第16話 母の面影
温泉地へとみんなでやって来た、次の日。
昨日、あれだけぷりぷり怒っていたマルナの機嫌は、今やすっかり元に戻っていた。
なんなら、いつもよりも機嫌がいいかもしれない。
温泉地に来てもいつものように行っていた鍛錬を終えた薫が、付き添っていたマルナを見れば、尻尾が元気よく揺れている。
人気がないということで、魔法具を使っていないのだ。
「よかったです」
「? 何がいい?」
「マルナの機嫌が元に戻ってですよ。ほっとしました」
「あ、あれはカオルがいけなかったから」
どうやら薫は藪をつついてしまったようだ。
マルナの頬が、ぷくっと膨らんでしまった。
「マルナ、もしかして僕、また怒らせちゃいましたか?」
「知らない」
確実に怒っている。
「えっと、その」
どうすればいいのだろう。
頭でも撫でればいいのだろうか?
薫が頭を撫でると、間るンがいつもにこにこすることを思い出したのだ。
だが、あれは無意識に、いつの間にかやっていることであって、いざやろうとすると、なかなかできないことだった。
35歳独身童貞は伊達ではないのだ。
「マルナ、お願いです。機嫌を直してください」
「怒ってない」
「嘘ですよね?」
「……そんなに直して欲しい?」
「ええ、直して欲しいです」
「どうして?」
「え?」
「どうしてわたしに機嫌を直してほしいの?」
「それは……マルナの機嫌がいい方がうれしいからです」
「じゃあ、機嫌の悪いわたしは嫌いなの?」
「え!? い、いや、それはその……」
「言って」
――これはどう答えるのが正解なのでしょう!?
だらだらと嫌な感じの汗を流す薫。
「ぷっ」
吹き出す声。
見れば、マルナが笑っているではないか。
「あれ……マルナ?」
「ぐるぐる百面相してるカオル、面白い」
「そ、そうですか?」
「すっごく変だった」
そんなとてもいい笑顔で言われてもあまりうれしくない。
が、それでもマルナが笑ってくれると、薫は胸の奥がほんのりとあたたかくなった。
「よかったです」
「すっごく変だったって言ったのに?」
「ええ」
「ふーん。カオル、変。すごく変!」
楽しそうに、うれしそうに、マルナが言う。
「そうですね、変ですね」
薫が笑うと、マルナも笑った。
そうしてしばらく過ごした後、薫たちはその場から移動する。
「どこに行く?」
「温泉です。せっかく温泉地に来たんですからね」
「温泉、好き! すごく気持ちよかった!」
マルナも気に入ったようで、何よりだ。
来てよかったと思う。
「? カオル、そっちは違う」
「昨日とは別のところに入ってみようかと思いまして」
「違うところがある?」
「あるみたいです」
「わたしもそっちに行く!」
というわけで、二人で向かったのはいいのだが。
「こ、これは予想していませんでした……」
絶景が見える露天風呂が売りらしのだが、混浴なのだ。
「混浴って何?」
というマルナに説明する。
「なるほど。じゃあ、入ろう」
「って、ま、待ってください! 僕、説明しましたよね!?」
「した」
「なら、どうしてそういう結論になるのですか!?」
「混浴は合法的に男と女が一緒の風呂に入れる」
「はっ!? そう言われてみれば確かにそうです! ……じゃないですよ!」
「ずっと光那がうらやましかった。わたしもカオルと一緒にお風呂に入りたかった」
そう告げるマルナの瞳は純粋だった。
邪な思いなど、かけらもない。
むしろ、頑なに拒絶しようとしている自分の方こそ、汚れているのではないか?
そんなふうに思わされた。
「わ、わかりました。一緒に入りましょう」
「本当?」
「…………本当です」
返事までに間があったのは、やっぱり駄目なのではないか? という葛藤があったからである。
「じゃあ、入る!」
というわけで、混浴に入ることになった。
脱衣室は男女別だったのでそこで別れ、中で落ち合うことを約束。
うれしそうに脱衣所の中に消えていくマルナを見れば、この決断は間違っていなかったのではないかと、薫に思わせてくれた。
手早く着替え、腰にタオルを幻獣に巻いてから、露天風呂に向かう。
マルナはすぐにやって来た。
一糸まとわぬ生まれたままの姿で。
「タオル! タオルを巻いてきてください!」
「どうして? タオルを湯船につけるのはマナー違反だって、昨日、サツキが言ってた」
佐月の言うことは正しい。
だからこそ恨めしい。
自分ができるだけマルナを見ないようにすればいいのだと思うことにする。
だというのに、
「カオル、なんでわたしから顔をそらす? わたしのことが嫌い?」
そんなことを言われて、どうすればいいというのか。
「嫌いなわけないじゃないですか」
「だったら、こっちを見る」
「いやでも」
「ちゃんと見る」
それができたらどれだけいいか。
薫がどうしたものかと思っていたら、
「何やら聞き覚えのある声が聞こえると思えば、カオルじゃないか」
バムハルトと、
「え、カオル様ですの!?」
クリムが現れた。
マルナと同じ、一糸まとわぬ生まれたままの姿である。
ぼんっ! きゅっ! ぼんっ! のバムハルト。
対してクリムはといえば、つる、つる、つるつる、という三拍子。
特に最後のつるつるがやばい。
具体的に何がなのか、どこがなのか言えないが、とにかくやばい。
「むっ。わたしは見ないのに、どうしてあの二人を見る!?」
「こ、これは不可抗力で!?」
「だったらわたしも不可抗力で見る!」
「それはできません!」
「なんで!?」
「なんででもです!」
せっかく直ったのマルナの機嫌が再び悪くなったのは、言うまでもないことだった。
◆
マルナが口をきいてくれなくなった。
原因はわかっている。
薫がバムハルトやクリムの裸を見て――というと語弊があるが、とにかくあの二人の裸は見て、自分の裸は見なかったというのが、とにかく気に入らないらしい。
佐月に相談したところ、
「家族なら平気でしょ?」
という答えが返ってきた。
確かに、家族であるなら平気だ。
実際、裸の佐月と脱衣所でばったり出くわしたりしても、なんとも思わない。
だが、マルナだったら?
「平気じゃないっていうことなら、薫にとってマルナは家族じゃないってことじゃないの?」
「ち、違います! マルナは家族です!」
あの日、あの時、薫はマルナの家族になると決めたのだ。
「なら、見てあげればよかったじゃない。だって見てほしがってたんでしょ?」
「そうなんですけど」
「そこは男の甲斐性を見せるべきだったとあたしは思うなぁ」
どうして裸を見ないだけで、こんな迫られたり、落ち込んだりしなければいけないのか。
裸を見なかったことがそんなに悪いことなのか。
というか、普通、逆なのではないか?
裸を見たら怒られる。
それが正しい、世の中のあるべき姿なのでは?
「……なんてことを言っていても始まらないんですよね」
現実問題として、薫がマルナの裸を見るわけにはいかないので、それ以外の方法で、なんとかマルナに機嫌を直してもらうしかない。
昨日、マルナの機嫌が直ったことを参考にしようと思ったが、そもそもいつの間にか直っていたというのが正しいので、どうすればいいのかわからない。
「八方塞がりです……。はぁ、泣きたいです……」
と、薫が呟いたせいというわけではないだろうが、どこからか泣き声が聞こえてきた。
どこから聞こえて来るのか。
少し探せば、見つかった。
3歳くらいの女の子だ。
全身を使って大泣きしている。
周りの人もどうにかしたいと思っているようだが、女の子があまりにも激しく泣いているせいで、近寄りがたくなっているみたいだった。
むしろ近づくことで、もっと騒ぎになるのではないか。そんな心配をしている感じでもあった。
そんな中、薫は女の子に近づいていく。
困っている人がいれば放っておけない。薫はそういうやつなのだ。
女の子は自分に近づいてくるおっさんの陰に気づいて、一瞬だが泣き止んだ。
そして薫を見上げて、ぽかーんとする。
薫はしゃがむと、女の子と目を合わせた。
「どうしました? 転んでしまいましたか?」
いい年したおっさんが自分と目を合わせて話しかけてくる事態に、女の子はきょとんとした顔になった。
「おじさんに教えてくれませんか?」
ね? と微笑んだことが功を奏したのかどうかはわからない。
だが、女の子はつっかえながらも教えてくれた。
ママとはぐれてしまったことを。
世界に、自分一人が取り残されてしまったんじゃないかと不安になっていることを。
◇《マルナ視点》
はじめての旅行をマルナはすごく楽しみにしていた。
実際、温泉地に来るまでは、浮き足立っていた。
見るものすべてが新鮮だったこともあるし、ひとつひとつ丁寧に薫が答えてくれたこともうれしかった。
だというのに、温泉地に来てからはどうだ。
一転して、面白くなくなった。
それもこれも全部、薫が悪い。
バムハルトやクリムに抱きつかれて、変な顔をしていた。
あんな薫は見たくなかった。
胸の奥がちくちくするから。
マルナの機嫌が悪いと思った薫が、それからずっとかまってくれて、それでなんとか機嫌は直って。
次の日になった今日。
今日で家に帰るということで、昨日の嫌なことは全部忘れて、思いきり楽しもうと思っていたのに。
露天風呂でのあれだ。
バムハルトとクリムの裸は見て、自分のは決して見ようとしない。
まあ、その、なんだ。
積極的に見て欲しいというわけではない。
だって、薫に見られるのは、なんだか恥ずかしい。
薫に見られたらと思うだけで、顔は熱くなってくるし。
心臓も信じられないくらいバクバクするし。
だから、積極的に見て欲しいわけじゃない。そこは勘違いしたら駄目。
けど、見てもらえないというのは、もっと駄目。
あの二人は見て、どうして自分は見ないのか。
そんなに自分の裸は見たくないのか?
「……カオルのバカ」
今日で帰っちゃうのに。
最高に楽しい思い出を作りたかったのに。
どうして今、隣にいてくれないのか。
自分が怒っていても、それでもそばにいてくれるのが家族なのではないか。
わがままを言っている自覚はあるが、それでもそう思ってしまうのだ。
理屈ではないのだ。
「カオルのバカ! バカバカ、大バカ!」
叫ぶものの、すっきりしなかった。
こうなったら、薫を見つけて、この気持ちをぶつけるしかないだろう。
「よし。探しに行く」
魔法具で獣耳と尻尾は隠しているが、マルナは獣人だ。
しかも狼の獣人だ。
鼻がきく。
薫の匂いを、あたたかい陽だまりみたいな匂いを追跡することなど、造作もない。
しかし、マルナは薫を探しに行くことができなかった。
薫の匂いをたどれなかったからではない。
困っている女性を見かけたのだ。
道行く人に声をかけては、何かを聞いている。
その人は今にも泣き出しそうな表情をしていた。
「あの、どうかした?」
無視することもできた。
だってマルナには関係ない。
だが、マルナは声をかけていた。
薫ならどうするか考えたのだ。
薫ならきっと、声をかけている。
困っている人を見過ごすことなんて、できるわけがない。
その女性が言うには、自分の娘を探しているらしい。
手がかりとなる娘の名前や特徴を教えてくれる一方、手がかりになりそうもない好きな食べものや嫌いな食べものも教えてくれる。
混乱しているのだろうが、自分の娘についていろいろ話す彼女の姿は、娘のことをどれだけ愛しているのか、如実に物語っていた。
「その子の持ち物、何かない?」
「持ち物ですか。……ハンカチならありますけど」
「貸して」
女性から借り受けたハンカチに顔を埋めて、くんかくんかする。
「あ、あの、いったい何を……!?」
「黙って。匂いに集中できない」
「に、におっ!?」
女性が衝撃を受ける。
マルナが獣人であることを知らない彼女にしてみれば、娘のハンカチに顔を埋めてくんかくんかされれば、困惑するほかない。
自分はもしかしたら、とんでもない人に捕まってしまったのではないか。
具体的に言えば変態。
匂いフェチの変態。
今からでも遅くない。くんかくんかしている彼女から距離をとった方がいいのでは?
だが、その前に、娘のハンカチは返してもらいたい。
このまま渡したままだと、娘のハンカチがいったいどんな目に遭ってしまうのか……!
そんなことを女性が思っているとは、まったく微塵も思っていないマルナはハンカチから顔を上げると、
「…………何?」
自分のことを、なんとも言えない眼差しで見ている女性に首をかしげる。
「いえ、その、あの」
「うまく言えないなら後にして。今は娘さんを見つけるのが先。こっちにいる」
「え?」
「早く。娘さんが心配じゃないの?」
「心配です! 娘は私の命なんですから!」
「………………なら、早く来て」
マルナは女性の言葉に一瞬だけ顔をゆがめたが、すぐに元に戻って、走り始めた。
◆
薫は女の子を肩車していた。
「お母さんはいましたか?」
「いなーい」
「そうですか」
女の子を泣き止ませることになんとか成功したものの、肝心の母親を見つけることができなかった。
それに肝心の、マルナに機嫌を直してもらう方法もだ。
八方塞がりとは、まさにこのことだろう。
はぁ、とため息を吐き出した時だった。
「あー! あー!」
女の子がじたばたし始めた。
「ちょ、そんなに暴れたら、落ちてしまいますよ!?」
「だってママが! ママがいるの!」
女の子が指し示す方を見て、ああ、なるほどと薫は思った。
確かに女の子の母親だ。
顔立ちがそっくりである。
だが、何より気になったのは、その女性の隣にマルナがいたことだった。
女の子と女性を引き合わせて、二人が感動の再会を果たす。
その横でマルナにこそっと話を聞けば、どうやら薫と同じような状況に陥っていたらしい。
「そうですか。ありがとうございます、マルナ」
「どうしてカオルが礼を言う?」
「マルナがあの子と母親を引き合わせてくれたからですよ」
「……意味がわからない」
「意味がわからなくてもいいじゃないですか。僕はお礼が言いたかったんです。駄目ですか?」
「……………………駄目じゃない」
「なら、よかったです」
無意識にマルナの頭を撫でれば、マルナはしあわせそうな顔をした。
「……カオル」
「なんです?」
「わたしと一緒にいない時、何を考えてた?」
「どうしたらマルナが許してくれるのか、そればかり考えていました」
「わたしのことばかり?」
「ええ」
「……………………そう」
マルナの頬がほんのりと赤くなった。なぜだろう。
「マルナ、どうかしましたか?」
「別にどうもしない」
「ですが顔が」
「大丈夫。それよりカオル」
「なんでしょう?」
「今回は特別に許してあげる」
「本当ですか!?」
大声が出た。
「そんなにうれしい?」
「当たり前じゃないですか」
「…………………………そう」
さらにマルナの顔が赤くなった。
「本当に特別だから。次はない。気をつけて」
「わかりました。気をつけます」
こくんと頷くマルナに、薫はほっと胸をなで下ろして、笑った。
娘と母親が何度も礼を言って、立ち去っていく。
だが、最後に気になる一幕があった。
母親がしきりに、マルナにハンカチを渡そうとしてきたのだ。
娘を助けてくれたお礼だと言って。
結局、断り切れずに受け取ってしまったが、
「なぜ?」
「それを僕に聞かれましても。よほどマルナがハンカチ好きだと思われたんじゃないですか?」
「よくわからない」
本当によくわからなかった。
「さて、僕たちも行きましょうか。姉さんたちが僕たちがいなくて心配しているかもしれません」
歩き出そうとするが、マルナがついてこない。
「マルナ?」
見れば、親娘の後ろ姿をいつまでも見つめていた。
いや、見えなくなっても、見つめている。
「……あの人、母様に似てた。よく見るとあんまり似てないけど。でも、あの子のことを話していた時の表情が、なんだかそっくりだった」
「そう、ですか」
マルナの声があまりにも寂しげで、薫はそう答えることしかできなかった。
◆
その後、クリムたちと合流。
近場にあるアミューズメント施設に寄ってから帰ることにした。
みんな楽しそうにしていたが、マルナだけは違った。
表情を曇らせたまま、それが晴れることは、決してなかった。
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