第35話 解放

 なんだかいい気持ちだった。

 自分が今どこで何をしているのかは分らない。

 むしろほんのついさっきまで、自分というものの存在さえ忘れていた。

 まるで空に浮かぶ雲にでもなったみたいに、身も心もふわふわと揺らめいて、ともすると形を失って移ろっていきそうだ。


 そんな櫻子の意識を呼び覚ましたのは、チクチクと胸に疼いた感覚だった。

 痛いというほどじゃない。

 けれどどうにも気になって仕方ない。

 櫻子はその元を辿ろうと注意を向けて、そのまま強く引き付けられた。


 誰かいる。

“陽虎?”

 自然と名前が衝いて出る。心に暖かな火が灯る。

 陽虎だ。陽虎がわたしを捜してる。でもいつの間にはぐれたんだろう。いい年して迷子になるなんて、世話が焼けるな。


“陽虎、わたしはここだよ”

 早く見つけてほしくて呼び掛ける。途端、陽虎の気配が強くなった。

“櫻子、俺の声が聞こえるか!? 聞こえてるならこっちに来い。早くそこから出るんだ!”


“聞こえてるよ。けど、見えない。どこにいるの?”

 陽虎はやけに切羽詰まった調子で櫻子は不安になる。すると今度は距離が分らないほどの真近で別の人の声がした。


「ここだよ、ハルちゃん。ここでじっとしてればいいの。そうすればわたしもハルちゃんもヨーコくんも一つになれる。いつまでもみんなで幸せでいられるよ」

“誰……ヒカゲ?”


「そうだよ。ハルちゃんはわたしとずっと一緒にいるの。だからヨーコくんもおいで。意地を張るのはやめて力を抜いてね。とっても気持ち良くしてあげる。生身でするよりもっとずっと素敵なんだから」

“待て、待った、はうっ”


 陽虎が切なそうに呻く。相変わらず姿は見えず、どういう状況なのかはさっぱりだが、あとで絶対に詳しく聞き出してやろうと櫻子は密かに決意した。

 とにかくヒカゲは心から櫻子が傍にいることを望んでいるらしい。そのうえ陽虎もこっちに来る。

 だったらそれでいいのかも、という気がした。


“はっ、ふざけてんじゃねえ”

 だが安らぎのうちに沈もうとした櫻子の胸にその時、剣でも突き立てられたような鋭い痛みが走った。


“一つになるだと? 下らねえ、全員まとめて縛られるってだけだろうが。いくら言葉を飾ったって糞は糞だ。臭い匂いはごまかせねえよ”

 優しく甘いヒカゲの誘惑とはまるで真逆だった。まるで鋼の刃をめり込ませるかのごとく、激烈な力を備えた言葉が迫る。


“欲しいものがあるんなら戦って勝ち取れ! てめえの本気の意志を見せてみろ!”

 蒼い閃光が走り、ぶつっと太い綱が断ち切られるような音が、平らな空間に谺した。


     #


「櫻子!」

 ヒカゲに半ば意識を持っていかれかけていた陽虎は、身心が自由になるなり叫んだ。さっきまでヒカゲの中にあった櫻子の気配が消えていた。


「お前、櫻子に何を……っ」

 問い質そうとして喉が詰まる。下に組み敷いたヒカゲの体が急速に薄くなっていた。早くも床が透けている。

 為す術もなく見下ろしているうちに、虚ろな瞳に微かな光が瞬き、「またね」という声が聞こえた気がした。だが確かめることはできない。ヒカゲの姿は既にない。


「シャル、ヒカゲは一体……いや、それより櫻子はどうなったんだ。無事なんだよな?」

 シャルロッテは片膝をつき、床に突き立てたシュリギアの柄で身を支えながら荒い息をついている。顔色が悪い。

 陽虎を通じてヒカゲに霊気を吸われたせいで消耗しているようだ。


「……ああ。ヒカゲとかいう霊鬼を縛っていたしゅをぶった斬って、捕らわれていた櫻子の魂を解放した。今はシュリギアの中に」

 吹っ飛んだ。


 陽虎は唖然と目を瞠った。

 少なくとも五十キロは下らないだろうシャルロッテの体が、小石のように宙を走り、壁に叩きつけられていた。

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