第5話 おっさん、涙する狼少女を抱きしめる
光那を幼稚園に送り届けて戻ってくると、異世界から聖女が目覚めたという連絡が入った。
押し入れの向こうの異世界から伝令としてやって来たゴブリンをねぎらい、お茶とお菓子を用意する。
ゴブリンがそれを平らげている間、異世界に赴く準備をする。
いつもの
佐月にも聖女が目覚めたことを告げた。
「締め切りがマジでやばいことになってるから、薫に任せるわ!」
「わかりました」
「誰も味方がいない異世界に、勝手に召喚されて、利用されて。傷ついてるだろうし、悲しんでるだろうから、そこら辺のケアもお願い。まあ、その点に関しては心配はないんだけど。いや、ある意味、心配かな?」
「どういう意味ですか?」
「さあ、どういう意味でしょう?」
佐月は教えてくれなかった。
できる限り善処すると約束してから、薫はお茶とお菓子を食べ終わったゴブリンとともに異世界に向かった。
◆
佐月の家の押し入れをくぐると、そこは魔王城だった。
魔王――佐月のために用意された部屋の中に出る。
そこには魔王四天王が勢揃いしていて、
「カオル様! お待ちしておりましたわ!」
特にクリムによる熱烈な歓迎を受けた。
薫の胸の中に、よろけたふりをして飛び込み、思いきり抱きつく。
「大丈夫ですか、クリムさん!」
わざとだと思わない薫は本気でクリムのことを心配して、薫に抱きつき、薫の匂いにうっとりしていたクリムの良心をちくちく刺激する。
そしてそれに気づいていないのは、この場において薫だけだった。
「あの、その、大丈夫ですわ。ありがとうございます、カオル様」
「いえ、クリムさんが無事でよかったです」
さらにやさしく微笑まれて、クリムはさらに激しく良心をちくちく刺激されたが、それ以上に薫の笑顔が持つ破壊力にメロメロになったのだった。
具体的には「カオル様、お慕いしておりますわ!」と突撃しようとしたのだが、アヴァールに止められた。
「おい、ババア。いい加減にしとけって。カオルが来た目的を忘れてるだろ?」
「……忘れてませんわ」
嘘である。その証拠に目が泳いでいた。
そして、薫以外のみながわかっていて、ただ一人気づかない薫は首をかしげていたが、バムハルトに目をとめる。
ドラゴンの姿から人の姿へと化身した
「傷の具合はいかがですか? バムハルトさん」
「もうすっかりよくなったのじゃ」
「そうですか。それはよかったです」
バムハルトがここにいるのは、佐月が聖女召喚を行った国を滅ぼしたため、東の森を守護する必要がなくなったからだ。
「なあ、カオルよ」
「何でしょう?」
「あとで我と手合わせ願えぬか?」
その言葉にバムハルト以外の四天王が、ざわっとなる。
「おいおい、バムハルト。お前、何言ってるんだ!? カオルと手合わせ? 冗談はやめとけよ」
アヴァールの言葉に、ブライテルが同意する。
「そうですよ! あなたと手合わせしてカオル殿が無事でいられると思っているんですか!?」
「
クリムはさりげなく、とんでもないことを口走っていた。
「みなさんのおっしゃるとおりですよ。僕にバムハルトさんの相手がつとまるとは思えません」
薫が言うと、バムハルトは、
「……そうか」
と、引き下がった。
「ただ」
「ただ?」
「お茶なら喜んでお付き合いしますよ」
薫がそう続けたものだから、クリムが自分もお茶に付き合って欲しいと騒ぎ出すことになって、落ち着くまで大変だった。
不用意な発言は控えるようにブライテルに注意され、薫はわけがわからないまま頷いたのだった。
自分は何か変なことを言ったのだろうか?
◆
薫は、今日、異世界に来た目的である、目覚めたという聖女のいる部屋に入った。
モノトーンの落ち着いた雰囲気。
掃除もちゃんと行き届いている。
薫がやったのだ。
聖女は、ベッドに横になっていた。
寝ている?
いや、違う。
入ってきた薫に気づくと起き上がり、こちらを見た。
「初めまして……ではないですね。私は大塚薫です。どこか痛いところはありませんか?」
「ここは……?」
「魔王城ですよ」
「………………」
「あなたの名前を伺ってもよろしいですか?」
「わたしは……マルナ」
狼の獣人だと続ける。
――なるほど。狼ですか。
心の中で呟く薫は、改めて彼女の美しさに目を惹かれた。
気を失っている間に侍女たちによって、最低限とはいえ身だしなみを整えられた彼女は、まるでどこぞのお姫様のようにも思えた。
銀色の髪。
はかなげな雰囲気。
どうしても見とれてしまう。
――15、6歳くらいでしょうか。
「…………」
透明な彼女の瞳にじっと見つめられ、ようやく我に返ることができた。
「あ、えっと、すみません。じろじろ見てしまって。迷惑でしたよね」
「……別に」
「ありがとうございます」
おっさんに無遠慮に見つめられても怒らない。やさしい子なんですね、と薫は思った。
――年齢よりもずっと大人びて見えます。
それから薫は彼女が倒れてからのことを語った。
マルナを召喚した国を魔王が滅ぼしたこと。
もう自由であること。
元の世界に戻ることができるということも、きちんと話した。
きっと喜ぶはず。薫はそう思っていたのだ。
なのに。
「……戻る意味はない」
ぽつりと漏らした彼女の言葉を、最初は聞き間違えかと思った。
だが、違った。
改めて聞き直しても、返ってきた答えは同じだった。
「戻る意味はない。だってわたしはいらない子だから」
マルナは言った。
召喚される前、元の世界で、マルナは暮らしていた集落の中でいじめられていたらしい。
理由は、彼女の毛並みがみんなと違うからというもの。
彼女の銀色は彼女だけのものだったのだ。
だが、それでも、彼女には家族がいた。
みんなに嫌われ、疎まれ、いじめられていても、彼女を愛してくれていた。
父に母、それに生意気だが、かわいい弟が二人。
家族がいたから、マルナのことを愛していると言ってくれていたから、生きていられた。
その家族が死んだ。
死因は不明。
ただ、家族が死ぬ前後、集落の連中の様子がおかしかったらしい。
どう考えても、集落の者たちが関係しているとしか思えなかった。
「元の世界に戻っても、家族はいない。だから、戻る意味はない」
集落の人たちにいじめられ、家族を失い、そんな悲しいことを淡々とマルナは語る。
「だからわたしは聖女になることを承諾した。聖女は魔王と戦うために存在すると知って」
「どういうことですか?」
「魔王に殺してもらおうと思ったから。わたしなんかが生きている意味はないから」
薫を見るマルナの透明な瞳は、だが薫を映していない。
いや、彼女はその瞳に何も映していないのだ。
「マルナさん。おなか、空いていませんか?」
「……………………え?」
初めてだった。マルナの感情があらわになったのは。
何を言っているのかわからない。
透明な瞳に、驚きや戸惑いといった感情が揺れている。
――はじめて年相応に見えましたね。
「ちょっと待っていてくださいね」
戸惑っているマルナにほほえみを残して、薫はその場を後にした。
◆
薫はすぐに戻ってきた。
「えっと」
戸惑っているマルナに、薫はあるものを差し出した。
「これは……」
シュークリームだった。
今日の夜、佐月や光那たちと食べるために、薫が着くっておいたものだ。
「初めて見るかもしれませんが、これはお菓子です」
「お菓子……」
「マルナさん、知っていますか? おなかが空いていると、変なことばかり考えてしまうって。だから、はい。食べてください」
「………………」
マルナは明らかに戸惑っていた。
だが、体は正直だった。
くぅ~。
シュークリームの甘い匂いにつられたのだろう。かわいらしい音を立てた。
マルナの顔が真っ赤になる。
「体は食べたいって言っているみたいですね。遠慮なく食べてください」
それでもまだ彼女は迷っていたが、再びお腹がかわいらしい音を立てたことで決心したようだ。
口を開き、鋭い犬歯を覗かせる。
かぷっ。そんなふうに、シュークリームにかぶりつく。
「!??!!?!!」
マルナの顔が百面相になる。
驚き、衝撃、歓喜、興奮。
「おいしいですか?」
「おいしい! それにすごく甘い! 信じられない!」
どうやら気に入ってもらえたようだ。
あまりにも勢いよく頬張るものだから、クリームが飛び出して、彼女の鼻の頭を汚してしまった。
そんな彼女の様子に薫はうれしくなって、クスッと笑った。
マルナは自分がみっともなく頬張っていたことを自覚して、お腹が鳴った時以上に顔を真っ赤にした。
おしとやかに食べよう。
そう思いながらも、シュークリームのおいしさの前に、彼女はやはり慌てて頬張ってしまい、むせてしまった。
「大丈夫ですか。はい、紅茶です」
用意しておいた紅茶を差し出すと、彼女はそれを受け取って口に含んだ。
「すごく甘くて……すごくおいしかった」
そして、マルナは涙を流した。
「父様に母様、それにあの子たちにも食べさせてあげたかった……」
涙とともにこぼれ落ちる言葉。
「みんなを守りたかった……」
それは彼女が抱えてきた想い。
「どうして死んでしまったの……」
彼女の心。
こんな小さな体に悲しみをいっぱい詰め込んでいる。抱え込んでいる。
「マルナさん。僕も両親を失いました」
「え?」
薫の言葉に、マルナが涙を流しながら、薫を見た。
薫は頷く。
「ですが、僕には姉さんがいて、姉さんの家族がいて、こんな僕でも慕ってくれるクリムさんたちがいます。ですから、あなたの気持ちがすべて理解できるとは言いません」
そんな傲慢なこと、自分には言えない。
「でも、大事な人を失うことの悲しみはわかります」
悲しくて、悲しくて、本当に悲しすぎて、彼女の心はその悲しみを受け止めきれず、感じることを辞めてしまって。
そして、今、彼女の心は動き出した。
「つらい時は思いきり泣いていいんです。いいえ、違いますね。思いきり泣いた方がいいんです」
「思いきり泣いて……いいの?」
「はい」
薫は彼女の言葉を肯定した。
悲しみを抱え込むことを、マルナの亡くなった家族が望んでいるとは思えない。
薫は少女を抱きしめた。
薫のぬくもりに包まれ、マルナはむせび泣いた。
彼女の背中をぽんぽんと叩きながら、薫は思った。
自分の胸でよければいくらでも貸そう。
そうして彼女の悲しみが少しでも癒えますように、と。
彼女が泣き疲れて眠るまで、薫はマルナを抱きしめ続けた。
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