秋雨とコート

茸山脈

1

 傘を忘れた私は靴箱の並ぶ昇降口から出ることが出来ずに、ガラス扉の向こうで降り続ける秋雨を眺めていた。


 秋雨、文字通り秋に降る雨のことだ。秋の長雨ながあめとか秋霖しゅうりん薄梅雨すすきつゆなんて別名もあるらしい。勢いはそれ程ないけれど、すごく冷たい。これが夏に来てくれるのなら喜んで雨の中へ飛び込みたいところだけど、秋も真ん中に差し掛かる肌寒い夕方にこの雨を浴びたら、間違いなく体調を崩すだろう。

 明日から文化祭が始まる。私は美術部だから別に休んでも展示に支障が出ることはないのだけど、せっかく準備してきた文化祭に参加出来ないというのは避けたいという思いが強かった。


「あれ? 鏡子きょうこじゃん」


 しばらく外を眺めていると、放課後の静まった空間によく通った声が響いた。振り返ると、下駄箱の向こう──階段の踊り場の方から友達の菜穂なほが手を振っていた。もう片方の手に大きな紙袋を提げているけど、それを思わせない軽快な足どりで階段を降りてきて、私の横にすっと並んだ。


「どうしたの? もしかして、私のこと待っててくれた?」


 そういって菜穂は口元に笑みをうかべる。傘忘れたこと、分かってる癖に。いつもの軽口だったけど、何故かその言葉が耳に残る。


「……傘忘れちゃって雨止むの待ってたの」


「やっぱり、急に降り出したもんね。まだ当分は降るみたいだし、私の傘入る?」


「朝は晴れだったのに、持ってるの?」


「ふふふ、こんな時の為の置き傘だよ」


 そう言って菜穂が指さした先にある傘立てには、確かにビニール傘が一本置いてあった。持ち手に堂々と名前が書かれているとはいえ、今日のような急な雨の日でも間違えたり盗まれたりしないという辺り、この高校の治安はかなり良いのかもしれない。


「じゃあ、有難く入れさせて貰おうかな」


「家まで送ってくよ、途中で別れたら帰れないでしょ?」


「……いいの? 明日の文化祭疲れない?」


「演劇部って文化部のふりした運動部みたいなものだからね、これでも体力には自信あるんだ」


 そう言って微笑む菜穂の姿は、いつもより頼もしく、そして、何よりもかっこよく見えた。


 菜穂は明日の文化祭で演劇部としてステージに立つ。今、若い人たちを中心に大人気の恋愛小説を演劇部独自にアレンジして演じるらしい。だけど、今年の演劇部には男子が居ないとのことで、彼女が男装して主人公を演じることになっているのだった。

 元から端正な顔立ちだったし、髪も肩にかからない長さではあったけれど、男装するにあたって更に短く整えられた髪や度重なる練習で染み付いた仕草や言動は、ここ数ヶ月の菜穂は私の知るものとは全く違う雰囲気をまとっていた。


 演技とはいえ、小学生以来の友達にこんな一面があったのか、彼女が私の知らない側面を見せ初めてから少し調子が狂ってしまう時が度々ある。

 特に今の姿の彼女が微笑みを見せた時なんかは、いつも鼓動が早まるのを感じるし、不意に彼女の事を強く意識してしまう。これは気のせいなのだろうか、いや、気のせいではないのだろう。


 私だっての正体が分からない程鈍感じゃない、だけど、私はそれを素直に受け入れる事が出来なかった。

 

 今の菜穂は文化祭の劇で主人公を演じるための仮初かりそめの姿だ。そして、私の今の心情は言うなれば劇中のヒロインと同じ状態なのだ。

 それを恋愛感情と呼んでしまうのはあまりにも軽薄なんじゃないか、そう思ってしまうのだった。


 一時の気の迷いなんだと、そう済ませてしまえれば良かったのに、結局一度得てしまったその感情をずっと忘れることが出来ずにいた。


「どうしたの? もしかして、具合悪い?」


「なんでもないよ。行こっか」


 雨の中、ひとつの傘の下を二人で帰る。異性ならまだしも、同性の友人同士なら割とよくある事だ。私も今まで菜穂と何度もしたことがある。だけど、今の状態では普通に過ごせる気がしなかった。


 ガラスの扉を開けて、外に出ると、想像以上に気温が下がっていた。締め切られた空間に居たからあまり分からなかったのだろう。寒さに思わず身震いしてしまう。


 予備のビニール傘はそこまで大きくない。だから私と菜穂は自然と密着状態となる。心臓の音が相手にまで伝わりそう──ありきたりな表現だけど、それ以外に言い様のない状態だった。顔も赤くなってるかもしれない、俯いて、この違和感に勘づかれないように歩く。


「大丈夫? 濡れない?」


 それを気遣ってか、菜穂は時々私がちゃんと傘に入れてるか位置を調整したり、訊いてきたりする。身長差があるというのに、わざわざ身をかがめてほぼ耳元で訊いてくるのだから非常によろしくない。前までこんな事する性格じゃなかったでしょ……


「少しぐらい大丈夫、ほんとに大丈夫だよ。そう言う菜穂こそ、明日が本番なんだから風邪ひかないようにしないと」


「私は大丈夫。寒さには強いの、知ってるでしょ?それに、明日のステージは絶対鏡子に観てもらいたいからね」


「ハイハイ、風邪ひかないようにするし、最前列とるよ」


 そう言ってふと見上げてみると、菜穂と目が合った。それに気づいて、また彼女は微笑んでいる。たったそれだけのことで、安直な私の心臓は、またもその鼓動を早めるのだった。


 風も強い。時々吹く勢いのある風に私たちは翻弄される。まだ傘は壊れてないけど、時間の問題だと思った。

 秋雨の勢いというのは基本的には弱い。だけど、時と場合によっては、台風の時にも匹敵する勢いになるらしい。

 幸い今の雨は台風程ではなかったけれど、この勢いだといつ傘が壊れるか分からない。

そういう訳で、風が弱まるまで帰路の半ばにあるコンビニに避難して、カフェオレでも飲んでこうという流れになった。


「こんなに強い風まで吹いてくるとはね」


「ほんと、明日の文化祭大丈夫かな……」


「明日は晴れるんだって、まぁ演劇部の発表は講堂でやるからあんまり関係ないんだけどね。逆に雨だと観客も増えてラッキーだ」


「そういう妙に計算高いとこ、昔っから変わらないよね」


「どーいたしまして」


「褒めてないから」


「あはは、でもやっぱり鏡子といると素のままの私でいれるから、気が楽だよ」


 えっ?


 さっきまでの言動、全部素の状態だったの? という声を押し殺そうとして、飲んでいたカフェオレが気管に入った。思わずせてしまう。


「ちょっと、大丈夫?」


「はぁ、だ、大丈夫、コーヒーが変なとこに入っただけだから……」


「舌とかやけどしてない? ちょっと口開けてみせて?」


「ヒリヒリもしてないし、大丈夫だよ! ……多分」


 心配性か。真剣な眼差しで口を見せろなんて言われて更に混乱する。むしろ、その言葉に対する恥ずかしさで火傷しそうだった。


「というか、さっきから結構震えてるけど、ほんとに大丈夫?」


「だ、ほんとに大丈夫だって! ちょっと寒いだけだから!」


 心臓の鼓動や落ち着きのなさや重なる混乱を全て寒さに押し付ける。悔しいけど、この言い訳を作ってくれた雨風には感謝せざるを得ない。


「んー、じゃあ、これ貸すよ」

「え? それって……」


 暫く考える仕草をしたあと、菜穂が鞄から黒色のモノを出して渡してきた──それはコートだった。


「レインコートがあったら良かったんだけど……代わりに、劇の練習で使ってたやつ。本番はちゃんと衣装あるんだけど、練習する時の為に持参してたんだ」


「着ていいの?」


「もちろん、あっ、練習で使ったからちょっと臭うかも……そこは勘弁して」


 渡されたそれを恐る恐る羽織る。練習用とは言っているけど、かなりしっかりしたものだ。そして、確かに菜穂の香りがする。それは不快なものではなく、むしろ心地よいとさえ思ったけど、今この状態では更に彼女への意識を強めてしまうものでしかないので、やはり落ち着かない。


「あんまり嗅がないでね? ちょっと恥ずかしいから……」


「はっ、ごめん……でも、これすごく暖かい。ありがとね」


「明日はそれ使わないし、好きな時に返してくれたら良いよ」


 コートを羽織るだけで、ここまで寒さが和らぐものだろうか、きっと、コートの暖かさだけじゃないんだろうなと思った。


 コンビニを出て、また二人で歩き出す。雨とはいえ、18時過ぎでも辺りは真っ暗ということに夏とは違った日の短さを実感させられる。

 風は少し収まったけど、雨の勢いは弱まらず、むしろ強まっている気さえした。何度か小さな水たまりを踏んづけたせいか、靴底から冷たい感触が、靴下の湿りを通して足の裏にまで伝わってくる。


「確か、もうすぐそこだよね?」


「うん、そこの角曲がって真っ直ぐいけば……うわっ!?」


「あっ」


 急な突風に吹かれて、鈍い音と共に傘がひっくり返った。

 長い間、置き傘だったものを久しぶりに使ったせいで骨が弱まっていたのか、それとも風が強すぎたのか、素人目には全く分からないけど、とにかく菜穂の傘はひっくり返ったまま戻らなかった。

 私たちは家まであと少しのところで冷たい雨の中に放り出される形になったのだった。


「走るよ!」

「う、うん!」


 呆然としていたのも束の間、菜穂に手を引かれて雨の中走りだす。服の中、肩や髪に冷たい雨が染みるのに、何故だか彼女の手の温もりの方が強く伝わっていた。


 家はすぐそこだったけど、着いた時には私たちはびしょ濡れだった。壊れた傘を玄関前に立てかけて、鍵を使って家に入る。親はまだ帰ってなかった。


「ちょっと待ってて、すぐお風呂入れるから!」


 靴と靴下を脱いで、廊下が濡れるのも気にせず洗面所に向かう。


「悪いよ、お風呂貸してもらうなんて」


「細かいことは良いの! いくら菜穂が寒さに強くたってそのままだと絶対風邪ひくから!」


「じゃあ有難く使わせて貰うけど、鏡子だってびしょ濡れなんだから先入った方が良いよ」


「何言ってんの、菜穂は明日ステージに立つんでしょ!? 私は大丈夫だから──」


「じゃあ、一緒に入る?」


 薄々分かっていた提案が頭の中に響く。傘と違って、友達同士でもあまりやらないことだ。中学の修学旅行で二人で大浴場に入ったことはあったけど、その時と今では、意味が全く違う。


 菜穂は少し頑固なとこがある。これを断れば彼女は何としても私を先にお風呂に入れようとするだろう。


「──菜穂が良いなら……そうする」


 だから、これは受け入れた方が良い。私の理性がどうのといった理由で菜穂が風邪をひくなんて事はあってはならないのだ。


 洗面所と風呂の間にある脱衣スペースで2人して服を脱ぐ。せっかく貸してくれたコートもびしょ濡れになってしまったので、軽く水気をとってハンガーに掛ける。

 菜穂には私のジャージを貸すことにした。私より背の高い彼女に合う服がなかったのだ。


 お風呂場はそこまで広くはない。だから否応なしに菜穂の一糸まとわぬ姿が目に入ることになる。

 すらりとした身体──それは記憶の中にある彼女の姿とは随分違ったけど、少なくとも不健康がもたらすものではない、運動する人のものだった。ちょっと細すぎる気もするけど……


 ──菜穂、ちゃんとご飯食べてるのかな? 頭の中をよぎったのは、意外にもそういった心配だった。


 交代で身体と髪を洗った後、二人でギリギリの浴槽に浸かる、体積でお湯が溢れる音を聞くのも久しぶりだった。そして、裸でほぼ密着しているという事を意識してしまえば、あっという間にのぼせてしまいそうで、あれこれと思いは巡ったけど、それが口から出ることはなかった。

 菜穂はというと完全に脱力して、私に身体を預けてうつらうつらとしていた。力が抜けきった顔は、今の学校でイケメン女子の名をほしいままにしているとは思えないものだったけど、どちらかといえばこれが彼女の本来の顔だ。ちょっとだらしなくて、だけどほっとけなくて。あんな気遣いできるような性格とは無縁だったのに。


 私は急に不安になった。お風呂で寝ることは気絶と同義と聞いたことがあるけど、今の菜穂はまさにそれだった。脱力することはあっても、一人でこんな状態になったらそのまま溺れてしまいかねない。

 ──もしかすると、菜穂は相当無理をしているんじゃないか。私の中にそういう疑問が浮かんだ。だとすれば、私は菜穂が無理をしていたという事を知らないばかりか、無理して作り上げた彼女の姿に恋愛感情を抱いてしまったということになる。

 私は菜穂に関する殆どの事を知っていると思っていた。幼なじみとまではいかないけれど、小学校高学年の頃からの付き合いだ。だから、友達以上の関係も望めるかも、心のどこかでそう期待していたのかもしれない。

 だけど、それはとんだ思い上がりだった。菜穂のこと、何も知らないじゃないか。


 抱いてしまったこの感情と、それが彼女を苦しめていたかもしれないという罪悪感がせめぎ合う。軽々しく捨てれるものではなくなるまで、その感情は膨れ上がっていたのだった。


「んん……」


「あ、起きた?」


「うん、少し寝てたかも……」


「のぼせる前に上がろっか」


 疲れが一気に出たのか既にのぼせ気味だったのか、まだ少し覚束無い足取りの彼女の身体を支えながらお風呂場から出る。下着もとりあえず私のものを貸した。恥ずかしさより心配が勝って、それどころではなかった。

やっぱり、疲れきってるじゃん──


「ごめんね、色々して貰って」


「いいの良いの、たまには昔みたいに私を頼ってほしい」


「昔みたいに、か……」


 お風呂場を後にして、私たちは2階の自室へと向かった。菜穂が自室に来るのは久しぶりな気がした。


「まぁなにもないけど、ちょっと休んでから帰った方が良いよ。まだ雨も強いし」

「うん、そうする。明日があるから長くは居れないけど……」


 そういって菜穂はソファの上に仰向けになった。そうそう、そこが定位置だったっけ。

 だけど、二人だけの部屋はいつもとは少し違う空気が流れていた。外からはまだ雨の音が聞こえている。


「明日の発表、絶対見に来てね」


「……ねぇ」


「ん? どうしたの?」


「さっきの菜穂、すごく疲れて見えた」


「あー、かっこ悪いとこ見せちゃったね」


「違うの、私は菜穂が私も知らない所で無理してるんじゃないかなぁって……心配なの……」


「無理なんかしてないよ、これが素の私」


「…………」


 嘘だ。なんでそんなに分かりやすい嘘をつくの? 私はずっと菜穂のこと見てきたのに。今までのどこにも、こんな菜穂は居なかったのに。


「……嘘、今の菜穂は私の知ってる菜穂じゃないもん」


「ちょっと、いくら鏡子でも言っていい事と悪いことがあるよ?」


 菜穂はソファから身体を起こして、少し怒り気味に反論する。


「私も家に着くまでは劇のおかげで菜穂も変わったんだなぁって思ってた。でも、絶対違う。あれが素だったらお風呂で気絶しかけそうなぐらい脱力するなんておかしい、そうでしょ?」


「で、でも、鏡子だって今の私のこと好きでしょ」


「話を逸らさないで。それとこれとは話が違うの、 確かに私は今の菜穂が好き、大好きだよ! ……だけど、それで菜穂が無理し続けるなんて……もっと嫌だよ」


 遠くで雷が落ちたらしい。鈍い音が、窓の外から聞こえた。雨の音もさらに増しているようだ。部屋の電気は付いていたけれど、二人の間にある空気のせいか外の音のせいか、まるで薄暗い部屋で会話しているような雰囲気が漂っていた。


「──分かった。本当のこと話すよ。でも、これを話したら、どちらにせよ、私と鏡子はもう友達では居られないと思う」


しばらく無言の時が続いたあと、何かを諦めたような顔をして、菜穂がそんなことを呟いた。


「どういうこと?」


「私、ずっと前から鏡子のことが好きだった」


 一瞬、息をすることを忘れた。頭の整理が追いつかなかった。だって、私は彼女の事が恋という意味で好きだけど、彼女は私のことを友達関係だと思ってるだろう、と考えていたのだから。


「中学生の時からずっと、友達、親友以上の特別な関係になりたい、そう思ってた。だけど、友達以上の関係になれる気がしなかった」


「鏡子は可愛いから、きっと良い男の人と巡り会って、結婚して、そういう人生歩むんだろうなぁって諦めてた」


「文化祭で男装するのが決まった時は、そこまで演技に没頭するつもりはなかったの」


「だけど、鏡子は私が主役やるって言った時、『いいじゃん男役、私この主人公大好きなんだ!』って言ってくれたよね」


「もしかしたら、この演技をずっと続ければ、私のことを好きになってくれるかもしれない……そう思っちゃった。……だから黙ってたの」


「──実際、結果は大成功だった。だって鏡子、私を見る目が急に変わったもん、私がそうだったから何となく分かっちゃったんだよ」


「鏡子の言う通りだよ。私、無理してた。でも、これを止めたら、昔に戻っちゃうかもしれない。それが何より怖かった──だから、止められなかった」


「……騙してごめんなさい。でも、私には、これしか方法が思いつかなかったの」


 ずっと溜め込んでいたものが決壊するように、菜穂の独白が続く。私は今まで、菜穂がここまで心情を吐露しているところを見たことがなかった。



「確かにさ、私が菜穂の事を──特別な関係になりたいって意味で好きになったのは、今の菜穂になってからだと思う」


「だけど、分かったんだ。私は素の菜穂も、今の男子役を演じる菜穂も、どんな菜穂も好きなんだって」


「でも、幻滅させちゃったでしょ?」


「幻滅なんてしてないよ。私はずっと、菜穂の傍に居たんだから。友達として、これからは─恋人として」

「でも、これだけは約束して。無理はしないで欲しい、ほんとお風呂では心配したんだから……」

「だから、せめて、菜穂の恋人として、私の前ではありのままの、素の菜穂でいて欲しいの」


「ほんとに……?まだ鏡子のこと好きでもいいの?」


「私で良いのなら、ね」


 気が緩んだせいか、恋人としての新たな歩みが始まった喜びのおかげか、気がついたら涙が溢れていた。


「ちょっと菜穂、めっちゃ泣いてるじゃん」「そういう鏡子だって、涙が溢れてるし」

「なんか、どっちも素直じゃなかったね」


 なんだか、色々な感情が綯い交ぜになったままだけだ、ただ安堵と共に、抱きしめあった。


 激しかった雨は、少し弱まっていた。


**


 玄関先で菜穂を見送る。気がついたら21時を過ぎていた。あのあとしばらくしたら親が帰って、色々と訊かれたけど、いきなり恋人関係になったことを話す勇気は、まだなかった。だけど、菜穂が居るなら、いつか言えると強く確信することが出来た。


 ほんとはお泊まりでもしていきなよとでも言いたかったが、明日は文化祭本番、夜更かしでもしたら体に毒だし、もう、いつでも出来るんだから、またやろうと改めて約束したのだった。


「で、明日のステージ、上手くやれそう?」


「うん、鏡子のおかげで精一杯やれそう。だから、ちゃんと目に焼き付けてね?」


「最前列で見るからね。あと、応援も兼ねて、これ貸すよ。さっきのお礼」


「これは……鏡子のコート?」


「うん、まだ寒いし、鏡子のコートは濡れちゃったから……風邪ひいたらダメだからね。そのジャージとうちの傘と一緒に貸すから、また好きな時に返してくれたら」


「ふふ、嬉しい。ありがとう」


 コートの感触や匂いを堪能してる菜穂を見てると、コンビニで彼女が恥ずかしがってた理由が少し分かった気がする。でも、不快感は少しもなかった。


「鏡子のコートのおかげで明日も頑張れるよ」


 またそうやって人をドキドキさせる……

 素のままでいてと願ったけど、こういう一面はもう、菜穂の素顔の一つなのかもしれない。


「そういうの、反則……でも無理は禁物、だからね! 何か辛いことあったら私の家きて良いから」


「ふふ、ありがとう。でも、鏡子に会えないと辛くなるから毎日お邪魔することになりそう」


「いつでも来て良いから、あとその言葉も反則……」


 帰り際、菜穂は余程名残惜しいのか何回も何回も此方を振り返るから、私もその度に手を振って返した。

 恋人になっても、しばらくは今までのような関係が続くのだろう。でも、いつかは恋人らしいこともしてみたい、そう思った。

 部屋に戻ると、菜穂のコートが真っ先に目に入った。近づくと、まだほんのり彼女の香りがした。私はそれを軽く抱きしめて、眠りにつくことにした。


 秋に似合わない温もりが、ずっと身体の奥底に灯っていた。

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秋雨とコート 茸山脈 @kinoko_mountain

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