第6話 おっさん、狼少女と家族になる
今まで泣けなかった分、思いきり泣いて、泣き疲れてしまったマルナは、まるで幼子のような表情で眠りについていた。
頬を濡らす涙を拭う。
一瞬、身じろぎするものの、彼女は目覚めなかった。
「この耳……本物なんですよね」
彼女の頭に着いている、いわゆる獣耳というものだ。
触ってみたいという欲求に駆られるものの、ぐっと我慢する。
――眠っている女性の体に、みだりに触れるべきではないですからね。
そこまで思ってから、苦笑する。
そもそも、たとえ起きていたとしても、みだりに触るべきではない。
そういうことが許されるのは、彼女と親しい関係にあるものだけだ。
たとえばそう――家族とか。
だが、彼女の家族はもうどこにもいない。
それを思うと、胸が苦しかった。
「マルナさん……今はゆっくりと眠ってください」
せめて夢の中で家族と会えたらいいと願いながら、薫は立ち上がろうとした。
だが、できなかった。
マルナが薫の服の裾を掴んでいたからだ。
それほど強い力ではない。だから、ふりほどくことは簡単だろう。
しかし、薫はそうしなかった。
いや、できなかったという方が正しいかもしれない。
眠りに落ちることで止まったと思っていた涙が、再び彼女の頬を伝い落ちたから。
このまま見なかったことにして帰ることなど、薫にはできなかった。
そろそろ帰って佐月たちの食事の支度をしなければいけない時間ではあるのだが、こういう事情があれば佐月も怒ったりしないだろう。
むしろ、ここでマルナをほったらかしにて帰る方が怒る、いや、激怒するに違いない。
佐月はそういう人だし、薫はそんな姉が好きだった。
マルナの、薫の服を掴んでいない方の手が中空をさまよう。
まるで何かを求めているようにも見える。
「……ここにいますよ」
薫がその手を握りしめると、マルナの顔が安心したかのように、ふにゃっとゆるんだ。
せめて夢の中で家族と会えればいいと、薫は願った。
薫自身は夢の中で亡くなった両親と再会できればうれしく思う。
だが、マルナは?
まだ15、6歳の彼女にとって、目が覚めた時、もう二度と家族に会えないのだと現実を突きつけられることは、ひどく残酷なことなのではないか?
考えても、答えは出なかった。
「んぅ……」
年の割に艶っぽい声を出して、マルナが目を覚ました。
「おはようございます、マルナさん」
「おはよう。でも、どうして……?」
薫がここにいるか聞きたかったのだろう。
だから、薫はマルナが握って離さない手を持ち上げて見せた。
「っ! その、あの……!」
真っ赤になって、彼女は薫の手を慌てて離した。
獣耳の先まで、心なしか赤くなっているように見えた。
「大丈夫ですよ。……でも、少しだけ」
「少しだけ?」
「腰が痛いです」
長時間、同じ姿勢を続けたせいだろう。
「
薫としては冗談として笑い飛ばしてほしかったのだが、
「気をつけた方がいい」
そんなふうに注意されると、やはり自分はおっさんなのだと、いや、もちろんきちんと自覚しているのだが、客観的に示されたようで、少しだけ落ち込んだ。
「それで……その」
「どうしました?」
「わたしはこれからどうしたらいい?」
そう尋ねるマルナの顔は、もう赤くなどなかった。
透明。
表情も、瞳の色も、何もかもが。
「そうですね。マルナさんの好きでいいと思います」
「わたしの……好き?」
「ええ。マルナさんがしたいこと、やりたいこと、何でもいいです」
「……………………わからない」
「そうですか。でも、大丈夫ですよ。急いで決める必要はありません。時間はたくさんありますから。ゆっくり向き合ってみてください。マルナさんが何をやりたいのか、どうしたいのか」
「……………………………………そう」
マルナは窓の外に視線を向けた。
それっきり、薫に声をかけることはなかった。
◆
その日の夜。
食事の準備が遅れたことを佐月と光那に詫びると、佐月は原稿に取りかかっていてそれどころではなかったので問題ないと言ってくれて、
「みなとデートしてくれるなら、ゆるしてあげる! とくべつだからね!」
「デートですか」
まさか光那が本気で言っているとは思わない薫は、一緒にどこかに遊びにいく感覚で、
「わかりました。では、それで許してください」
「やった! かおるちゃんとデートだ~!」
喜ぶ光那をかわいらしいと思う薫は、佐月の「あーあ、知らないんだ~」という眼差しには気づかなかった。
それからしばらくは夕食を楽しんでいたが、
「それにしてもその聖女ちゃん」
という佐月の言葉をきっかけに、会話の中心はマルナのことになった。
「マルナさんですよ、姉さん」
「そうそう、そのマルナちゃん。自分がどうしたいのか、何をしたいのかわからないって言ったのよね」
「ええ。でも、無理もありません」
「家族を失ったから」
「そうです。この世界に、彼女はひとりぼっちになってしまったんです」
「つらいわよね。……あたしたちも父さんたちを亡くしたけど、あたしには薫がいた」
そして薫には、佐月がいた。
「だから絶望に押しつぶされることなく、なんとかなった。でもひとりだったら……」
「途方に暮れていたでしょう」
頼れる者を失い、こんなにも広い世界に、ひとりぼっちで放り出されるのだから。
「時間がかかります。だから、僕は彼女が答えを見つけるまで、ずっと待とうと思っています」
「ええ、そうね。それがいいわね」
佐月の言葉に、薫は力強く頷いた。
と、そんなふうにマルナのことばかり話していたせいで、光那が頬を、ぷくーっと膨らませて、ヤキモチを焼いていた。
「なんでしらない子のことばっかりおはなししてるの!」
幼いながらも話題の中心にいるのが女の子であることに勘づいているのだ。
どうしたら機嫌を直してくれるのだろう。
「ひざ!」
「膝?」
「かおるちゃんのひざのうえにのせて!」
「そんなことでいいのですか?」
「いいの!」
「なら、はい。これでどうしょうか? お姫様」
ひょいっと抱き上げて膝の上に乗せると、光那はきゃっきゃと喜んだ。
その様子があまりにもかわいくて頭を撫でると、
「こどもあつかいしないで! みなはりっぱなレディーなんだから!」
怒られてしまった。
「はい、すみません……」
そんな薫たちの様子に佐月は声を出して笑っていた。
玄関を開ける音がして、誰かが帰ってきた。
佐月の夫である、大林
薫よりも年上で45歳のはずなのに、童顔のせいでずっと若く見える。やさしい雰囲気であることも、それに拍車をかけていた。
ラフな格好の文弥に、佐月が駆け寄り、抱きついた。
文弥も佐月を抱きしめ、熱烈なキスを交わす。
この二人はいつまで経っても新婚みたいに熱々なのだ。
佐月と熱烈な愛情を確かめ合った文弥は、今度は光那ともしようとするのだが、光那は薫の膝から降りようとしなかった。
「光那、パパが帰ってきたんだけど……」
「うん。しってる。おかえり」
「え、それだけ? チューは?」
「そういうのは、みらいのだんなさまとしかしないの」
光那が薫を見上げて、「ねー」と言ってくる。
「に、
薫が必死にフォローしようとするのだが、うまい言葉が出てこない。
だが、落ち込んでいる文弥の姿は見ていたくなくて、
「冗談! そう、子どもの冗談みたいなものですよ!」
「そ、そうだよね!?」
うんうんと揃って頷いているいい年した二人の男を見て、そう思っているのはあんたたちだけなのよね、と佐月は笑っていた。
◆
魔王城。
その食堂が今日の薫の職場だった。
キッチンの奥で材料の下ごしらえをしていると、薫が食堂にいることに気づいたモンスターたちがにわかに活気づく。
薫が食堂にいる時の料理は格別にうまいと評判だからだ。
薫自身は普通に作っているだけなので、そんなふうに言われるとくすぐったくて仕方がない。
というか、料理長に申し訳ない気持ちになってくる。
「カオル様、期待していますよ!」
モンスターたちにそう呼びかけられ、曖昧な笑顔で応じていると大柄なモンスターが近づいて来た。
スケルトンキングと呼ばれるモンスターで、
「俺でダシを取ると、いい味が出るぜ?」
という冗談が口癖の、料理長である。
「カオル様、大事な話があるんだけどよ」
いつになく真剣な声。
この料理長もはじめは薫が働くことに難色を示していた。
新しいメニュー作りでは力になったが、それとこれとは話が別だと。
だが、薫が強権を振りかざして無理矢理手伝うようになったという経緯がある。
なので、あんなふうに言われたら、薫に文句の一つも言いたくなっても、何も不思議ではないだろう。
眼窩は虚ろで感情を読み取ることは難しいが、きっと激しい怒りで燃えているはずだ。
「あの、すみませんでした……!」
「何で謝るんで?」
「僕が余計なことをしているとお怒りなのでは……?」
「何を言ってるんだよ。
「なら、大事な話というのは……」
「実は今まで隠していたけどよ、俺もカオル様の料理の大ファンなんだよな。むしろ弟子入りさせてくれねえか?」
料理長の言葉に驚いた。
「何を言っているんですか! 料理長の料理の方がおいしいですよ!」
「それはこっちの台詞だっての。カオル様の料理の方がずっとうまいって!」
「いえ、違います! 料理長の料理です! これは絶対です!」
「かーっ! カオル様は頑固だなぁ! カオル様の方がうまいって言ってんだろ!? みんなもそう言ってるじゃねえか!」
「頑固じゃありません! 事実を言っているまでです!」
「事実じゃねえって!」
「どうしても認めないつもりですか……?」
「当たり
「なら、仕方ありませんね……」
薫が料理長を、鋭い眼差しで射貫く。
「料理長の料理の方がおいしいです! これは魔王代理としての命令です!」
「い、いやいやいや!? その命令はおかしいだろ!」
そんなことをやっていると、どうでもいいから早く料理を食べさせろとモンスターたちに怒られた。
まったくそのとおりだったので、二人は一時休戦して調理を開始する。
次々と料理をさばきながら、薫はふと顔を上げる。
マルナがいた。
食堂の入り口あたり。
中に入るわけでもなく、周囲を見回して、そのままどこかへ行ってしまった。
◆
魔王城に備え付けられた闘技場では、配下たちとともに訓練にいそしんでいるクリムたちの姿があった。
薫と話している時はそんなふうに感じないが、魔王の四天王と呼ばれるだけのことはある。
クリムたちの力はまさに圧巻だった。
わずか四人で数百以上ものモンスターを圧倒する。
しかも彼女たちは、まだ本気を出していない。
どれだけ強いのか。その強さに底はあるのか。
「すごいですね……」
見学していた薫は、自分がいつの間にか、手を強く握りしめていることに気がついた。
配下たちとの訓練が一段落したのだろう。
今度は四人が戦うことになったようだ。
四人の中で一目置かれているのはバムハルトだが、さて結果はどうなるのか。
最後まで見届けたい思いもあったが、クリムたちに気づかれたら、訓練は中断になるだろう。
それは駄目だ。
邪魔することは、薫の本意ではない。
「行きましょう」
そうしてその場を後にした薫は魔王城の掃除を始めた。
メイド服姿のモンスター《佐月の趣味》に交じって掃除をしながら、中庭に差し掛かった時、
「あれは……」
小鳥たちと戯れるマルナがいた。
相変わらず彼女は美しい。
だがその美しさは、あまりにもはかなすぎた。
しばらくの間、そんな彼女を、薫は見守っていた。
ぴぴぴっ。
小鳥たちが飛び立って、マルナがこちらに気づいた。
「こんにちは。調子はどうですか?」
「……問題ない」
「それはよかったです」
マルナが泣いて、薫がその手を握りしめていた時から、一週間ほど経っていた。
その間、今日、食堂で見かけたみたいにマルナの姿を、あちこちで目撃していた。
モンスターたちからも報告が上がっていた。
話しかけられたら対応して、それ以外ではそっとしておいてあげて欲しいと伝えていた。
マルナが首をかしげる。
「何をしている?」
薫はエプロンを自慢げに見せて、
「掃除ですよ」
「…………そう、じ?」
「ええ、そうです」
「魔王なのに?」
マルナが不思議そうな顔をするので、薫は笑った。
「……む。どうして笑う?」
「ああ、すみません。僕は魔王じゃないんです」
「え?」
「僕は代理です。本当の魔王は今頃担当編集の文弥さんとデート――じゃなくて、打ち合わせをしていると思いますよ」
「デート? 担当編集……?」
首をかしげるマルナ。
「わからない」
「ですよね。とにかく僕は魔王代理なんです」
「そんなに強いのに?」
「僕は強くないですよ」
何を言っているんだという眼差しを向けられたが、事実、そう思っているので薫は平然と受け止めた。
「そういうマルナさんは小鳥たちと遊んでいたようですが……」
「これからどうすればいいのか、ずっと考えていた」
「……答えは出ましたか?」
マルナが頭を振る。
「出ない。考えたけど、やっぱりわからない」
「そう、ですか」
すぐに出るとは思っていないし、焦らせるつもりもない。
だが、このままマルナを放置するのは正しいことなのだろうかという思いが、鎌首をもたげてくる。
「マルナさん、何か好きなことはないですか? 何でもいいんです。それをするというのはどうでしょう。僕にできることなら手伝います。何でも言ってください」
「わたしの好きなこと……?」
「はい」
「……………………たい」
「え?」
よく聞こえなくて、聞き返した。
「家族……わたしは家族と一緒にいたい」
それが好きなこと、と続けたマルナに、薫は言葉に詰まってしまった。
「でも、家族はもういない。だからわからない。どうすればいいのか、何を目的に生きればいいのか」
マルナに見つめられる。
透明な眼差し。
「わたしはどうすればいい? あなたは手伝ってくれると言った。だったら教えて欲しい。わたしはどうすればいい? 何をすればいい?」
確かに言った。そのとおりだ。
だが、彼女の言葉は薫の想像を遙かに超えていた。
軽々しく口にすべきではなかった。
そんな後悔が押し寄せたのは、しかしほんの一瞬のことだった。
薫を見る、彼女のまっすぐな眼差しは相変わらず透明で。
今にも消えてなくなりそうだった。
なら、自分がすべきことは一つだ。
考えるのだ。彼女に対する答えを。全力で。
そうして薫は、一つの結論を導き出した。
「なら……こういうのはどうですか?」
何? と首をかしげるマルナに告げた。
「僕と家族になるんです」
「あなたと家族になる? ……わたしが?」
「ええ。どうでしょうか」
薫はマルナの人生を思った。
集落のみなにいじめられ、家族を失い、果てはこんな見知らぬ異世界に召喚され、聖女として利用された。
つらいこと、悲しいことばかりだ。
だが、生きるということは、そんなことばかりではない。
楽しいこともたくさんある。
それを知って欲しかった。
だから家族になろうと言ったのだ。
家族になって、一緒に過ごすことで、楽しいこと、幸せなことを、彼女に感じて欲しかったのだ。
薫にあったのはただそれだけで、それ以上の意味はなかった。
この時は、まだ。
だが、この言葉が、二人の運命を変えるきっかけになったのは、間違いないだろう。
「……………………………………………………………………………………………………なる」
長い長い沈黙の果てに、マルナはそう答えた。
「本当ですか……! それはよかったです! では、よろしくお願いしますね、マルナさん」
薫が手を差し出すが、マルナはその手を取ろうとしなかった。
家族になるのではなかったのか。
「マルナさん……?」
「違う」
「え?」
「マルナ」
「え、ええ、知っていますよ」
「だから違う。そうじゃない」
では、何なのか。
「家族はわたしのことをそう呼んでいた。家族になるなら、そう呼んで」
――なるほど、そういうことですか。
「これからよろしくお願いしますね、マルナ」
「……うん、よろしく」
薫の手を握る。
その時、かすかだが、確かにマルナは笑った。
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