第10話 不可解な記憶

「――まりあの記憶の欠片?」


 こんな所に……と、シフォンは困惑気味に呟いた。まりあも同じ気持ちだ。目撃情報を頼りに探していたのだから、きっとある筈と期待はしていたものの、まさかこんな形で見つかるとは思っていなかった。

 こんな――ベッドそのものの形で。

 固唾を飲んで、まりあは光るベッドへと手を伸ばした。シフォンが心配そうに訊ねてくる。


「大丈夫? まりあ」


 まりあは頷きを返した。正直、胸騒ぎがする。黒い影と遭遇した時程ではないが、何か尋常でない予感がしていた。

 だけど、これは自分の記憶だ。取り戻さないことには、始まらないのだ。

 意を決して、白いシーツに触れる。後は風船の時と同じだった。触れた箇所から輝きが一際強くなり、ベッド全体へと広がっていく。やがて、光の粒子がまりあの元へ吸い寄せられるように収束し、消える。

 眩い光にかれて、目の前が瞬間、真っ白になった。


 微かなすすり泣きが聞こえた。押し殺した嗚咽おえつの合間に、何某なにがしかの言語が混じる。注意深く耳を傾けてみると、それは「まりあ」と自分の名を呼んでいるようだった。次いで、「ごめんね」と。


「まりあ……ごめんね」


 同じ言葉が、何度も何度も繰り返し囁かれる。聞き覚えのある声だ。

 まりあは、ゆっくりと瞼を持ち上げた。知らない白い天井が映る。傍らに吊られたビニール袋から、水が一滴ずつ音もなく筒の中へと落下していく。その先に延びる管を目で追う内に、自分の身体の上に半ば覆い被さる形で伏した母親の姿を見つけた。


「ママ……?」


 自分でも驚く程しゃがれて掠れた声が出た。すすり泣きが止む。息を呑むような間の後、母親は勢い良く顔を上げた。


「まりあ!」


 抱き寄せられる。強い力。なのに、母親の手は寒さに凍えるように震えていた。


「まりあ、ごめんね……まさか、こんなことになるなんて」


(――こんなこと?)


「あの男とは、別れるから。もう、まりあに近付かせはしないから」


 切羽詰まったように語る母親。けれど、まりあには何のことだかさっぱり分からなかった。


「ママ……どうしたの?」


 どこか痛いの? 悲しいの? どうして、泣いているの?

 問い掛けると、母親は少し身を離し、まりあを見た。惑うような眼差し。


「……まりあ?」

「あの男って? 何かあったの?」

「何、言って……」

「ねぇ、ママ。シフォンは? シフォンはどこ?」


 母親の瞳は動揺に揺れていた。戦慄わななく唇。そこから零れ落ちる、言葉。


「あのね、まりあ……シフォンは、もう……」


 開扉音が聞こえ、唐突に映像が途切れた。


「ああ、こちらにいらしたのですね」


 振り向くと、病室の扉からナースが顔を覗かせていた。まりあはベッドの上ではなく、横に立っている。悪夢のような現実に戻ってきたのだ。


「まりあ、大丈夫?」


 足元からの問い掛けは、当然シフォンのものだ。まりあはぼんやり頷いた。


「うん……」

「遅くなって、すみません。以前に足をやってしまい、あまり走ることが出来ないのです」


 そう釈明するナースの足には、両方に継ぎ接ぎの痕がある。一度げて繋ぎ合わせでもしたのだろう。


「あの黒い影は? 大丈夫だったの?」


 この足できちんと逃げ切れたのか。心配になって訊ねると、ナースは事も無げに言った。


「追い付かれました」

「え!?」

「それが、不思議なのです。真っ暗な闇に包まれたと思ったら、一瞬何かが光って……気が付いたら、さっきまでとは別の場所に居たのです。この病院内ではありましたが……。あの影は、そのまま見ていません」

「別の場所に? ワープみたいに飛ばされたってこと?」

「そのようです」


 驚いた。それがあの黒い影の力なのだろうか。結局、あの影が何だったのか、何故自分はあれ程に恐怖を感じたのかは、何も分からずじまいだったが……。


「とにかく、あなたが無事でよかった」


 まりあが微笑むと、ナースは面映ゆそうに睫毛を伏せた。照れ隠しのように聞き返してくる。


「そちらは、お変わりありませんか?」

「そうそう、記憶の欠片を見つけたんだよ。ね? まりあ」

「……うん」


 話を振られて、まりあはハッとした。先程の奇妙な追体験を思い出して、何とも言えない気持ちになる。


「え? ここでですか?」

「うん。このベッドが光ってたよ」

「ベッドが? 私が見掛けたのは、これではなかったような……」


 会話を続ける一人と一匹を余所に、まりあは思考の海に沈んだ。


(あれは、何だったんだろう)


 異様な記憶だった。前回の遊園地の時は、そこに至るまでの事象も含めて瞬時に状況を把握出来ていたのに、今回は不透明なことだらけだ。

 母親の口ぶりから、おそらくシフォンを亡くした時のことだろうとは予測出来たが、自分は何故病室で寝ていたのか。〝あの男〟とは、一体誰のことなのか。


(あれ? シフォンは……何で死んじゃったんだっけ)


「まだ全部じゃない……」


 ぽつり零すと、ナースとシフォンが同時にまりあの方を見た。


「思い出せないことが多いの。まだ欠片が足りないみたい」

「……そっか。また探そう」


 次は学校だね、と告げるシフォンの声音は、まりあを元気付けようとしてか、場違いに明るかった。


「そろそろ先生の元へ戻りましょう。クラウンさんの処置も終わった頃でしょうから」


 ナースの提案に首肯を返し、まりあは今一度目前のベッドへと視線を向けた。既に光を失ったそれは、もう何も教えてはくれなかった。



   ◆◇◆



「ドクター、ありがとネェ」

「もう無茶するなよ」


 外科の診察室前に戻ると、丁度クラウンが中から出て来るところだった。すぐにこちらに気が付いて、パッと相好を崩す。


「まりあチャン! 探しものは見つかったァ?」

「うん。ひとつ見つけたよ。クラウンの方は、もういいの?」

「ウン! ほら、このトーリ」


 クラウンはご機嫌な様子で、接合された腕をまりあに示して見せた。切り離されていた袖も、元通りの位置に上手に縫い付けられている。見た目にはもう何でもないようだった。


「動かせるの?」

「問題ないヨォ」

「先生の処置は完璧ですから」


 何故かナースが誇らしげに鼻を膨らませる。室外の会話が聞こえたのだろう、扉から当のドクターが顔を出した。


「ナースくん、戻ったか。そっちはどうだ」

「はい、まりあさんの記憶の欠片は見つかりました」

「それは良かった。出来れば俺も手伝ってやりたいところなんだが、生憎病院ここを離れられそうになくてな。クラウン、その子をしっかり現世に送り届けてやれよ」

「勿論だヨォ」

「いそがしい時に、すみません。お世話になりました」


 まりあがぺこりと頭を下げると、ドクターは感心したようだった。


「随分しっかりした子だな。世話をかけられたのはそこの道化にだから、君が気にすることはない」

「そうだヨォ。気にすることないヨォ」

「お前は少しは気にしろ」


 クラウンとドクターのある意味息のあったやり取りに、まりあは小さく笑み零した。対照的にナースは面白くなさそうに、ムスッとした顔で進言する。


「先生、そろそろ次の患者さんを……」

「そうだな。それじゃあ君達、気を付けて」

「ありがとうございます。ドクターも、お元気で」


 死者相手に「元気で」というのも変な話かと言った後で気が付いたが、ドクターは包帯でぐるぐる巻きの手を軽く挙げて応じてくれた。

 その後、ナースが入口までの付き添いを申し出てくれたが、これ以上多忙の折に人手を割かせるのも申し訳なく、丁重にお断りした。


「ナースさんも、ありがとう。これからもドクターと仲良くね!」

「なっ……」


 別れ際にまりあが発破をかけると、ナースは面食らったように言葉を失い、口をパクパクさせた。血色の悪い頬には心做しか朱が差したように見え、それがまた微笑ましかった。

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