第36話 ヴラド

「シャル……?」

 陽虎の口から芯の欠けた呟きがこぼれ落ちる。何が起こったのか皆目分らなかった。まるで局所的に超強力な突風が吹き荒れでもしたかのようだ。


 さっきまで確かに陽虎達しかいなかった小部屋の一隅で、ふいに人の気配が生じた。

「仕留めそこねたか」


 誰だ。

 混乱に掴まれたまま振り向いて、陽虎は我知らず戦慄した。

 奇妙な男だった。色の抜け落ちたような銀髪を肩に垂らし、皺のない肌にはまた瑞々しさもなく、あたかも古びた仮面が張り付いているかのようだ。およそ年齢の見当がつけられず、動く死人だと説明されたら信じてしまいそうだ。


 生白い首に細い鎖を掛け、その先端に吊るされた丸石の表面がゆらゆらと輝いて、激しい爆発の後の残り火を思わせる。

「実にもって度し難い」

 銀髪の男は口元を歪めた。

「策を見抜く頭はなくとも、反射神経と体力だけでしのぐか。人というよりまるで獣だ」


 侮蔑の投げかけられた先、塵埃の舞う半壊した壁の向こうから、直ぐに立てられた剣が突き出していた。柄を握る手に続き、瓦礫を振るい落としながらシャルロッテが現れる。

珠士じゅしはどいつもこいつも……騙し討ちしか能がないのかってんだ」

 苛立たしげに唾を吐くその姿を見て陽虎は危うく悲鳴を上げそうになった。


 ずたぼろだった。

 黒革の短衣の上下はあちこちが破れ、露出した皮膚が血に染まっている。元から剥き出しの腕や脚、顔や腹に至っては数え切れないほどの傷が穿たれていた。


 だがシャルロッテにはわずかに怯んだふうもない。逆に挑むような嗤いを浮かべてみせる。

「てめぇがヴラドか。ずいぶん性根の腐った野郎らしいけどな、天界から落ちた者のよしみだ。あたしが本当の戦いってものを教えてやるよ。魂に刻んで果てろ」


 火の出るような気迫と対峙しながら、銀髪の男は冷え切った空気を纏う。

「愚物めが。貴様こそ身の程を知るがいい。棒切れを振り回すことしか知らぬ蛮人など、我が敵とするにも足りぬ」


 ヴラドが指を弾くと同時、拳ほどもある光球が宙空に出現し、高速で前方に撃ち放たれた。負傷の影響かシャルロッテはかわすというより大きく身を前にふらつかせ、と見えた次の刹那にその姿は掻き消えて、光弾は背後の割れ壁を虚しく穿つ。


 既にシャルロッテはヴラドの間近へと達していた。あとは頭上に構えた剣を斬り下ろすばかりというまさに神速の踏み込みに、ヴラドが驚愕したように目を見開く。だがその口元がひっそりと笑みの形に歪んでいたことに、シャルロッテは気付かなかった。


 三体の霊鬼が降って湧いたように現れ、無防備なシャルロッテの背後を襲う。

「ぐはっ」

 霊鬼の撃ち放った小光弾が次々と炸裂し、仰け反った隙を衝いてヴラドは刃の間合から遠く身を退かせた。その間にも霊鬼達は新たな光弾を生成してシャルロッテを狙い撃つ。


「だーっ、うっとうしい! 消えやがれ!」

 シャルロッテは乱暴に剣を振るった。まるででたらめっぽい一閃は、しかし刃に触れた灰色の鬼をたちまちにして霧散させる。ごみを落とすような風情で剣を払い、刃を寝かせて肩に担ぐとシャルロッテは敵を睨みつけた。


「こんなのどれだけ出したって無駄だ。珠士の端くれならそのくらい分れ。てめえが自分で向かって来いよ」

「貴様にはこれで十分だ」

 ヴラドは能面のような無表情で、再び霊鬼を生み出した。

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