第4話 帰巣本能

 大きな観覧車は一周するのに結構な時間が掛かった。ゴンドラが一番下に到着する頃には、まりあの身体も乾いてきてしまっていた。

 乗り込んだ時同様、扉が自動で開かれる。座席から外の様子を眺めて、シフォンが少しだけ緊張を緩めた。


「よし、熊は居ないね。他の亡者達もこっちを見ていない。まりあ、今の内だ」

「うん」


 扉が閉まる前にゴンドラを降りた。暫くぶりの地上は、雑多に流れるアトラクションのテーマ曲で随分賑やかに感じられる。周囲に気を配りながら、まりあは早速例の風船を見掛けた場所へと足を向けた。


「あの熊……たぶん、ナイトベアだと思うんだけど、ナイトベアは子供が嫌いって聞いてたから分かるけど、どうして他のおばけまでわたしを狙うのかな」


 まりあは素朴な疑問を唱えた。先程のゾンビの衝撃もそうだが、最初の巨大な花のことも暫くは忘れられそうにない。

 シフォンの言うには、こうだ。


「まりあの生命の光の所為だろうね。亡者達も昔は持っていて、失くしてしまったものだから。本能的に取り戻したいと願うのかもしれない」


 あの花の妖精がヒステリックに叫んでいた言葉を思い出す。


『貴女の纏う生命の光……それを取り込めば、きっと、私ももう一度〝向こう側〟に!!』


(死んじゃった人たちは、ただ帰りたいだけなのかもしれない)


 自分と同じだ。そう思ってしまった。


「……何だか、かわいそう。少し分けてあげることは出来ないのかな」


 萎れた声音でまりあが呟くと、シフォンはふっと目を細めた。


「まりあは優しいね。だけど、無理だ。そんなことをしたらきみは消えちゃうし、亡者達だって現世に肉体が存在していない訳だから、どうにもならないよ」

「そっか……」

「亡者達にも個体差があるから、必ずしも襲ってくる奴ばかりじゃないだろうけど……何にせよ、極力接触は避けた方がいいだろうね。その光は目立つから、布か何かで隠した方が良さそうだ。後でそれも探してみよう」

「分かった」


 自分が死者彼らに出来ることは何も無いのだと、まりあはその事実を苦く噛み締めた。


「それで、まりあの言ってたハートの風船は? 本当にこの辺りで間違いない?」

「うん。確か、この道の先に……あった! あれだよ!」


 目当てのものは、変わらず同じ場所に存在していた。くねくねと節くれだった枯れ木の枝の上方に引っ掛かったまま、飛びそうで飛ばずにいる。不思議な光を放つ、赤いハート型の風船。見上げて、シフォンが頷いた。


「確かに、まりあの光に似てるね。正解じゃないかな」


 やった! 内心で喝采を上げるも、まりあはすぐに首を捻った。


「あれをどうするの?」

「まりあが触れればいい筈だけど……遠いね」


 何せ、風船が引っ掛かっている枝は、まりあの背丈よりも遥かに上の方にある。まりあは無い袖を捲る仕草をして、気合を入れた。


「登ってみる」

「大丈夫?」

「任せて! こう見えて、木登りは得意なんだから」


 ふんすと鼻息を荒くし、まりあは早速木に近寄った。幸い凹凸が多く、登りやすそうな形状をしている。こればかりは裸足で良かったかもしれない。

 まずは低い位置にある出っ張りに足を乗せ、一番近くにある枝に手を掛けた。ふと、こんな考えが過ぎる。


(まさか、この木まで動いたりしないよね)


 あの人喰い花の一件がある。幹の凸凹も何だか顔に見える気がしなくもない。急に差したまりあの不安を感じ取ったのか、シフォンが悄然と零した。


「ごめんね。ぼくが猫なら役に立てたかもしれないのに」

「そんな、いいの! あなたはそのままで充分素敵だよ」


 一体、何を言い出すのか。思わず猫になったシフォンを想像して、委縮していたまりあの心は自然と解けた。自分を鼓舞して、木登りを再開する。


(うん、良かった。動かない)


 木は大人しく、されるがままに沈黙していた。まりあは心底ホッとする。


「そういえば、シフォンは天国に居たんだよね。どうして、今はここに居るの?」

「まりあのピンチを知ったからだよ。神様にお願いして、ここに来させてもらったんだ。だから、ぼくには神様の加護がついてる。ぼくの傍に居る限りは、まりあの忘却の呪いもこれ以上は進まない筈だよ」

「そうなんだ」


 まりあは軽く目を瞠った。そうまでして、わざわざ来てくれたのか。

 胸が、じんと熱くなる。


「わたしのために……ありがとう、シフォン」

「当然だろ? 家族なんだから」


 シフォンは誇らしげだ。

 〝家族〟……その言葉に面映ゆい気分になりつつ、まりあは他にそれに該当する存在をもやの掛かった記憶野から取り出そうと試みた。

 母親が居る事実だけは覚えている。その人物が、まりあとシフォンの名前を付けたことも。だけど、それがどんな人だったのか、どんな顔をしていたのかまでは、思い出そうとしても一向に浮かんではこなかった。


 観覧車の中でもシフォンと共に今現在覚えている事実を確認してみたが、シフォン関連の記憶以外はほぼ曖昧だった。

 同じ家族なのに、ペットは覚えていて親を忘れているだなんて、どういうことなのか。

 考えに気を取られていた所為だろう。不意に片足を乗せた枝が折れ、まりあはがくんと体勢を崩した。


「きゃっ」

「まりあ!」


 シフォンが大慌てで呼ぶ。まりあは片足が浮いただけで、落下自体は免れていた。


「平気。ちょっと足を踏み外しただけ」

「結構高くなってきたから、集中して」

「うん、そうする」


 何かに気が付いたように、シフォンがパッと後ろを振り返った。緊迫した視線の先、離れた位置にナイトベアと思しき紫の熊の姿が見える。


「あいつっ! もう見つかった!」

「ど、どうしよう」

「ぼくが相手をする。まりあは早く、あの風船を取って!」

「え、でも」


 危ないよ、と口を挟む余地もなく、シフォンは熊の方へと駆け出して行ってしまった。早速手にした斧を構えて投じようとしている熊の脚に、牙を剥いて猛然と飛び掛かる。


「やめろぉおっ!!」


 がぶり、噛み付いたシフォンの攻撃で、熊は手を止めた。それから、緩慢な動作で足元の犬を確認するや、煩わし気にぶんと勢いよく振り払う。キャイン! 甲高い悲鳴と共に、シフォンの身体が地面に叩き付けられた。


「シフォン!」


 まりあが樹上から身を乗り出すと、下からパキパキと不穏な音が聞こえてきた。


「え」


 足元が一気に崩落する。まりあは今度こそ宙に放り出され、驚きのあまり声も出なかった。


(落ちる!)


 今回は肉厚な花弁に守られてもいない。霊体でも高所から落下したら、果たして死んだりするのだろうか。シフォンの叫声を何処か遠くに聞きながら、まりあは固く目を瞑った。

 しかし、予想した衝撃は訪れず、代わりに何かに受け止められた感覚があった。不思議に思って恐る恐る目を開くと、視界に飛び込んできた光景にまりあはギョッとした。

 白い面だった。丸い赤鼻、落書きのような星や涙模様。異様に吊り上がったスマイルの口端に、目の位置には丸い覗き穴。――ピエロマスク。

 まりあは、謎のピエロの腕に横抱きにされていた。


『ナイトベアだけじゃないわ。クラウンっていうイカれたピエロも居るの』


 妖精フルールの言葉が、再び脳裏に去来する。


「……クラウン?」


 まりあが問い掛けると、ピエロはこちらを見た。マスクが覆っているのは片側だけで、半面は素顔だった。若い青年の顔。紫のメッシュの入った緑色の癖毛。闇のように黒い瞳は切れ長で、筋の通った鼻梁、形の良い唇と、意外な程に整った容顔がそこにあった。

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