第15話 悲鳴
櫻子は心穏やかな気分ではいられなかった。
晴日が隣にいるのはいい。知られざる暗黒面が開いた感があるのが少し怖いが、自分とは家族にも等しい間柄である。まさか櫻子のことまで飼い犬扱いにはしないだろう、たぶん。
不安の種は二人の後ろからついてくる男だった。
といっても別に不審人物というわけではない。むしろ身元はこのうえなくはっきりしている。なにしろ現役の警察官だ。
しかしだからこそ、まだ女子高生に成り立てほやほやの平凡な身にとっては、重い。無駄に緊張してしまう。
実際には蜷川刑事は自分達を捕まえようと狙っているわけではない。逆に協力しようとしてくれているのだから、警戒するのは筋違いだ。
でも本当にそうだろうか。
不安が櫻子の足元に絡みつく。
単純に表面だけを取れば、櫻子達は兇悪殺人犯を匿い、今また遺体を盗み出すのに手を貸そうとしているところなのだ。法的にかなりアウトな感じである。
そして裏面の事情はといえば、およそ世の中の常識から大きくはみ出している。
櫻子と晴日は受け入れた。なにしろ目の前で陽虎が動いて喋っているのだ。いくら突拍子もなかろうと、認めるしかないではないか。
だが蜷川は他人で、大人で、とどめに刑事である。摩訶不思議な現実を信じず、何かのまやかしや詐術として切って捨ててしまう可能性は十分に考えられる。
櫻子は身震いした。
──っていうか、そもそもあの陽虎は他の人の目にもちゃんと映るの?
そっと背後をかえりみる。しかしすかさず刑事に視線を返され、慌てて前に向き直る。
「櫻子ちゃん? どうかしましたか」
「ううん、なんでもないの。なんでもないんだけど……あのね、晴日ちゃん」
「はい」
「もしだよ、もし」
ゆうべわたし達が会った陽虎がただの夢で、本当はやっぱり普通に死んじゃってて、もう二度と話したり触れたりできないとしたら。
どうする、と問おうとして、薄ら寒さに喉が詰まる。
やはり蜷川を引き入れるのは間違いなのではないか。
夢のような出来事はやはりただの夢だったのだと暴かれ、幻として消えてしまうのではないか。
「櫻子ちゃん」
えずきそうになった櫻子の手を、晴日がぎゅっと掴んだ。
「着きました。この家です」
はっとして顔を上げる。ごく普通の住宅の前だった。
シャルロッテと陽虎の潜伏先だ。シャルロッテ曰く、「最近人の寄り付いた気配のない家を適当に選んだ」そうだが、なるほどポストの投函口からチラシが盛大にあふれ出ている。
だが廃墟というほどには荒れていない。どうやら空き家になったのは比較的最近のことらしい。
蜷川はなんだかやけに険しい顔をしていて、櫻子はその目を盗むように晴日の耳元に口を寄せた。
「……ねえ、やっぱり出直そうよ。陽虎達に話してからの方がいいと思うの」
「一理あります。だけど、ぐずぐずしている間におにぃの体に何かあったら」
晴日は反論を途中で打ち切った。前の家に視線を投げる。
悲鳴だ。おそらくは若い男の声、というか間違いなくあれは。
「おにぃ!」
「陽虎!」
「おい、待て!」
少女二人が同時に叫び、最初の反応こそ遅れを取ったが、行動で優ったのは刑事だった。櫻子達をほとんど押し退けるように追い越し、いち早く玄関扉へ到達すると、躊躇なくノブを掴む。
「うおっ!?」
見事な反射神経だった、と言っていいだろう。蜷川はしゃちほこみたいに身を仰け反らせ、その顔の上を掠めるように、人の形をした半透明の物体が飛び出した。一瞬遅れて白銀色の光が伸び、初めに現れたヒトガタの頭と思しき部分に突き刺さる。
霧が日に照らされたみたいに、ヒトガタはほどなく薄れて消え去った。あとに残ったのは鋭い輝きを放つ剣と、そして。
「腕が、ドアから生えてる……?」
力なく尻餅をついた蜷川が、呆然と呟く。
剣の柄を握る手が、二の腕の半ばでぶっつりと玄関ドアに遮られている。もちろんそれは単なる悪趣味な飾り付けなどではなかった。
「あ、え、おい、ちょっ、は?」
蜷川が異言を発する先で、腕の続きがずるりとこちらに抜け出てきた。女だ。
露出の多い黒革の上下の服に、オリンピックのアスリートみたいに引き締まった体躯、黒褐色の肌が艷やかに照り映える。
癖の強い髪の毛はざっくりと後ろで束ねられ、おでこが丸出しのためか意外と幼さの感じられる顔立ちの中で、そこだけ別物のように猛々しい光を湛えた瞳が、唖然とする蜷川を捉える。
「ん、なんだお前は。霊鬼を操ってた
男子高生斬殺の容疑者は、真顔で刑事に忠告した。
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