第12話 ペンダントの中身
(――あれ?)
先程まで居た場所に戻ってきてしまったのかと思った。しかし、窓の外から紅い月は見えず、どころか明るい日差しが射し込んでいる。常夜の
「信じらんない! 入院した親の見舞いにかこつけて、金の無心!?」
目の前の病室の扉から、ヒステリックな女性の声が聞こえた。
「だって、仕方ないじゃん。うちは離婚して、まりあだって居るし。金掛かるんだから。大体、ただの検査入院でしょ?」
受け答えをしたのは、まりあの母親の声だ。
(そうだ。わたし、ママと一緒におばあちゃんのお見舞いに来たんだ)
そこで、母親の妹――まりあの叔母にあたる人と遭遇した。挨拶を交わして一通り祖母と話した後、「大人だけの話があるから」と、まりあは先にロビーに戻っているようにと言われたのだ。
だけど、まりあはそうしなかった。祖母のことが心配だったのだ。まりあの居ない所で病状の深刻な話でもするのではと病室の前で待機していたら、聞こえてきたのは全く別の、今しがたの会話だった。
「ふざけないでよ! 離婚だって姉さんの所為でしょ!? 和哉さんに内緒で彼のカードでブランドもの買い漁って、勝手に借金作って! それがバレて離縁されたんだから、身から出た錆よ! その上、今度はあたしや母さんにたかって、恥を知りなさいよ!」
「まぁまぁ、
「お母さんが、そうやって甘やかすから!」
叔母の喚声はエスカレートしていく。まりあには難しい話の内容だったが、聞いていると何だか辛くなって、扉からそっと注意を逸らした。
ポケットから取り出した金色のハートを掌に握り込む。誕生日に貰ったロケットペンダント。蓋を開くと、中には切り取った小さな写真が入っている。まりあの母親と、少し前まで父親だった人の写真だ。
(パパ……)
最後に会った日のことを思い出す。
『パパ! どうして、行っちゃうの?』
突然のお別れ。まだ幼いまりあには離婚というものがよく分からなかったが、大好きな父親が何処か遠くに行ってしまうのが嫌で、必死に引き留めようとした。
しかし、彼は悲しげな
『ごめんね、まりあ。僕はもう、君のお父さんじゃないんだ』
お父さんじゃない。
その言葉は、まりあに衝撃を与えた。
まりあは母、真理子の連れ子で、和哉とは血の繋がりがなかったのだ。
本当の父親は知らない。物心つく頃に「お前のお父さんだよ」と紹介された和哉のことを、ずっと実父だと思っていた。
それなのに、そうじゃなかった。自分の中の常識が引っ繰り返されて、まりあの世界は一変した。
「何あんた、ロビーに戻ってろって言ったでしょ。まだこんなとこに居たの?」
不意に声を掛けられて、まりあは肩を弾ませた。いつの間に話を終えたのか、真理子が病室から出てきていた。
「ママ」
盗み聞きしていたことを叱られるのではないかと身構えたまりあだったが、真理子が見咎めたのは、まりあの掌中からはみ出した金色の鎖だった。
「あんた、それ……まだ持ってたの? 捨てろって言ったでしょ」
嫌なものを見るように、顔を顰めて吐き捨てる。母親の強い拒絶反応に、まりあは怯んだ。
「でも……」
「でもじゃない! あの男の写真なんて、もう必要ないでしょ? それとも、そうやってあたしに見せつけて、抗議でもしてるつもり? 気分悪い!」
「あっ」
激した真理子が、まりあの手からペンダントを奪い取った。遠巻きに眉を顰める周りの目も気にせず、開いた二階の窓から勢いよく投げ捨てる。
金色の光がきらりと刹那瞬いて、すぐに視界から消えた。
言葉も無く茫然と立ち尽くす娘に、真理子は「ほら、行くよ」とつっけんどんに言い放つと、さっさと歩き出した。
まりあはペンダントの行方を目で追おうとしたが、彼女の身長では背伸びをしても窓の外を覗くことは叶わず、また、ぐずぐずしていると更に母親の機嫌を損ねそうだったので、諦めてとぼとぼと後に続いた。
大切なものは、いつも突然無くなる。――分かっていたのに。
『もう、手を離しちゃダメだよ』
いつか遊園地で貰ったハートの風船は、もう萎んでしまった。
「……あ、まりあ!」
呼び掛けに、まりあの意識が引き戻される。
昼の明るさは鳴りを潜め、夜闇の中、紅い満月と病棟の薄ぼんやりとした灯りだけが周囲を照らし出している。いや、正確には彼女自身の生命の輝きが、その場では一番眩かった。
生を訴えるように、鼓動が早鐘を打つ。身体が熱い。悪夢を見た後のように、知らず息が上がっていた。
「大丈夫? 何だか苦しそうだったよ」
シフォンとクラウン、一人と一匹の心配そうな顔が彼女を取り囲んでいた。まりあが立っているのは、勿論病院の廊下ではなく、外だ。
握り締めた掌を解いて見ると、そこにあった筈のハートのロケットペンダントは、すっかり消え失せていた。それは彼女が過去に失ったものなのだから、二度と手に入ることはないのだ。
「……大丈夫。ちょっと、いっぺんに色々思い出して、ぼーっとしちゃっただけ」
とにかく同行者達を安心させようと、まりあは無理に笑みを作ってみた。ぎこちない表情筋にハラハラさせられたが、ちゃんと笑えてはいたらしい。ひとまず場には弛緩したような空気が流れた。
「でも、やっぱり全部じゃないみたい。まだ、どうしてここに来たのかとかも分からないし……」
――あまり思い出したくなかった。
そんな感情は伏せて、まりあはいつも通りにそれだけ伝えた。シフォンは何かを感じ取っているのか、未だ気遣わしげな眼差しをしていたが、それでも深くは言及せずに調子を合わせてくれた。
「そっか。でも、着実に記憶は戻ってきているんだよね。それなら、きっともう少しだよ!」
「……うん」
「次は学校だよね。まりあの他にも生きてる子が迷い込んでるのかもしれないんだっけ。早く確かめなくちゃね。クラウン、また道案内よろしく」
「ハァイ。今度はあんまり離れてないから、すぐ着くと思うヨォ」
クラウンだけは変わらぬ様子で、のんびりと請け負った。「こっちだヨォ」とくっつきたての腕を陽気に振って先導する彼に続いて、歩き出す。
新天地を前にしても、まりあの心は今しがた見聞きしてきた記憶の内容に囚われていた。
どうして、自分には父親が居ないという認識だけがあったのか。どうして、愛犬のことはしっかり覚えていたのに、母親のことは曖昧だったのか。――分かった気がした。
先程のシフォンの言葉が脳内で再生される。
『でも、着実に記憶は戻ってきているんだよね。それなら、きっともう少しだよ!』
(怖い)
思い出すのが怖い。
空白の大地を、これ以上掘り起こしてしまって本当にいいのか。そこには、更に恐ろしいものが埋まっているのかもしれないのに――。
そう思うと、足が竦んだ。
(でもみんな、わたしのために付き合ってくれてるんだから……わたしが逃げちゃダメだ)
立ち止まっている暇なんて、ないのだから。
シフォンとクラウン、仲間の顔を思い描き、まりあは挫けそうになる己を叱咤して歩を進めた。
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