第3幕

 ランの手元には、一冊の本があった。夢の中で少年から手渡されたいわくつきのあの本だ。普通であれば、夢の中で渡されたからといって、それが現実にも現れるということはない。ないのだが、実際問題として、夢で見たものと寸分もたがわぬ本がそこには存在していた。


 窓は開いていなかったし、部屋にも鍵をかけていた。もちろん、部屋にはラン以外いない。部屋は密室だった。だというのに、この不気味な本はあった。馬鹿らしいにもほどがあったが、夢の中から飛び出してきたというほかないのだった。

 ただでさえ陰気な雰囲気を漂わせたその本が、ますます恐ろしいもののように感じられてしょうがない。ランが、押入れの奥底に押し込もうとしたのは、無理もない話であった。


 ――その本が力になってくれるかも。


 本を手渡してきた時の少年の言葉が思い起こされた。その時は本ごときが、復讐の手助けになるとは到底思えなかったが、夢の中から出てきたとしたら、もしかするのではないか……。


 段ボールの中の布のさらにその下。親に見られたら死にたくなるようなピンク色の薄い本の間に押し込んだ、ぼろぼろの本を慎重に取り出す。


 手に持てば、本が発する邪悪な雰囲気はいや増した。


 ランはごくりと唾を飲み込む。


 恐る恐る開くと、文章が並んでいる。角ばった文字はかすれてはいたが読めないほどではない。かすれ具合にムラがあるところを見るに、パソコンで印刷したようには見えない。ハンコで押した時のような感じだ。活版印刷だろうか。だが、印刷技術とは裏腹に、文章そのものは現代日本で用いられるそれとさほど変わらないから、スラスラ読めた。


 指が、文字の海を泳ぐ。パラパラとページがめくられていく。


「あ……」


 ランの指が、空をかいた。めくるつもりだったページはすでにない。手の中の本は、傷だらけの裏表紙を見せている。


 気が付かなかった。いつの間にか読み終えていた。まるで、熱に浮かされたみたいにランは物語へと没頭していた。ふわふわする頭を時計へと向けると、二時間あまりの時が過ぎ去っていた。体感では五分と経過していないのに。


 それほどまで作品に熱中していたランだったが、内容はほとんど覚えていなかった。ヤマがなかったわけではないし、オチがなかったわけでもない。それなりに面白かった物語には違いないのだ。二時間という短くない時が、あっという間に過ぎ去ってしまうほどには。


 しかし、その内容は、全くといっていいほど頭に入っていない。ぼんやりとしているのに、面白かったという感覚だけは強烈に残っていた。


 それと、物語の主人公に対する感情だけが、ランの心の中で激しく渦巻いている。主人公が何をどうしてどうなかったは物語と同じように、はっきりとしない。確かなのは、自分と似たような境遇だったということ。


 何かを奪われ、それを取り返そうとしていた。


 略奪者に対して、復讐していた。


 いやむしろ、あれは自分だったのではないか――ランはそう思い始めていた。


 胸の中で、感情が赤色に染まる。マグマのようにぐつぐつと煮える怒りが湧き上がる。いつの間にか噛みしめていた唇から血がこぼれ出して舌をざらつかせたが、気にならなかった。


「これを演じたら――」


 咲良とともに演じたら、何かが起きる。ただ何かが起きるわけではない。とてつもないことが起きる。そんな気がして、ランは胸を高鳴らせるのであった。



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