第3話 この世界の正体

 斧が飛んでこないように敢えて障害物の多い道を選び、ジグザグに走る。幸い、熊の動きはあまり早くはなかった。幼いまりあの足でも一定の距離は保てている。

 それとも、わざと彼女の恐怖を煽る為、熊はそうしているのだろうか。のっしのっしと、じっくり地を踏みしめながら進む熊の歩みには、焦りが一切感じられない。

 前方から歩いてくる人の姿を見つけ、まりあは縋る想いで駆け寄った。


「おねがい、助けて!」

「ダメだ、まりあ!」


 腕の中のシフォンが飛ばした警告に、まりあが「え?」と目を丸くした直後、目前の人物がまりあの肩をがしりと掴んだ。 背を屈めて顔を覗き込まれ、まりあは心臓が止まるかと思った。それ程、その人物はショッキングな見た目をしていた。

 変色してただれた皮膚。どろり、溶けて空っぽの眼窩からぶら下がる目玉。なまぐさい息。腐乱した肉の、鼻が曲がるような酷い臭い。


「ひっ」


 ゾンビメイク……にしては、やたらと気合いの入ったその人物は、顎が外れるくらいに口を大きくがぱりと開き、怯えて固まるまりあにゆっくりと顔を寄せる。


「まりあ!」


 シフォンがまりあを掴むゾンビの手に噛み付いた。しかし、ゾンビには痛覚が無いのか、無反応だ。代わりに、まりあの金縛りが解けた。


「いやぁあっ!!」


 ハッとして叫び、ゾンビの胸元を思い切り強く押し返す。元々弱い力しか篭っていなかったゾンビの手はすぐに離れ、本体はふらふらとたたらを踏んで後ろに倒れ込んだ。それを見て取る間もなく、まりあは再び走り出した。


(何なの!? ‪仮装じゃないの!? ここの人たち、みんなおかしいよ!!)


 周囲に助けを求めることは不可能だ。まりあが絶望的な気分になった時、シフォンが提案してきた。


「まりあ、あっち! 観覧車に乗ろう!」

「え? でも」

「大丈夫、ぼくを信じて!」


 力強い言葉。まりあはひとまず疑問を呑み込み、頷いた。目前にそびえる巨大な輪の元へと駆け寄り、丁度下に到着していたゴンドラに急いで乗り込む。扉は自動で閉ざされ、一人と一匹を乗せたゴンドラはすぐに上昇を始めた。

 窓から見下ろしてみると、やや遅れて紫の熊が観覧車付近までやって来る様を捉えた。そのまま下で待たれたらどうしようかと思ったが、結果それは杞憂に終わる。熊はこちらを見失ったのか、辺りをキョロキョロ見回してから、やがては全く見当違いの方向へと歩き去っていった。

 その後ろ姿を見送り、まりあはホッと胸を撫で下ろした。同時に、どっと疲労感を得、椅子にぐったり体重を預ける。濡れた身体も不快だし、裸足で走って足の裏だって痛いし、散々だ。


「ぺっ、ぺっ、あのゾンビの肉、ちょっと食べちゃった。ひっどい味」


 舌を出して鼻に皺を刻みながら、シフォンが床に唾を吐く仕草をする。まりあの膝の上で向き直ると、得意げに言った。


「ほらね、大丈夫だったろう? あの手の異形化の進んだ亡者は、基本的にあまり頭が良くないんだよ」

「いぎょうか? もうじゃ?」


 聞き慣れない言葉だった。まりあがオウム返しすると、シフォンは真面目くさった様子で首肯した。


「そう。ここは、亡者の……死者の世界なんだ」

「ししゃの、せかい?」

「分かりやすく言うと、〝おばけの国〟かな。天国の門を潜ることを許されなかった、罪深い魂の追放先。転生も許されず、次第に忘我に晒され、最後には思考能力すら失われたモンスターとなって、永劫に彷徨さまようことになる。わば、無限地獄さ」

「……シフォンが、むつかしいことゆってる」


 まりあにはちんぷんかんぷんだ。思わず舌っ足らずになった彼女に、シフォンは人間めいた笑みを向けた。


「ぼくは死んでからが長いからね。ずっと天国からまりあのことを見守っていたんだ。賢くもなるよ」


 呆気に取られるまりあに構わず、シフォンは続けて本題に入った。


「いいかい、まりあ。原因の一端は、ハロウィンだ。ハロウィンの夜、まりあが普段居る現世と、この〝おばけの国〟の境界線が曖昧になる。つまり、互いの世界が繋がりやすくなってしまうんだ。それで、きみはここに迷い込んでしまったんだよ」

「……ちがう世界に来ちゃった、ってこと?」

「そういうこと」


 愕然とした。にわかには信じられない話だ。


「ここが死んじゃった人たちの世界なら……まりあも、死んじゃったの?」

「とんでもない。まりあは生きてるよ」


 泣きそうに顔を歪める飼い主に、シフォンが慌ててフォローを入れる。


「その輝きが証拠だよ。それは、〝生命の光〟。死んだら失われてしまうものなんだ。それがある限り、まりあはまだ生きているってことだよ」


 まりあは、改めて自身の掌を見つめた。魔法の粉みたいなキラキラとした輝きが、ヴェールのように全体を包み込んでいる。――これが、生きている証。


「ただし、楽観視は出来ない。この世界には霊体でないと来られない。つまり、まりあは現在おばけみたいなものなんだ。身体を現世に置いてきて、魂だけがこちらに来ている状態なんだよ」

「え? でも、身体の感覚、あるよ?」


 走ったらしっかりとくたびれたし、心音も、呼吸をしている実感も、痛みだってある。薄着で水に濡れても大して寒さを感じていないのだけが生身との違いを感じさせるくらいだ。


「この世界では、霊体が具現化出来るんだ。魂の有り様に応じて姿が変質していってしまうから、それを異形化と呼んでいるんだけど」

「さっき、シフォンが言ってた言葉だね」


 ということは、もしかしてあの熊も着ぐるみという訳ではなく、あれが実体なのだろうか。まりあがその可能性について考察していると、「それはともかく」とシフォンが話を戻した。


「身体と魂が分離したままで長時間いると、危険なんだ。最悪、戻れなくなってしまう」

「そんな……それじゃあ、早く戻らなきゃ。どうしたら、元の世界に帰れるの?」


 焦り出したまりあに、シフォンが告げる。


「〝記憶の欠片〟を探すんだ」

「きおくのかけら?」

「ここに居ると、神様の加護なしじゃ誰でも忘却の呪いを受ける。まりあにも既に影響が出ている筈だよ」


 具体例を考えるまでもなく、彼女には心当たりが有り過ぎた。


「わたしが色々忘れてるのって、そのせいだったんだ……」

「まりあがここに迷い込むことになった原因は、ハロウィンの所為だけじゃない。実は他にもあるんだ。それを思い出して、きちんと対処しないといけない」

「つまり?」

「今のままだと帰れない。全ての記憶を取り戻さないと」


 ごくり、まりあは思わず喉元のものを嚥下する。


「シフォンが教えてくれるんじゃダメなの? シフォンに呼ばれて、自分が〝まりあ〟だって思い出せたんだよ」


 それに、天国からずっと見てくれていたのなら、彼女がここに来たもう一つの原因も知っているのではないか。そう思って、訊ねたのだが。


「名前は一番短いしゅだからね。魂に深く結び付いている。例え忘れても呼ばれれば取り戻せるけど、他の記憶はそうはいかない。ぼくがきみの過去を話して聞かせたとしても、きみには全くピンと来ない筈だよ。自分で思い出さないと意味が無いんだ」

「でも……どうやって?」


 不安げに睫毛を伏せるまりあを励ますように、シフォンは彼女の手に己の前足をそっと重ねた。


「この世界は、ここに居る様々な人の想いや記憶の欠片で出来ているんだ。忘却の呪いで魂から抜け落ちた記憶は、完全には消滅せずにこの世界を形成する一部となって残る。それを拾い集めるんだ」

「それって、形のあるものなの?」

「一応ね。記憶に関連したものの姿を取っている筈だよ」

「その記憶が思い出せないのに……自分のだって、どうやって分かるの?」

「まりあの場合は、見分けがつく。きみが落とした記憶も生命の光を帯びているから、それが目印になる」

「わたしと同じように、光ってるものを探せばいいのね」


(そうは言っても……)


 まりあは再び窓の外に目を遣った。現在彼女の乗ったゴンドラは観覧車の頂点にはまだ遠いが、それでも大分高い位置に来ていた。絶景というにははばかられる、全体的に薄暗い闇に包まれたおどろおどろしい景色だったが、これを信じるならば、この遊園地だけでもかなりの広さがあるようだ。

 こんな中から曖昧な光だけを頼りに、どんな形をしているのかすら分からないものを探すとなると、相当骨が折れるだろう。

 あまりの無謀さに気が遠くなりかけた時、まりあの脳裏を過ぎる光景があった。


(――あ)


 枯れ木に引っ掛かった、光るハート型の赤い風船。


「わたし……見つけたかも」

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