第17話 くんずほぐれつ

「うひゃあ!?」

 陽虎はあられもない悲鳴を上げた。抵抗の余地は髪の毛一筋すらもなく、猛烈な勢いで体が宙を滑り、直後に意識が千切れ飛びそうな激突に見舞われる。


 うまく身動きが取れない。とにかく現在の自分の状況を確かめようとして、ぎょっとする。


 右と左で視界に映っている景色が違う。

 左はさっきまでいた和室、右は薄暗い物置のようだ。

 理解が追い着くまでに瞬き五回が必要だった。


 体が文字通り半ば壁にめり込み、隣の部屋にはみ出ているのだ。ぐずぐずしていたら両断されてしまうかもしれないという理不尽な恐怖に駆られ、急ぎ壁から脱出する。


 陽虎が飛ばされたのとは反対側の壁には、霊鬼が上半身を埋めていた。腰から下だけ突き出している格好が微妙にエロい。もし性別があるとしたらやはり女だと陽虎は思う。


「おいシャルロッテ、勝手に人の体を動かすなよ」

 いくら危機一髪だったとはいえ、いきなり霊鬼にぶち当てるなど乱暴過ぎる。これでは下僕どころかまるっきり物扱いだ。


「けど上手くいったな。あたし達、意外と相性がいいのかもしれねえぞ」

「全然嬉しくない」

「待ちやがれっ」


 死んだように動きを止めていた霊鬼が、ずるりと壁の向こう側に抜け出た。シャルロッテは即座に後を追って突っ込む。陽虎は瞬間びくりとしたが、天界の剣士は壁に跳ね返されることも逆に壁の方を壊すこともなく、彼方へと姿を消した。


「いってらー。もう帰って来なくていいからなー」

 いっそあの霊鬼とやらと相討ちになればいいのだ。


 とはいえ本気で不運を願いはしない。

 なにせ陽虎の魂はシャルロッテの手に握られている。

「主」に万一のことがあった場合、「下僕」だってどうなってしまうか分らない。その縛りさえなければ、あんな歩く傍迷惑の心配なんて一秒だってしてやるものか。


 シャルロッテを追って部屋を出る。もちろん壁抜けではなく、人間らしく戸口を使う。


 片割れのいる方向はなんとなく分った。目には見えなくても、二人の間にはやはり繋がりがあるらしい。せめて小指を結ぶ赤い糸などでないことを祈る。


 玄関に近付くと、話し声が聞こえた。誰だ。晴日と櫻子ならいいけれど、それ以外だったらどうするべきか。迷いながらドアの魚眼レンズを覗き込む。


 手前にいるのはシャルロッテの後ろ姿、少し奥に見えるのは晴日と櫻子だ。

 霊鬼らしき姿はない。どうやらもう片は付いたらしいと陽虎は安心してドアを開けた。

 知らないおっさんがいた。


「た、高水陽虎か!?」

 陽虎を見て驚愕する。どうやら腰が抜けているらしく、立ち上がろうとしても尻は虚しく地べたを這いずるばかりだ。


 誰だこれ?

 陽虎は視線で晴日に尋ねた。あとで、と妹も同じく視線で返し、座り込んだおっさんの襟首をがっしと掴む。


「さ、行きますよポチ。お座りの命令は出していません。家の中に入るんです」

「……あー、はい。分りましたご主人様」


 おっさんは暫しためらったすえに頷くと、晴日に襟を引かれるまま飼い犬みたいに後を付いていく。


 謎は深まる一方だ。何物だ。晴日を見初めたド変態ストーカーとかだろうか。それなら速やかに警察に通報か保健所に駆除要請か、いっそシャルロッテに頼んでこの場で首を刎ねてもらうというのが手っ取り早いか。


「陽虎、よかった! ちゃんといた!」

「櫻子?」

「やっぱり夢なんかじゃなかったんだね!」

 櫻子はやけにほっとした表情をしていた。気持ち目が潤んでいるようでもある。


「何かあったのか? まさかあのおっさんに変なことされたとかじゃないよな」

「ううん、蜷川さんは関係ない、こともないけど、陽虎のことが心配だったの。もしいなくなっちゃってたらどうしようって」


「よく分らんけど、俺はここにいるぞ」

「うん、だからよかった」

「話はあとだ。お前達も入れ」

「きゃっ」


 シャルロッテに押された櫻子が体勢を崩して倒れかかる。

 陽虎は受け止めようと腕を差し出す。しかし迂闊だった。陽虎はもはや普通の体ではないのだ。


 櫻子が擦り抜けてしまうことこそなかったものの、まるで踏ん張りが利かず、真後ろに転んで頭を地面に打ちつける。それでも痛みはなく、体操のマットに沈むような感覚なのは、たぶん本当に沈んでいるのだろう。生身なら脳が半分削れたような状態だ。


「ご、ごめん陽虎。大丈夫?」

「お前こそ、どこも怪我してないか?」

「わたしは全然平気、だけど……」

 櫻子は言葉を濁した。顔も妙な角度に曲げている。


「きつそうだな。首の筋でも痛めたか」

「違うの、えっと、この体勢が、その」

「あ……」


 陽虎は自分の上に乗った櫻子の体をしっかと抱き締めていた。すぐ間近にある横顔が紅に染まっている。


「ふ、深く考えるなよ櫻子、これは事故だからさっ」

「そうだよね、偶然だもんね、しょうがないよねっ」

「何してるんです?」

 南極大陸の氷原みたいに平坦な声音が降ってきた。


「おにぃも櫻子ちゃんも春真っ盛りですか。桜だけに花マン開ですか。よかったですね」

「こら晴日、変なこと言うんじゃない!」

「晴日ちゃん、誤解だから!」


 晴日は重なって寝転ぶ二人をじっとりと見下ろした。存在しないはずの陽虎の胃が痛み始める。


「今は大変な時です。おにぃの体だってどうなってるか分りません。可及的速やかな対応が必要なのです。いいですか?」


「はい、すいません。気合入れて頑張ります」

「わたしも。陽虎のために精一杯努力する」

「結構です。ではポチとシャルロッテさんも一緒に作戦会議です」

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