第4話 好奇心、鯨の夢

夢を見た。

私は一人小船に乗っている、それも最新鋭のやつではなく昔々のまるで絵本に出てくるような木製の小船に乗ってどこへ向かうでもなく大海原の真ん中に佇んでいた。

直感的に私はこれが夢であると気がつく。

根拠はない、ただどうしようもない確信がある。

なぜなら私は海が嫌いだから、こんなところに一人でいるはずも無い。そんなあまりにも頼りのない自信だけ。

目指すべき場所もわからない、ただ漂うばかりでこの夢の着地点がわからない。

胸ポケットには煙草が入っている。

「気の利く夢だ」

と独りごちて、私は煙草に火をつけた。

煙のいく先に沿って視線を上げると馬鹿みたいに大きな月が輝いていた。


そして声がする。


『ありがとう』


私は声の方に視線を落とす。

小船の底に何か大きな生物がいる。

その生物が楽しそうに身を捩って動き出せば小船が大きく傾いてあれよあれよと転覆してしまった。

頭の先までぐっしょりと濡れて、地面に足のつかない気持ちの悪い浮遊感に体の芯がゾワリと揺れる。顔面を覆うほどの波が次々と押し寄せるが不快感こそあれど恐怖はない。


上げた視線の先が大きく揺れる。

体の底から弾き出すような轟音と共に海中から突如として何かが迫り上がる。


それは一匹の鯨のような生物だった。

満点の月に届きそうなほどに跳ね上がる『鯨』は空中で、まるで動画の一時停止のように器用に動きを止めるとコチラに向き直る。


『ありがとう、本当にありがとう』


なぜ『鯨』は私にしきりに礼を言うのだろうか。

その答えを今の私はまだ知らない。



・・・



「……何の夢だっけか」


何だか随分と深い夢を見ていた気がするが、口に出した時点で舌の先から夢の残滓が解けるように消えていったのは言うまでもない。

大概の夢は往々にして人生を左右しない、夢とは人間の深層心理の奥に眠る願望だと何かの教育テレビで言っていたが……その理論で言うなら先月週に二回も焼肉の夢を見ていた私はどれだけ食いしん坊なのだ。その結果として先月の終わりに一人でたらふく焼き肉を食ったことも、また言うまでもないことだ。


顔を洗い、歯を磨き、いつものモーニングルーティンを壊れたテープみたいに繰り返した。

コーヒーを淹れたらベランダの椅子に腰を掛けて煙草を咥えた、先日購入した『相対性理論について』を数行読んで、突如として襲う頭痛を掻き消すためにオイルライターで少し遅れて火をつけた。

街がとっくに活動をしている、そんな平日のとある昼下がりに私といえば仕事にも行かずただただ時間を浪費した。

念の為に記しておくが別に仕事をクビになったわけではないのだ信じて欲しい。私はよく言えば用意周到で悪く言えば臆病であるため、何かにつけて必要以上に準備をしなければ気が済まない人間である。有給休暇を私のキッチンの酒の空き瓶が如く積み上げたのも例に漏れず私が不慮の事態に備えた結果だと言える。


だが、上司からの「有給とっとと消化しろ」のラブコール。

ウブな私はそんな熱烈なアプローチに耐えかねておずおずと休みを取ることにしたのだ。

と言っても、やる事もすべき事もない。


灰が長く伸び切った煙草を指で軽く叩いて私は立ち上がる。長く伸びた前髪をかき上げながらジッとできない私は今日も飽きずに彼女の元へ足を向ける。


道すがら美味しそうな匂いのするフードトラックが目に留まる。車の窓は閉めていたがそれでも美味しそうな匂いを錯覚するぐらいには目を引くホットドック、ジャンキーなものは彼女は好きだろうか?

車を転がしながら片手でハンドルを握り、もう片方の空いた手でホットドックを頬張るとアツいソーセージから肉汁が飛び出す。これは冷める前に届けなければいけない……なんて呟いてタイヤの回転速度を上げた。


「ライカー!」


彼女の日用品や食料を積んだバックパックは嫌に重いが、労働で疲れていない体と『休み』という無敵のバフがあればさして気にならない。

私が彼女の名前を呼ぶと、彼女は手を振っている。どうやら今日はあのふざけた宇宙船の羽の部分の修理をする日らしい。遠目からでも分かるほどに煤だらけの彼女は元気そうだ。


「今日は随分早いんだね」


「仕事が休みだったんだ、ほら昼飯」


まるで大道芸人のような身軽さで機体の羽から胴体を伝って軽々と降りてくる。


「おぉ! 良い匂いがする!」


「美味かったよ。あとこれ、しばらくの食糧と日用品」


「いつもありがとねぇ〜、ほんと助かるよ」


「いいよ、好きでやってるから」


彼女は煤まみれのままでホットドックの入った紙袋に手を伸ばす。


「待った! 先に顔と手を洗ってきな、煤まみれだぞ」


彼女が眉を顰めるので私はスマホのカメラを内カメにして鏡がわりに彼女に差し出すと「げっ」と間抜けな声を漏らした。


「コーヒー淹れるから、慌てなくていいよ」


「すぐ洗ってくるね!」


船に走って向かう彼女を尻目に、私はコーヒーの準備を粛々と始める。

慣れた手つきで湯を沸かし豆を挽く。二人分のカップを取り出して、一息付くがてら私は煙草に火をつけた。

メンソールの匂いが鼻を刺し、いつもの落ち着きを私にもたらしてくれる。煙を吐き出すついでに顔を大きく持ち上げれば雲ひとつない快晴であった。


「いい日だ」


誰にも聞こえないくらいの声量で呟いて私はガラクタの机に視線を戻す、そこにはいつの間にか随分と古ぼけた瓶があった。

サイズ感としてはワインの瓶くらいの大きさで、その周囲には蔦なのかフジツボなのかよくわからない物体がびっしりとへばりついている。色は元々の瓶が透明だったのだろうと辛うじて理解できるぐらいで妙に薄汚れている土っぽい色をしていた。


「こんなの、あったか?」


コーヒーを準備しているときは全くと言っていいほどにこの瓶の存在を認識していなかった。まるで突然生えてきたような感覚が気味が悪い……んだが私は『未知』が好物である、好奇心が猫を殺す事もあろうが人を殺す事例は少ないだろう。

フジツボと蔦の中間のような物体がびっしりとへばりつくその隙間に何かが揺れた。それは魚のようにも思えたし、何か別の生物であるかにも思えた。その隙間を覗き込むと小さくだが確かに淡く光り輝く『海』があった。

いつの間にか私の手の中にはその瓶が握られている、自分でも気がつかないほど自然に掴んでいた瓶のコルクが不自然に振動した、まるで私に話しかけるように、まるで「開けてくれ」と喘ぐように。

指先が不思議な引力に引き寄せられてコルクに触れる、まるで綺麗なビーチの砂のようにサラサラとした感触。

甲高い高音が近くで響く、それはケトルが湯を沸かした合図だ。だが聞こえても尚、私の手は瓶を掴んだままである。

私は引力に引き寄せられるままにコルクを掴んだ指先に力を込めた、今に引き抜こうとしたその時、背後から凛とした声が響く。


「ダメだよ」


ニュッと私の視界の端を白い腕が通る。

コルクに力を込める私の指先を彼女の白絹のように滑らかな指が優しく包み込んで解くと先程まで私を襲っていた引力が突然途切れる。

ハッとして振り返ると、濡れたライカが呆れたように笑っていた。


「ご、ごめんライカ」


「いいのいいの、しょうがないよ。これって元々そういうものだし。人よりも好奇心の強いサンには少し毒かもね」


私の手から落ちそうな瓶をライカは奪うと、これ見よがしに振ってみせる。


「この中、何が入っていると思う?」


そんな漠然とした質問に頭をよぎった答えを噛み砕く事なくそのまま吐き出す。


「海?」


「おっ、いい線行くね」


椅子を引いて私の隣に腰掛けると、彼女は瓶を机に戻して表面を爪で弾いた。


「ここにはね、星が入っているの」


そう言って彼女は不敵に笑う。


・・・


あれから何かしらの説明が入るかと思えば、彼女は不敵に笑ったあとで「そんな事よりお昼ご飯!」と包紙の中からホットドックを取り出してムシャムシャと咀嚼していた。

目の前に『未知』があり、その答えを知っている彼女がいるというのに私は一向にその答えに在り付けない。

これではまるで生殺しである、腹が減っていて目の前にご飯があるのに主人に「待て」をされている犬のもどかしさがよくわかる。

私はろくに吸えなかった先ほどの煙草を携帯灰皿に押し込んで、二本目の煙草に火をつけた。


「その星はね全部がひっくり返ってたの」


何の準備運動も合図もなしに投げられたボールに私は面食らってしまう、文脈的に察すると先ほどの瓶の話だろう。

ホットドックを食べながら彼女は続ける。


「海は空にあって、空は海にある。その星の生物は空を泳いで、海を歩いている」


私はコーヒーを啜りながら彼女の話に耳を傾けた。


「その星はね驚くくらいに美しくてね、あぁそうそう! この前見せたアルバムにもあったでしょ?」


彼女はまだ結構残っていたホットドックを一口で飲み込む、昔に動画で見た口の中いっぱいに食料を詰めるリスに似ている。口にホットドックを詰め込んだまま船内に向かうとすぐにアルバムを手に戻ってきた。


「これこれ」


指についたケチャップを舐めとって指を差す。

そこには以前、私も見た空を飛ぶ鯨のような生命体の写真と、絵本のような宇宙服を着たまま空を舞うライカの写真。


「あぁ、これかぁ……」


「ここでね、頼まれたの」


「何を?」


「助けてくれって」


私は静かに煙草の灰を落とす。


「滅んじゃう前に、私達をこの星から助け出してくれって」


「……」


「それがこの瓶の中身」


それは何というか、些か信じがたい話であった。


「あっ、信じてない顔してる」


「信じてないわけじゃない……わけじゃないけれど、頭の理解が追いつかない」


「ま、それもそうか。あれ、お昼ご飯ってこれだけ?」


「……バックパックに味の薄いビスケットなら入ってる」


頭を抱えながら私が煙草を燻らせるその間、彼女はボリボリと硬くて味気のないビスケットを次々に頬張っている。


「形があるものには終わりがある、それは生物も食べ物も星だってそう。この瓶の中にいる彼らは寿命が尽きるその前に、別の惑星に避難することを選んだ最後の生き残り」


その声色は酷く冷たくて、機械的だった。口の端についたビスケットのカスがなければ私はきっと身じろぎしていただろう。


「ま、安請け合いしたのはいいものの条件に合う星ってあんましなくてねぇ」


「何がいるんだ?」


「酸素と広くて長くて深い海……あぁ! じゃあここでいいじゃん」


彼女が笑う。

今度は一層不敵に笑う。


「ねぇ、サン」


「おい、待て! その先は待て!」


「私を海に連れてって」


短い付き合いだが気がついたことがある、彼女がたまに見せる楽しげで不敵な笑顔が私は苦手だ。


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