第5話 お前は既に……

 なんだか、ぼうっとする。

 途轍もなく大変なことが起きた、そんな気がしていた。普通なら一生一度しかないような決定的な体験だ。

 しかしそれが何かを思い出せない。ざるで水を掬おうとしているみたいに、考える端からこぼれ落ちていく。


 そもそもここはどこなんだ。

 今いる場所がうまく掴めない。自分が立っているのか寝ているのかさえ曖昧だった。夜中にふと目を覚ました時だって、もう少し意識がはっきりしているだろう。


 些か不安になってくる。もしかして自分は記憶喪失症にでもなったのではあるまいか?


 おれは、ようこ。高水陽虎だ。

 オッケー、ちゃんと思い出せる。先月中学を卒業した。今日から高校に通う。入学式に行こうと家を出たら櫻子が待っていて、適当に相手をしながら歩き出して、たぶんそのあとだ。


 頭がぶっ飛ぶぐらいの衝撃が自分を襲ったのだ。

 記憶の中の出来事を手繰り寄せようとして、しかし陽虎は別のものに注意を引かれた。


「ふーん、ふーふふーん♪」

 何か聞こえる。


「ふふふ、ふふふふ、ふーん♪」

 女の声、か?


 どうやら鼻歌らしい。上手い下手はともかくとして、楽しげで芯のある響きがなかなかに快い。


 ついで桶で水を浴びせるような音がした。何の気なしに注意を向けて、陽虎はぎょっとした。


 裸の女がいる。小さな椅子に腰を掛け、背中をこちらに向けている。

 夕方のような薄暗がりの中なのに、濃い色の肌が周囲に溶け込みもせず、眩しいほどに艷やかだ。


 女は掌で体をこする。背中から腰、そしてさらに下の丸みへと。陽虎ははっとした。これでは覗き見同然だ。


“あの、すいません”

 声を上げて自分の存在を知らせようとした。けれど妙だ。周りまで響いた感じが全然しない。穴の開いた風船に息を吹き込んだみたいに、空しく消えていく。


「ふふふ、ふーんふーん、お、気付いたか」

 しかし女は鼻歌をやめて振り返った。その瞬間、陽虎は目の前でフラッシュを焚かれたような気がした。


 もろ出しだった。

 小振りながらも形良く膨らんだ胸も、その先の尖った突起も、下腹部の滑らかな淡い茂みも、さらにその奥に薄っすらと見えるのは──。


 なぜか突然、櫻子の泣き顔が思い浮かんだ。

“誤解だぞ! これは気付いたら向こうが勝手に脱いでたんだ! 俺には一つも疚しいことなんてないからな!”


 いきなり弁解を始めた陽虎に、裸を見られた、というか今も見せている当人は、慌てもせず首を傾げた。


「どうした? 何かまずいことでも……ああ、あたしの体に興奮してたのか。しょうがない奴だな」


 陽虎に焦点を合わせるように女は瞳を細め、気の抜けたような息を吐くと、今さらのように開いていた膝を閉じ、胸を腕で覆い隠した。


 既に櫻子の幻は消えていた。だが代わりに生身の裸女にしげしげと見返されて、居心地悪いこと甚だしい。


“いえあの、俺はただ驚いただけです。エロい目で見たりなんかしてないので”

「丸分りだから。けど安心しろよ、別に怒ってるわけじゃない。そういう目で見られるのに慣れてなくてさ」


 女は少し照れたようだが、陽虎に相手を気遣う余裕はなかった。

「丸分り」と言われ反射的に己の股間に注意を向けて、そのまま思考が停止していた。


 自分も全裸であそこが大いにフィーバーしていた、わけではない。

 そもそも、なかった。

 あそこが。

 というか、あそこも。

 体がない。


 感覚はある――ような気がする。少なくともさっきまではしていた。

 だが試しに今確かめようとしてみても、手は体のどこにも触れることがない。そもそもその手からして「ない」のだから当然なのだが。


 しかし全くの無かといえばそうではなく、だいたい自分の体があると思える辺りに、薄ぼんやりした半透明の領域があった。まるで人の形をしたクラゲのようだ。いや、むしろこれは。


“幽霊だな。じゃあ俺は死んだってわけか。ははっ、馬鹿馬鹿しい。そんなことあるわけが……”


「そうだよ。お前は死んだ」

 女は端的に頷く。陽虎は沈黙した。

 なぜ自分が死ななければいけない。そんな心当りは全くないのに、と否定しようとして、一つの情景が閃く。

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