第14話 狼少女の失敗

 朝。


 庭先で鍛錬を行っている薫の姿があった。


 相変わらず、ただたたずんでいるようにしか見えない。


「退屈でしょう、マルナ」


 一段落ついたところで、声をかける。


 視線の先には、マルナがいた。


 獣耳はぺたりと倒れ、尻尾にも力が入っていない。


 そして聞こえて来るのは、


「くぅ……」


 かわいらしい寝息である。


「寝てしまいましたか」


 無理もないと思う。


 薫にとってこの鍛錬は、サラリーマンだった頃より前から続く日課だ。


 もはややらないとその日一日、ずっと気持ち悪さがついて回る、そのレベルに達している。


 だが、マルナは違う。


 薫と一緒にいるという理由で、付き添っているだけ。


 しかも、薫の鍛錬に動きがあれば、それを見て眠気を誤魔化したり、吹き飛ばしたりすることもできるのだろうが、薫が修めた護身術――駕桜境水流の鍛錬に動きはない。


 見ていてまったく面白くないのだ。


 寝てしまうのは、むしろ当然だろう。


 だからいつも言うのだ。


 無理して付き合う必要はないんですよ、と。


 むしろ薫としては、マルナにはぐっすり眠っていて欲しいとさえ思っている。


 マルナは15歳。まだまだ成長期なのだから。


 しかし、マルナは薫の鍛錬を見守るといって聞かなかった。


 そしてこのように、いつも眠ってしまうのだ。


 途中までは、なんとか起きていようと必死なのだが。


 頬をつねったり、ぱんぱんと叩いてみたり。


 ただでさえ大きな瞳を、さらに大きく開いてみたり。


 眠らないために、あれこれ百面相するマルナがおかしくて、鍛錬に集中できなくなりそうだった。


 だが、そう言った努力もむなしく、


「今日も寝てしまいましたね」


 今はまだあたたかいからいいが、寒くなってきたら、やはり見学は辞めさせるべきだろう。


 しかし、その時が来ても、マルナに対して強く言えるかどうかはわからなかった。


「駄目?」


 そうやってお願いされたら、


「……仕方ないですね。あたたかい格好をするんですよ?」


 と、許してしまいそうな気がする。


 そうしてさつきに言われるのだ。


「薫はマルナを甘やかしすぎよ」


 と。


 そんな自覚はまったくないが、指摘されれば確かにそのとおりだと頷かざるを得ないだろう。


 まさか自分がそんなふうになるなんて、思ってもいなかった。


 マルナと出会ってからだ。


 初めての自分とたくさん出会うようになった。


 それがうれしくもあり、楽しくもある。


 次はどんな自分と出会えるのだろうと思うと、わくわくする。


 だが、今は、やるべきことがあった。


 寝ているマルナを起こすのだ。


 起こさないで、やさしくお姫様抱っこして部屋に連れて行き、寝かしたいと、本心では思う。


 しかし、起こさなかったら、マルナが怒るのだ。


 どうして起こしてくれなかったのか、と。


 薫と一緒に朝食の準備をしたかったのに、と。


 だから、やさしくマルナの肩を叩く。


「マルナ、起きてください。朝ご飯の支度を始めますよ」


「んぅ……にゅ?」


 寝ぼけ眼をぱちぱちさせ、マルナが薫を見る。


「おはようございます、マルナ。二回目ですね?」


「…………寝てない。だから二回目じゃない」


 どう考えても寝ていたのに、認めたくないらしい。


「わかりました。二回目じゃありません」


「その顔は信じてない顔。嘘じゃない、本当」


「わかっていますよ」


「本当だって言っている」


「そうですね。本当です」


「うぅ~っ」


 ぽかぽかと叩いてくるマルナ。


 痛くはない。


 それどころかくすぐったい。


 こんな他愛ないやりとりが、薫はどうしようもないほど愛おしくてしかたなかった。




 ◆




 マルナの寝ていないという主張は、朝食の準備の間も続いていた。


 薫の横で、薫と同じエプロンを着けて、薫の手伝いをしながらである。


 マルナの手伝いも、だいぶ板についてきていた。


 最初の頃の、危なっかしくて見ていられなかったのが、まるで遠い昔のように思える。


「? カオル、なんで笑ってる?」


「マルナが手伝ってくれるおかげで、だいぶ助かっているなと思いまして」


「そんなに助かってる?」


「ええ、とても」


「そう」


 素っ気ない返事だ。


 だが、尻尾がぶんぶん動いているのを見れば、喜んでいるのは丸わかりだった。


 そんなマルナの姿に、薫の心もあたたかくなる。


 薫に認められ、すっかり舞い上がるマルナ。


 さらにできるところを薫にアピールしようとして、熱々の料理が盛られた皿をテーブルの上に移動させる。


 薫がそれに気づき、注意しようとしたが遅かった。


あつっ」


 マルナが皿を落としてしまった。


 陶器製の皿はあっさりと割れた。


 料理も飛び散った。


「あっ、あっ」


 マルナが何か言おうとするが、うまく言葉にすることができない。


「マルナ!」


 薫の大きな声に、マルナがビクッとなる。


 怒られると思ったのだろう。


 せっかく作った料理を床にぶちまけてしまったのだ。


 そう思うのは当然だった。


 だが、薫は怒らなかった。


「大丈夫ですか!? 怪我はしていませんか!? 火傷はどうです!?」


「え、あ、その」


「もしかしてどこか痛いのですか!?」


「う、ううんっ!」


 薫の、必死の形相に、マルナは慌てて首を振る。


「本当ですか? 本当に大丈夫なんですね?」


「指先が少しじんじんするけど……だけど、それだけ」


「そうですか。よかった。本当によかった。マルナに怪我がなくて」


 薫は心の底から安堵していた。


「どうして怒らない……?」


「え?」


「わたしは失敗した。どうして怒らない?」


「失敗は誰にでもあることです。だから怒りません」


「………………そう」


「マルナ?」


「………………大丈夫」


 いや、まったく大丈夫ではない。


 明らかにおかしい。


 だが、どうにかしようとする前に、佐月と光那が起きてきてしまった。


「後片付けはわたしがやる。カオルは朝ご飯の支度をして」


「いえ、僕もやります」


「駄目。ふたりともお腹ぺこぺこ。だから、ほら早く」


 そうやって背中を押されてしまったら、抵抗することはできなかった。




 ◆




 魔王城に来る頃には、マルナはすっかりいつもの調子を取り戻したかのように見えた。


 実際、薫について回って、魔王城の掃除をしたり、食堂で食事の準備をする中で接するモンスターたちは、マルナの様子がおかしいとは思っていない。


「よう、嬢ちゃん。今日もカオル様の手伝いか?」


 料理長スケルトンキングが、文字通りからから音を立てて笑いながら言う。


「そう。わたし、イモの皮を剥くのすごく上手い」


「自分で言うか!」


「当然」


「その意気やよし! ってことなら、これぐらいはできるな?」


 どどんとマルナの前に並べられたのは、大きな寸胴鍋5つ分のジャガイモ。


「問題ない。むしろもっと任せるべき」


「大きくでやがったな! だが、まずはそれを片付けてからだ。よろしく頼むぜ、嬢ちゃん」


「任せて」


 そんなやりとりができれば、充分立ち直っているように見える。


 他にもクリムとのこんなやりとりからも、そう思うことは可能だった。


 長い廊下を掃除している時だった。


 クリムが「こんな広い魔王城の、こんなところで会えるなんてすごい偶然ですわ!」とやって来た。


 薫は「そうですね」と気づかないが、偶然ではない。


 その証拠に、クリムは息を切らしていた。


 薫が魔王城のどこかを掃除していると知って、あちこち探し回っていたからだ。


 超感覚を使えばすぐに見つけられるというのに、好きな人に会いたいという思いが先走りすぎて、そのことをすっかり失念していたのである。


 クリムはマルナにも声をかける。


「マルナさん、掃除に精が出ますわね」


「当然。今日のわたしは、この石像を磨き上げることに燃えている」


「なるほど――って、マルナさん、それは石像ではなくガーゴイルですわ!」


「…………大丈夫、問題ない」


「マルナさん、どうして目をそらしているんですの?」


「クリムの気のせい」


「絶対に気のせいじゃありませんわ!」


「とにかく、わたしはこのガーゴイルを磨くのに忙しい」


 言って、本当にガーゴイルを磨き始める。


 何かあった時の見張り役として設置されているガーゴイルは、最初は戸惑っていたが、そのうち恍惚とした表情に変わっていった。


 ヘブン状態というやつだ。


「マルナさん、それ以上は駄目ですわ!」


 慌ててクリムが止めに入った。


「まったくあなたという人は」


「そんなに褒められると照れる」


「褒めてませんわ!?」


「?」


「まったく首をかしげる姿がかわいらしいですわね!」


 相変わらず怒るのか、褒めるのか。どっちなのか。


 ぜーぜーと肩で息をするクリムに、薫は聞いた。


「クリムさん、マルナの様子、おかしいですよね?」


「いえ、いつもどおりだと思いますわ。……まあ、そのいつもどおりがおかしいと言われればおかしいですけど」


 ひどい言いようだが、クリムの声にはマルナに対する親愛が感じられた。


「カオル様にはおかしく見えるんですの?」


「ええ。ちょっと無理をしているというか。落ち込んでいるのに、強がっているというか」


 クリムには、そんなふうには見えないらしい。


 確かに、一見したところでは、いつもどおりなのだ。


 だが、薫の目には、クリムの様子がいつもと違うように写っていて。


「……マルナさんに嫉妬しますわね」


「? クリムさん、何か言いましたか?」


「ええ、言いましたわ。カオル様が大好きだと。お慕い申し上げていると」


「そ、それは……どうもありがとうございます」


 当たり前のように大好きだと告げられ、しどろもどろになる薫。


 そんな薫を見て、クリムはうれしそうに笑った。




 ◆




 その日の夜。


 佐月の家の台所。


 そこにマルナの姿があった。


 みんなが寝静まった頃、ベッドから抜け出してきたのだ。


 テーブルの上に並べているのは、朝、彼女が割ってしまった皿。


 いや、皿だったもの。


 ばらばらになった破片の一つを手に取り、他の破片とつなぎ合わせる。


 接着剤も何もつけていないのだ。当然、くっつくわけがない。


 それでもマルナは破片をパズルのように組み上げていく。


「素手で触ると怪我をしますよ」


 薫が声をかけると、マルナがビクッ!! となった。


「カオル、どうして。気配がしなかった」


「何をやっているのか気になりまして。こっそりのぞき見していたんです。驚かせてしまいましたか? すみません」


「……大丈夫」


「やっぱり、まだ気にしていたんですね」


 薫はマルナの隣に腰掛けた。


「………………」


 マルナは答えなかった。


 いや、答えられなかったというのが正しいのだろう。


 割れた皿を元に戻そうとしているところをみられてしまったのだ。


 言い訳のしようがない。


 しょんぼりしているマルナを見て、薫は言った。


「マルナ、誰にでも失敗はあります。かくいう僕も、昔は失敗ばかりしていました」


「嘘」


 あまりにも素早く否定され、薫は苦笑する。


「嘘じゃありません」


「だって、カオルが失敗するとか信じられない。わたしを励まそうとしてくれるのはうれしい。でも、そんな嘘をついてまで励まして欲しくない」


 これは相当落ち込んでいるようだ。


 薫はマルナと目を合わせた。


 いや、その瞳をのぞき込んだ。


 額と額を、こつん、とくっつけて。


「本当です。親元を離れて、生まれて初めての独り暮らし。料理をしていて塩と砂糖を入れ間違うのなんてかわいい方で、お米を洗剤で洗ったことだってあるんですよ。ですが、そんなものはまだいい方です。他にもあれやこれや、思い出したくない、俗に言う黒歴史みたいなものがいっぱいあります」


 薫は苦笑した。


「……カオルの目、嘘ついてる感じじゃない」


 信じる、とマルナは言った。


「カオルは嘘ついてない」


 でも、と続ける。


「今は何でもうまくこなしている。どうして?」


「すごくがんばりましたから」


「すごく?」


「すっごくだったかもしれません」


 薫の冗談に、マルナが笑った。


 いつもの、自然な笑顔だ。


「失敗して、悔しくて。すっごくがんばって。だから、今、僕はみんなに喜んでもらえるご飯を作ることができています」


「なら、わたしもすっごくがんばる」


 むん、と力こぶを作るマルナの頭を、無意識に撫でる。


「僕もついていますから」


「なら、わたしは無敵」


「無敵ですか? 僕がついているだけで?」


「そう。カオルがいれば、わたしは無敵」


 うれしそうに顔をほころばせるマルナが、薫に寄りかかってくる。


 甘い匂いを鼻先に感じながら、薫は小さな体をしっかり受け止めた。


 マルナは薫がいれば無敵だと言ったが、それはこっちの方だと薫は思った。


 マルナがいてくれれば、どんなことだってできる。


 今の薫は、そんな気持ちだった。




 ◆




 翌日の朝。


 昨日の失敗はしないと、熱々の料理を盛った皿を、慎重に運ぶマルナの姿があった。


 無事、テーブルの上に運び終えると、薫を振り返り、得意げに獣耳をぴこぴこ動かす。


「できた」


「大成功ですね!」


「カオルは大げさ」


 そんなこと言いながらもマルナはうれしいのだ。


 尻尾がぶんぶん揺れていた。

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