第37話 よだれだよ
俺は死体消しのバイトも辞めたし、学校が終わると暇だった。教室の机に突っ伏して寝ていると、肩をそっと叩かれた。
振り向くと真中名さんがいた。
「ごめん、起こしちゃった?」
「いいや、夢の中で帰ろうと思ってたから、ちょうど良かった」
真中名さんはクスッと笑った。
「夢の中でそう思ったんだ」
「うん、立ち上がろうとしたけど、立ち上がれないから、やべ、金縛りだと思って。でも放課後で良かったよ。
授業中に寝てて、金縛りに合ったら最悪だよな。先生に指されても、俺、金縛りで立てないんです。寝てないです、金縛りなんです。だから子供が金縛りに合ってる途中でしょうがっ! て、叫んでも声にならないし」
「昔の曲の歌詞みたい。♫夢で叫んだように、唇は動くけれど、言葉は風になる♫って」
えっ、聴いたことある。そのフレーズ。
オヤジが聴いてたな。昭和歌謡全集みたいなCDで。
「じゃあ金縛りも解けたし、これからカフェでも行かない?」
「うん、いいよ。暇だし」
2人で校門を出て、国道に沿って歩くとコンビニがあり、その前の、信号のある横断歩道でキララはトラックにはねられた。その信号機の下には未だに献花がされていた。
キララは生きているのに。
俺はその献花を見たくなくて、
国道を渡るために左右を見た。車がちょうど途切れた。そして真中名さんの手を握って、
「渡るよ」と言った。
真中名さんが照れたような顔で、「うん」とうなづいた。
俺たちは国道を走って渡った。
真中名さんの手は温かかった。
そして俺が手を離そうとすると、
真中名さんが俺の手を強く握って来て、
「カフェまでこのまま歩いていこ」と言って笑った。
そしてもう片方の手でメガネを外して、それを制服の胸ポケットに入れた。
まただ。
また世界が輝きだした。彼女は神々しい光に包まれ、ダイヤモンドダストが散らばり、俺はまた眩しくて彼女が見られなくなった。
俺はカバンの中から黒い下敷きを出した。
それをかざして彼女を見た。その輝きで下敷きの中央が赤く光っていた。
「何してるの?」
「いや、まぶしくて見えないんだよ。こうしないと」
「小学生が太陽を見てるみたい。てか、高校生で下敷きカバンに入れてるんだ」
「こういう、まぶしい物を見るためにね」
そう言うと、うれしそうに彼女は笑った。
「そんなに褒めてくれなくても」
「褒めたんじゃなくて、実際そうなんだって」
俺だって下敷きなんて使いたくないよ。
恥ずいよ、下敷き。でもノートの下のページに筆圧で跡がつくのがいやなんだよ。
俺は筆圧が強過ぎるんだよ。ノートの最初のページに文字を書くと、最後のページまでその文字の跡がつくんだよ。そしたらもう、次のページからその跡にシャーペンの芯が引っかかって、文字がうまくかけないんだよ。もう跡じゃないな。溝だ、溝が出来るんだ。
どんだけ筆圧強いんだよ。よくノート破けないな。
俺は目がそのまぶしさに慣れるまで、手をつなぎながら、下敷きをかざして彼女を見ていた。
そんな姿がおかしかったのか、彼女はずっとクスクス笑ってた。
駅前のカフェに着く頃には、やっと目が慣れて下敷きが要らなくなった。下敷きは彼女の輝きの熱量でフニャフニャになって、もう下敷きとして使えないので、ゴミ箱に捨てた。ありがとう、俺の目を守ってくれて。
駅前にはLe Cafe de amorとLucha Ribleがあった。あの時、恩田さんはLucha の方に居た。
俺は恩田さんみたいな、おたんちんじゃないので、Lucha の方に入った。
って、なんでだよ! なんでLeに入らねえんだよ! どうして女子とルチャ・リブレの店に入るんだよ!
答えは、一度入って慣れたからだった。
初めての場所は気を遣う。
特にLeは、高級そうだし。
彼女は壁に貼られたジュニアヘビー級レスラーのポスターや、派手なマスクを見て、目を輝かせていた。ヤバい、下敷きがまた要るかも。
「入来くんはこのお店はよく来るの?」
「2度目だね」
前回はエルフが強烈過ぎて、何を頼んで何を飲んだのかも覚えてない。
俺らが先に着くと、コブラが描かれたマスクをかぶった小太りで、半裸にレスラータイツを履いた男が、
「ご注文は?」と訊きに来たので、
俺たちはメニューもよく見ずに、カプチーノにした。
しばらくして運ばれて来たカプチーノには、マスクをかぶったレスターの顔が描かれていた。
「すごく凝ってるね」
「うん、すごいね」
俺たちは秒でマスクマンの顔をスプーンでぐちゃぐちゃにかき混ぜた。
俺はそのぐちゃぐちゃのマスクマンの顔を飲みながら、「何か話とかあったの? カフェに誘ったりして」
「何かないと誘っちゃダメ?」
彼女もぐちゃぐちゃのマスクマンの顔を飲みながら、甘えるように言った。
「そうじゃないけど」
「ずっとこうしたかったんだ。2人でカフェに行くのが夢だったの、入来くんと。でもキララがいたから、邪魔しちゃいけないし」
「俺とカフェに? どうして?」
彼女はマスクマンの顔を更にスプーンでぐちゃぐちゃにした後、恥ずかしそうに、
「入来くんのことが好きなの」と言った。
えっ、アオハルの風が吹いた。
真中名さん俺のことを好きって言った。
俺は真中名さんの下の名前も知らないのに。
「あ、返事とかはすぐにじゃなくていいの。聞くの怖いし。でも友達になれたら、それだけでうれしいな」
「あ、その前に下の名前教えてもらっていい?」
「香那眞(かなま)っていうの。上から読んでも、上から読んでも、まなかなかなま、なの」
下からは読まないんだ。
でも、まなかなかなまって、すごいな。
親は回文好きなのか。いつも回文のこと考えてるのか。
よだれだよ、とか、
猿に似るさ、とか。
よだれだよ、ってなんだよ。汚ねえな。
よだれだよって、垂らしながら近づいてくる奴って怖えな。
「そっか、フルネーム聞いたからもう友達だよ」
「えっ、ホントに。うれしい」
「LINEの交換していい?」
「うん」
俺はスマホを出して、彼女が出したLINEのQRコードを読み込んだ。
彼女の名前が友達に追加された。でも俺は心の中で彼女を回文さんと呼ぶことに決めた。
でも、もし彼女の名字が与田だったら、
親は、れだよって付けたかな。
名前が、よだれだよ、ってすげえな。
俺たちは他愛ないことをしゃべってるうちに、いつの間にかマスクマンのぐちゃぐちゃな顔も飲み干していた。もう1時間も経っていた。
「じゃあ、そろそろ出ようか」
「うん」
俺が会計を済まそうと伝票を取ると、
「私が誘ったんだから、私に払わせて」と言ってサイフを出した。
上品なブラウンの革に、留め金にはHの頭文字が使われている。エルメスのサイフだ。
いつかテレビの芸能人持ち物チェックで、グラドルが持ってた。
回文さんは金持ちのお嬢様なのか。フツーの高校生が持てる物ではない。
「いいよ、ここは俺が払うから」
そう言って伝票を見ると、マスクマンのぐちゃぐちゃは一杯1800円もした。
ぐちゃぐちゃにしたのは、俺たちだけれど。
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