第2話 人喰い花と殺人熊
少女は一体何が起きたのか分からなかった。突如
硬いゴムみたいな感触の袋状の何かに閉じ込められたのだと分析した時には、身体が宙に浮く感覚があった。
袋ごと持ち上げられたようだが、それだけでは終わらず、周囲の空間が狭まり始める。どうやら袋が外側から収縮しようとしているのだと気付き、少女は慌てて両手足を突っ張らせた。
通常なら暗闇で視界を失うところだったが、幸い少女自身が光を放っている為、袋の中をしっかりと見通せる。
頭上にぽっかりと丸い空洞が開いていた。その縁にギザギザの鋭い歯がびっしりと並んでいる。ピンクの何かは、そこに少女を押し込もうとしているのだ。
(何これ!? 食べられる!?)
「ごめんなさいね。でも、騙された貴女が悪いのよ」
袋……巨大な花弁の外から、妖精フルールの声が聞こえてくる。
「貴女、生者でしょう? その光で一目瞭然だわ。ハロウィンの夜は、貴女みたいに〝向こう側の子〟が迷い込んでくることも稀にあるのよね。貴女の纏う
フルールの興奮に合わせて、花弁の力が一層強まる。少女も精一杯抗うが、か弱い彼女の力ではたかが知れていた。次第に押し負けて踏ん張りが効かなくなってしまう。いよいよ巨大な花の口腔内に突入してしまいそうになった時。
「ぎぃぃいいい――っ!!」
耳を
ぱかりと力無く割れたそれの隙間から水が入り込み、少女はずぶ濡れになって外に這い出した。慌てて周囲を窺う。
(今度は、何が起きたの?)
異様な静けさ。アトラクションがいつの間にか停止し、妖精達の歌声やBGMが消えていた。とりあえず、ボートがこちらにぶつかってくる心配は無さそうだ。
傍らには、今し方彼女を捕らえていた巨大なピンクの花が落ちていた。ぴくぴくと小刻みに震え、あからさまに弱っている。その原因はすぐに分かった。
茎が途中で断ち切られていた。そこから何やら蛍光イエローの粘性の液体が溢れ出ている。アンモニアみたいな、ツンとした刺激臭。甘い花の香りと混ざり合って、何とも吐き気を催す。
同じものが上からぼたぼた落ちてくるのを見、少女は鼻を
いずれも綺麗な切断面。誰かが真っ二つに花を切り落としたらしかった。一体、誰が?
更に視線を巡らせると、少女はその答えを知る。
木のオブジェの影に、継ぎ接ぎだらけの着ぐるみの紫の熊が居た。ツキノワグマのつもりなのか、胸元には先刻空に昇っていたような紅い満月がパッチワークされている。
大きなボタンを無造作に縫い付けただけの目。突き出たマズルには口が描かれてはおらず、完全なる無表情。手には
妖精の話を思い出す。
「もしかして……ナイトベア?」
問い掛けに対し、紫の熊は無反応だった。まるで置物のように、じっとしたままボタンの瞳でこちらを見つめてくる。果たしてあれでちゃんと目が見えているのかは不明だが、じっとりと纏わりつくような
「えっと、助けてくれた、の?」
居心地の悪さを誤魔化すように、努めて明るく少女が声を掛ける。熊は依然変わらず、微動だにしない。
「あの……ありが、とう?」
更に重ねて礼を言うと、熊は初めて動きを見せた。体の横に提げていた斧を胸の前で構え、それから――。
ブォンッ、凄まじい風音が少女の耳元を過ぎり、ぴしゃり、顔に何か生温かいものが掛かった。ツンとしたアンモニア臭。背後で重たい衝撃音。
頬に触れる。指先にべたりと粘つく感触。例の蛍光イエローの液体だった。それを確認してから振り向くと、対岸の木の幹に無骨な一振の斧が突き立っているのを見つけた。刃先にへばりつく蛍光イエローの液体が、どろりと重力に従い滴り落ちる。
(攻撃された!?)
悟ると同時に、総身が粟立つ。少女は叫び、水を蹴って駆け出した。何かに躓き転びかけ、踏みとどまる。視線を落とすと、フルールと名乗っていた例の妖精が水没していた。
抜け殻のように、ぴくりとも動く気配がない。推察するに、彼女の本体はピンクの巨大な人喰い花だったのだろう。
後ろを見ると、熊は斧の回収に向かっていた。これ幸いと少女は陸地に上がり、来た道を戻る。
オブジェの散乱する陸地は走りにくいことこの上無かったが、水に足を取られるよりはマシだ。すっかり沈黙した妖精達や造り物の花の間を駆け抜け、表にまろび出た。
熊はまだ居ない。けれど、油断は出来ない。少しでも距離を取っておこうと、宛もなく歩を進める。
「まりあ!」
横合いからの声に、ハッとした。〝まりあ〟という響きに、少女は反射的に振り向く。それが忘れていた自分の名前だと、瞬時に自覚した。
幼い少年のような声には聞き覚えがなかったが、視界に捉えた相手の姿には覚えがあった。――脳裏に映像が閃く。
白い毛並みのチワワ。肉球型のプレートを提げた赤い首輪。大きな耳をぺたんと伏せて、潤んだ丸い瞳で少女を見上げている。
『シフォン! おいで!』
少女が腕を広げて呼び掛けると、ふわふわの尻尾を左右に振って、感極まったように飛び込んでくる。ペロペロと頬を舐められるこそばゆい感触に、少女は笑ってはしゃいだ。
「まりあ! 良かった、無事だね!」
少女の中に残されていた記憶をなぞるように、目の前の小型犬も全く同じ行動をした。はち切れんばかりに尻尾を振りながら、飛びついて顔を舐める。「何か苦い」と舌を出したのは、たぶんあの謎の蛍光イエローの液体の所為だろう。
少女は唖然と呟いた。
「……シフォン?」
そうだ、シフォンだ。〝詩奔〟と書いて、
「シフォンが喋った!?」
まさかの事態に、まりあは大いに面食らった。愛犬が人語で話すなんてことは、勿論これが初めてだ。
それに、シフォンは数年前に亡くなっていた筈だった。
「どうして……ああ、そっか。これ、やっぱり夢なんだ」
「そうじゃないんだ。まりあ、落ち着いて聞いて」
しかし、シフォンが話す間は与えられなかった。ふと何かに気を取られたような反応を示すと、白いチワワは鋭く告げた。
「まりあ、走って!」
「え?」
シフォンの視線の先を辿ると、今まさに紫の熊が〝フェアリー・ライド〟のアトラクションから出てくるところだった。
例の斧はしっかりと熊の手に握られている。数メートルの距離を隔てて尚、虚ろなボタンの瞳と目が合う感覚がはっきりとあった。
熊は何の
「きゃあ!」
シフォンを抱いたまま、まりあは咄嗟にその場に屈み込んだ。恐ろしい風音を立てて重量級の凶器が頭上を辛くも通過していく。計算されたように斧は宙を旋回し、ブーメランよろしく熊の手元へと舞い戻った。
またも間一髪だった状況に、まりあは遅れてゾッとした。やっぱり、あの熊は彼女を狙っているのだ。妖精フルールの言っていたことは、あながち嘘ばかりではなかったのかもしれない。
「まりあ、早く!」
シフォンに促され、まりあは震える膝を叱咤して立ち上がった。
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