている。足元は船の床だしその下には海がある、空には雲がかかっていて海の向こうには夕陽が見える。


「今のは?」


「なんて説明すればいいんだろ。あの瓶の中には星があったでしょ? あの瓶の中身は実は瓶よりも広くて長くて大きくて、それを解き放ったから瞬間的にだけど逆流して侵食したの、ここら一体が瓶の中の星に」


だから、彼女は砂浜で瓶を開けるのはダメだと言ったのか。


「これをね、見せてもらう代わりに彼等をこの星まで連れてきたの」


「良かったの? 部外者を呼んでも」


「いいのよ。いい音楽を聴いた後は、誰かと語り合いたくなるものでしょ?」


そう言って瓶を私に差し出した。

私はそれを受け取りつつ、先ほどの『彼等』がどこに行ったのかと尋ねると彼女は首を傾げた。


「さぁ、もう行っちゃったんじゃない? この星のどこかに」


「そうなんだ」


「挨拶もなしなのよね、彼等は」



・・・


帰りの道は行き道ほどの不安感も閉塞感もなかった、それを上回るほどに先程までの神秘的な光景が瞼の裏に焼き付いて離れない。その情景を思い起こすたびに自然に心臓のリズムが高鳴るので、不規則な船の揺れるリズムも気にならない。


私は欠伸混じりに胸ポケットの煙草を取り出して火をつけた。


「あ、そういえばさ。さっきこの船借りたおじさんに言われたんだけど『船を漕ぐなよ』ってどう言う意味?」


「簡単に言うと船を漕ぐってのは居眠りのことだね」


「あぁ、さっきのサンみたいな」


「例文があると理解が深まるよね、ライカの語学勉強の糧になれて嬉しいよ。でも、居眠りって普段より夢を……」


私はしばし思案する。

口を止めた私を彼女が不思議な顔で見つめているが、今は少し待ってほしい。


確か今朝もやや居眠り気味に眠った、先程のもだ。私はそこで夢を見たのだ、怖くて不快でそれでいて不思議な夢を。


「あぁ、そう言うことか」


解けて消えた夢の欠片が集まって、そうして合点がいった。

彼等の星では全てが裏返る、星も海も空も。もしかすると始まりと終わりも。

船を漕いでいる時にしか見ることのできない夢の中で、私は彼等に出会う前からこの結末を知っていたのだ。


「え、なになに!? 教えてよ! 何に気が付いたの!」


船を大海原に滑らせながら彼女が幼子のように喚く。

私は晴れやかな気分で煙草の煙を吐き出しながら、一つだけ彼女に聞かせてやることにした。


「お礼なら確かに何度も貰ったよ、彼等から」


「えー! 何それ! どう言うこと!?」


私の笑い声と彼女の喚き声が海の向こうに響いて消えた。




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