第三章 ポーチド

「の、がみくん……、はい……っ」

 僕──野上のがみ はるの学校生活の一コマをここで少し。これまでかなり起伏の激しい話をしてきたわけだけど、当然僕らは高校生で、いかにもなイベントだってあるわけで……。

 歓声。声援。ひゅっという呼気と共に、受け渡された手の中の感触。赤いバトン。空気を吸って吸って吸い込んで、僕は駆け出した。秋晴れの青がぽっかりと穴を開けた空が眩しい。余裕なんてどこにもないから見上げたりしないけど、その空の中にはいくつもの撮影用ドローンが飛び回って、僕ら生徒たちのシャッターチャンスを狙っているんだろう。残念、僕はひねくれた生徒なのでカメラ目線になってやらない。

 体育祭ってなんであるんだろう。しかも学級対抗リレーって。誰が始めたんだか知らないけど、僕のような人間にとっては一言で表すなら「迷惑の産物」で、二言言わせてもらうなら「本気で無くなってしまえばいい迷惑の産物」。運動はそこまで苦手じゃないんだけど……。

 僕の日頃の行いはそんなに悪いのかな、バトンがちょうど僕たちA組が一番で二番手と競り合っているところで回ってきた。しかももうリレーは終盤っていう。

「っは……」

 意識的に頭を空っぽにしながらひたすらに走る。

 あと約二十五メートル。まだ三分の一もある!?

 手足をもがくように振り動かして、必死に進む。背後に別のクラスの息遣いを感じて焦る。やばいって。抜かされた時のクラスの連中の視線、怖すぎる。

 と。ここで僕はようやく地獄の航路のように長かった出番を終えた。

 ええっと、次の走者は……。

 ……うわっ、神崎かんざきだ。

 走るのに必死すぎてすっかり忘れていた。僕の後、アンカーの一つ前を走るのは神崎カナデ。運動神経悪め、絶賛クラスの女子に虐められ中、色んな意味で結構危うげ。

「神崎、行け」

 わざとらしいほどに鮮やかな赤を彼女の手に渡して、僕はトラックの中の列に避難した。他のクラスのやつらにぶつかられるのはごめんだからね。速いとは言えないスピードで走り出す神崎を見送る。

 大丈夫。少しだけ二位のクラスとの差がさっきより開いてる(僕が速かったわけじゃなく、バトンパスにミスって下さったらしい)。逃げ切れば確実にA組の勝ちだ。逃げきれなかったら……、うん、勝敗じゃなくて神崎の学校生活がよりぐらつくね。色々あって彼女のことに関して他人事じゃいられないので、僕は「行けー!」とまだ整わない息で叫んだ。周りの連中からちょっと驚いたような目で見られたけど、気づかないふり。

 視線の先には、必死に息を切らしながら走る神崎。その後ろに二位のクラスの女子がつく。抜かされる……?

 その時だった。

「カナデ!! 頑張って!」

 それは僕のクラスで一番権力を持った陽キャ女子の声だった。神崎を表立って堂々と虐めてる奴。彼女は叫んだ後で、「あっ」という顔をした。何も考えずに声を出していたんだろう。言い訳するような表情で取り巻きの女子たちの方に視線をやったが……。

 一瞬後で、走り終えて列に着いていたクラスの誰もが、立ち上がって走者を応援していた。

「行け!! 頑張れっ!」

「隣のクラスに負けんなぁっ!!」

「いけるよ! もう少し!」

 心の中で、僕は「良かったね」と呟いた。良かったね、神崎。今、神崎のことをクラスの総意として声が押す。

『今起こってることなんてどうせ終わるんだよね。なんなら星の一生なんかより全然早く。だったらまだ私は生きてられるよなあって』

 夏のあの日。満天の星空の下。呟いた、神崎のあの声を今でも思い出せる。あの時言っていた通りだよ。大丈夫、もうすぐ辛いのは終わるのかもしれない。

 祈りにも近い思いで見つめる僕を置いて、彼女は無事にアンカーにバトンを渡した。繋がって繋がって繋がってきた赤。僕らの中を流れ駆け巡る色。

 体育祭、学級対抗リレー。結果はA組の優勝だった。



     ❇︎



 放課後、いつも通りの〈なんでも修理屋〉でのバイト風景。

 僕は例のごとく、ニスやら塗装スプレーやらで無地とは言えない状態になったエプロンを着て、お客さんに引き渡されたモーター付き自転車の不具合を見ていた。急にタイヤの回りが悪くなって、油を差しても直らないらしい。明日までにどうにかしてほしいそうだ。そこは修理屋っていうより自転車屋だろって思いつつ、「自分でやれよ」とか「他の店に行けよ」とか言いたくなるような用件でこの店は回っているわけだからなんとも言えない。そういうお客さんがいるお陰で僕はバイト代をもらって、それを貯めて、愛機Speeder空飛ぶバイクを買ったわけだし。

 やっぱり異常はチェーンみたいだ、と工具を手に取りつつ、ついでのように腕時計で時間を確認する。六時二十三分。もうそろそろあいつが来る頃かな。

 噂をすれば(噂はしてないけど)という嘘のようなタイミングでドアが開いた。アンティーク調のベルがカランカランと軽い音を立てた。

 客がなんとなく誰だかわかっていながら、僕はあえて手を止めず、顔を上げずのまま作業を続けた。手が油で黒く汚れてぎとぎとだ。僕を雇ってくれてる優兄さんはプロだからそんなことはないけれど、僕は未だに手際が悪い作業がある。こうやって余計な部分までいじって手が汚れるし、彫金していて指を金具に差すし、電子機器の修理で工具の間に指を挟むし。僕の手はこうして手首で繋がっていなかったら、今頃悲鳴を上げてどこかに逃げていってしまっているのでは?

 入ってきた客と優兄さんがなんらかの言葉を交わして、案の定優兄さんが僕のいる作業スペースに歩み寄ってきた。何やらニヤニヤと笑っている。

「ねえ、晴。君さぁ、彼女の紹介なんて、事前に知らせてくれない? そしたらもうちょっとなんか準備したよ?」

 その後ろから客、こと神崎カナデが慌てたように顔を出した。

「全然そんな、私、野上くんの彼女なんかじゃなくて、ええっと」

「……神崎は僕の〈仲間〉です、優兄さん」

 僕は立ち上がりつつ助け舟を出した。今の僕の手はどこにも触れない危険な状態なので、ホールドアップしているような格好になる。

 とある計画……もう伏せてもしょうがないよね、殺人用人造人間に感情こころを持たせようプロジェクトに共に挑んでいるのが神崎だ。人造人間というのはDC-107イオナという名前の少女型。プロジェクトに参加しているのはもう一人、レイというおそらく他校の男子校生がいて、彼がもともとの計画の発案者らしい。一緒に〈思い出づくり〉に励む僕らは〈仲間〉だ。たくさんの言葉を交わして、お互いを名前で呼び合って……。今の僕の、居場所。

 〈仲間〉、という言葉を受けて優兄さんはより一層笑みを深くした。

「ふうん?」

 なんなんでしょう、この含みは。

「それで? 神崎さんはどうして今日うちの店に?」

 優兄さんに聞かれた神崎が、持っていた鞄をごそごそやって一つの石を取り出した。真っ赤に輝いている石。僕らが学校という場ではなく本当の意味で出会ったあの霧雨の夜と変わらない色。

「これがなんなのかっていうのを知りたくて、聞きにきました」

「なんなのかっていうのは」

「どういう物質なのか、ということです」

 意外と淀みなく話を進める神崎。

 この赤い石は彼女の持っているペンダントに付いていたものだ。レイと神崎が初めてイオナを起動させた時、彼女の首に彫り込まれた〈DC-107〉の文字にこの石を当てていた。夏に海に〈思い出づくり〉に行った帰り、この石は何でできているんだろうという話題になったのが、今日神崎がここに来たきっかけ。

「なるほど……?」

 ルーペ取ってくるよ、と言って優兄さんはスタッフルームへと行ってしまった。

「え、あ、はい」

 とりあえず立ち尽くす神崎と、未だに顔の横に手を上げた間抜けなポーズの僕。手を洗ってきてもいいだろうか。



 数分後、じっくり石を観察した優兄さんが出した結論は、こうだった。

「これはトルマリンの一種の、エルラニアだよ。まずトルマリンについて説明するけど、別名は電気石。結晶を熱すると電気を通す。見た目の特徴としては、赤の中に緑っぽい筋が入っているところかな。結構希少な鉱物だよ」

 何も読み上げているわけでもないのに、優兄さんの口からはスラスラと言葉が出てくる。流石だなぁ。僕は横で聞いてて感嘆の息を吐き出した。ちゃらけているところも多いけど、なんだかんだ言って優兄さんはめちゃくちゃ凄い人だ。

「で、エルラニアってのはその中でも希少価値が高い。しかも発見されたのがかなり最近……二〇六〇年以降なんじゃないかな。ある特殊な素材に繋いだの発熱量と流れる電流の量がすごく多いけど、それをやり過ぎると砕けるっていうのは聞いたことがあるけど……」

 案の定、優兄さんは訝しげな目でこちらを見つめた。

「どこでこんなものを?」

 神崎が歯切れの悪い顔になった。

「母の……形見です」

「神崎ちゃんのお母さんの職業は?」

 優兄さんがすごいと思うのはこういう時もだ。僕が前に神崎のお母さんの形見だと聞いた時には、なんとなくその話を続けづらかった。だが優兄さんはそこで口籠ることなく、結構ずけずけ尋ねる。これはある意味すごい、というやつだ。しかも「神崎ちゃん」呼び?

「母は、研究職か何かをやってたと思います。それについてあまり話してはくれなかったけれど。ペンダントは母がいつでも首に付けていたものです」

「凄く失礼だから答えなくて全然いいけど、神崎ちゃんのお母さんはどうして」

 亡くなられたの?

「それは……」

 流石に僕が止めに入ろうとした時だった。神崎の目がすうっと細くなって、周りの空気の色が変わった気がした。

「七年前、母が関わっていた何物かのシステムの暴走に巻き込まれて、亡くなりました。研究者が何人も殺されたその中の一人でした」

 七年前、と聞いて今の僕には思い当たるものがあった。二〇八二年、あの僕らが通っている〈殺人ビル〉で起こったロボットの暴走。僕らの〈仲間〉であるDC-107イオナの、先輩機種にあたるDC-001。イオナと同じく〈ニホ〉の独立のための殺人兵器として造られたそれは、しかしあまりにも人間に近づけ過ぎた──つまり感情というものを持たせすぎたために、起動執行人を殺害して逃げた。起動執行人以外にも死人が出ていたとは。そして、神崎のお母さんもまたその中で犠牲になっていたとは。

 神崎は……。

 レイにこの話を聞いた時から、気が付いていたのかな。

 軽く戦慄すら覚えて、俯いた神崎を直視できなくなった僕とは対照的に、優兄さんは「なるほどね」とだけ呟いた。


 自転車修理はやっとくから、神崎ちゃんを家まで送ってあげなよ。そう言われて、僕は神崎と並んで帰路についた。ちなみに僕は無事に油まみれだった手を洗うことができた。……どうでもいいか。

「とりあえず、そのペンダントが何でできてるのかはわかったね」

「うん」

「今日は無理だけど、明日にでもレイたちに報告する? 僕はバイトが終わる時間次第で行けるかわかんないけど」

 実のところ、優兄さんの店に来るにあたって神崎はレイのことも誘っていたのだ。だが彼は首を縦には振らなかった。

『ハルの話を聞く限り、その優兄さんという人はかなり鋭いだろ?』

 とかそんなことを言っていたけれど、鋭いのに問題があるのだろうか。まあ、そんなこんなでレイは今日もイオナに会いにあの廃ビルに行っていたはずだ。もうそろそろ帰った頃だろうか。 

「神崎?」

 完全に彼女が無言になったのを訝しんで、僕は半歩後ろの彼女を覗き見た。それから目を瞬く。

「なっ……。何」

 神崎はカッと目を見開いて僕の手元のあたりを凝視していた。ぽかん、とした表情。信じられない、とその口が微かに言葉を発した。

 僕の手元に何か? ただ例のバイト用の鞄を提げているだけだけど。それともまだ自転車をいじってた黒い汚れが落ち切っていないから? いや、信じられないものなんて何もない気がするけと。

 自分の手と神崎の顔を交互に見比べている僕に、やがて彼女は深く息を吐き出した。

「?」

「……行く」

「は、はぁ。……どこに」

「明日、レイくんに報告に行く」

「え、あ、うん」

 動揺しつつもそれ以上何も聞けないまま、自然と沈黙が落ちた。暗くなってきた空に残る、太陽の赤い残灯の方へと歩を進める。

 駅のロータリーで、僕はくるりと振り返って神崎と向き合った。そういえばここまで二人で来たのは初めてだ。いつも神崎が「学校のクラスメイトに見られたら野上くんに迷惑がかかる」と言うのでかなり早めに別れてしまうのだ。今日はなんとなく忘れていたと言うか、そう言う雰囲気でもなかったというか。

 学校の連中に、現役虐められっ子の神崎と二人で居るところを見られたら、なんて言われるだろう。僕も虐められっ子に回されたり、そうじゃなくても変な噂が立ったりするのかなぁとか思いつつ、そんなのくだらないしどうでもいいやと笑う自分がいることに気づいた。

 墨を流したような空に、街の光は届かない。聳え立つビル群の明かりも、無数に飛び回る警備用ドローンの目に痛いライトさえも。どこまでもどこまでも吸い込まれていく。宇宙の広さなんて、闇の深さなんて、数値じゃ測れないよな。

 なんて、どこかぼんやりとロータリーを見渡していると、その一角が目に入った。「神崎」と思わず話しかける。

「あれ、レイじゃない?」

「えっ……あ、ほんとだ。よく気がついたね」

 駅ののビル側の、つまり僕たちのいる反対側。遠いのにレイだとすぐにわかる。きりっとして整った顔と、どんな光も跳ね返さない、今の空みたいに黒い髪。制服風のの格好も、寒くはないのにマフラーをつけているのもいつもと何ら変わらない。

「何してんだろ」

 彼は若干いらいらしているような顔でぱあっと辺りを見回して、踵を返して歩み去った。早歩きだ。今からまた廃ビルの方に行くのだろうか?

「さあ……?」

 神崎は首を振った。

 正直言って、未だに僕も神崎もレイのことをよくわかっていない。なんならイオナ以上に。彼は自分のことをあまり話さない。レイを喩えるなら……そう、やっぱりブラックホールだ。とにかくその中で何が渦巻いているのかわからないのに、それでも何かをそこに秘めていることは確かだ──そんな感じ。

 首を傾げつつも、僕は今度こそ神崎を向いて、「まあ今日は遅いし。追いかけるのはやめとこっか」と言った。別れ際に無意味に笑いかけたりはしない。そんな関係じゃないから。

「じゃあまた」

「うん。……野上くん」

「ん? なに?」

「……いいや、やっぱりなんでもない。じゃあ、またね」

 神崎は唇の端に何か引っ掛けたような顔をして、ややあってから去って行った。僕も停めてあるバイクの方に歩き出しつつ、また首を傾げた。

 鞄に付けた、あの紙コップのストラップが音も立てずに揺れる。

 なんか様子がおかしかった、あいつ。



     ❇︎



 いつもと変わらないはずのスピードで、今日も時が流れる。

 くだらないような授業を、頬杖をついて聞き流しながらふと窓のほうを見遣った。窓側の席の、一番前。青くてあおくてあおい空を背景に、神崎カナデもまたつまらなそうな顔で風にひらひらと巻き上がる極繊維のカーテンを眺めていた。

 学校で、僕らは話さない。

 僕らの間の繋がりを、その名前を誰も知らない。

 遅いな、時間が進むの。廃ビルでイオナとレイも交えて喋っていると、あんなに飛ぶように過ぎていくのに。価値観とか、将来とか、全部が全部瑞々しくて、鮮明で、それから──。

 大切なんだ、すごく。



 この時の僕らはまだ知らない。

 繰り返される悲劇があることを。浅く浅く広がる青空の向こう、ずっと見えない西の空に、暗雲が立ち込めていたことを僕らは、知らない。

 知らぬまま、空中に不意に放り出されるみたいに。

 僕らはあまりに突然に、堕とポーチドされた……。



     ❇︎



 すごい雨が降ってきた。学校を出た頃よりもさらに酷くなっている。ザアァァァァ──と境目なく続く音に、ずぶ濡れだ。例のなんでも修理店の前。くわっと前髪を掻き上げつつ、困ったなと思う。このまま入ったら店の中まで水だらけにして優兄さんに迷惑をかけちゃうな。

 軒下で考えあぐねていると、がちゃんと雑な感じでドアが開いた。すぐそばにいた僕を見てはっとしたように目を見開いたのは、他でもない優兄さんだった。表情を崩して、僕の腕を引っ掴むと店に引き入れた。

「晴っ! 馬鹿、なんで来た」

「はぁ? 僕は普通にバイトに……」

「ニュース、見てないわけ!?」

 ニュース? 天気予報ではなく? そもそも駅にSpeederを停めてきてからここまで土砂降りの中を歩いてきたので、タブレットを確認している余裕などどこにもなかった。

 優兄さんは腕時計式の手首に付けていたタブレットを素早く操作して、突き出してきた。そこには信じられないような映像が映っていた。それはここから僅か数キロ離れた都心部を映したものだった。時間からして、僕がちょうど土砂降りの中を歩いていた頃に配信された速報だ。

[午後五時二十三分、複数体の人間型AIと見られる人造物体が都心より暴走。未だ人造物体の起動は停止できておらず、またその原因と被害状況は未解明だということです。都内一帯に、他県への避難指示が出されています]

 大雨と土埃で烟った中でビル群のガラスが砕け散る、おおよそ現実感のない映像。その中にいくつもの影が走る。都市まちを撫でるように破壊していく、人間のような姿。アンドロイド……。

 と。けたたましい何かが割れて崩れる音が、画面上ではない、現実世界に響き渡った。この雨音を凌駕するほどの破壊音。外だ。すぐ、近く。

 そんな、馬鹿な。

 タブレットから離せないでいる僕の目に、その時一人の姿が映った。端整で、人間離れしていて、それでいて──僕らが見知った顔。

 どうして。

 どうして、イオナが。

「ほら、晴も急いで逃げ──」

「──僕は、行かなくちゃいけない」

「何だって?」

「優兄さんは逃げてください! 僕はあの廃ビルに……」

「ちょっと待った、何言ってんの! 危険なんだってば、普通に死ぬよ?」

 ちょっと待ってなんていられるか。これだけの雨のせいで、僕はこんなことが起こっていることに少しも気づかなかったのだ。それなら。

 今頃、〈殺人ビル〉に向かっているであろう神崎が気づいて逃げられているとは到底思えない。あいつ、「明日にでもレイくんに報告しよう」って昨日言ってた。

 僕が絶対に意思を曲げなそうなのを咄嗟に見てとったらしい、優兄さんが諦めたような顔になった。

「駅まで一回戻って、バイクに乗って行きなよ」

「えっ」

「そのほうがまだ速さも防御力もましにはなるでしょ。俺は店にどうにかシャッターシステムかけてから追いかけるから。あの〈殺人ビル〉だね? 何があるんだか知らないけど」

 そんな、巻き込むわけには。そう言いかけた僕に、優兄さんは鋭い目で「行くなら早く」と言う。外でまたガシャーンとガラスの塊をひっくり返したような音がした。

「──っ。すみません、ありがとうございますッ」

 僕は飛び出した。土砂降りの中へと。ガラス片と雫の嵐の中へと。


 Speederに乗って、飛行交通法の上限ギリギリを飛ばした。空を切る一羽の隼のように。壊れゆく都市が広がる眼下で、いくつもの人型の影が動く。あれはイオナたちアンドロイド群だろうか。

 失敗作である、DC-001から、DC-107まで。忘れてはいけない。DC-107イオナの前に、百六体もの殺人兵器がいることを。彼、そして彼女たちもまた、この広い広い都市のビルの様々なところに隠されていたには違いない。そして今、その全てが一斉に暴走をしている、と。

 じゃあそれが都内に集中しているのは何故? どうしてイオナは、暴走を始めたの?

 見渡した荒んだ景色の中に、立ち尽くす姿を見つけて、急降下した。あの〈殺人ビル〉まではまだ距離のある、しかしまだそこまで荒れていないところだった。

「かんざき……っ!!」

 訳がわからない、という顔で崩れ出す周りを呆然と見つめていた彼女の目が、僕の上に焦点を結んだ。のがみくん、とその目が大きく見開かれる。

「一体、なんなの、これ」

「都内の全域で、アンドロイドたちが暴走した。……っ、その中には、イオナもいるみたいだ」

 つん裂くような音と共にガラス片が落ちてきた。止まっていられない。これからどうする? 出来るだけ遠くへ、それも他県へ逃げるのが正しいには違いないけれど。……今、僕が求めているのは正しさじゃない。僕が背を追うのは。

 好奇心に従うこと。お節介でも周りに干渉すること。あいつ、みたいに。

「神崎、今から僕は、あの廃ビルに行く。神崎は、どうする?」

 どう考えても一人乗りで、荷物置き場さえないバイク。それでも僕と神崎なら──どうにか乗れるかもしれない。ただ神崎をわざわざ危険な方向に連れて行くのは気が引ける。

 彼女は迷い困ったような色を目に浮かべて、そして諦めたように下を向いた。

「私が行っても、迷惑になるだけだよ……」

「何言ってるんだよ」

 俯いてくぐもった声に、僕はくっと顔を上げた。

 降り注ぐ土砂降り。建物の崩れ落ちる音たち。あれだけうるさかったのに、なんだかどうでも良くって。

「神崎、君の未来は君だけが手に取ることができる。誰に決められなくてもいい。自分の劣等感なんてものに縛られる必要もない」

 もっと優しい言葉で伝えられたらいいのに。もっと上手く、誘えたらいいのに。やっぱり僕は駄目だな、のび太みたいに素直にはなれないや。

 でも。

 お願い。その未来に、今だけは僕を選んで、さあ。

 神崎カナデ……!

「僕の未来に、君の未来を重ねてくれますか」

 ホバリングするバイクから差し伸べた手に、そっと細い手が乗せられた。俯いたままの神崎が、泣いているように濡れた声で、息を吸い込みながら言う。

「野上くん、私も連れて行って。私も……、何が起こっているのか、ちゃんと見つめないといけない。仲間、だから」


 ちゃんと捕まってて、結構飛ばすから。そう言った僕の背に、神崎はただ体を預けてくれた。倒れ来るビルを交わしながらひたすらに空を翔ける。破片が当たったりして、愛機は傷だらけだ。優兄さんなら、あとで修理できるかな。

 何が起こっているのか、ちゃんと見つめないといけない。神崎は言った。この時には、なんとなくわかっていたのかもしれない。この、都市破壊という大惨事のただ中に、僕らの仲間が完全に関わっていること。

「野上くん」 

 背中に、声を直に感じた。何も答えない僕に、彼女は尋ねる。気づいていますか、と。何に、と僕が聞き返す前に、彼女が苦笑のような吐息を漏らす気配がした。

「……気づいてるわけないよね。私、変わっちゃったもんね。もうはきはき喋ったりしない、堂々ともしてない。自信なんてどこにもない。でもね、ずっとまだ大切に私も持ってるんだよ、あれを」

 その時ぱっと脳裏に、遠い遠い過去の夏が思い浮かんだのは何故だろう。芝生の広がる空き地。テレパシーを受けたみたいに、それは頭の中に滑り込んできた。

『それ、私が持ってきたんだ』

『キミが読みたいんなら、貸したげる』

『私が使いたいのはおしかけ電話かな。知ってるよね?』

『いつか本当に逢いたいって思った人に使いたい』

『ねえ──』

『もう、私たち会えないと思う』

 一緒に作って、それぞれ片方ずつ持っていようと言った、糸電話。


 ──ありがとう、キミ。


 嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ。

 神崎……どうして。

 でも、僕は笑った。こんな時なのに笑った。なんだ。世の中って人生って案外、こんなものなのかもしれない。「もしもし」という一つの言葉だけで、呆気なく繋がっちゃうみたいな、涙が出てくるみたいな、それはきっと大それたことなんかじゃない日常の一コマで。

 なのに時に、突然に奇跡が起きるんだ。

 時を超えて、あの夏の日から初めて、僕らの糸電話は繋がった。か弱い一本の糸は切れてしまったかのように見えて、でもちゃんと繋がっていた。

「なんであの時、お別れだなんて言ったの?」

「何もかもが嫌になったの。お母さんが亡くなった直後で、なんか人間ってこんなに簡単に死んじゃうんだなって思って、なんか馬鹿みたいに思えて。それで……車の前にキミと別れた後、飛び出して」

 あと一秒飛び出すのが早かったら私死んでたらしいよ、と彼女は言った。

「その一秒、たったの一秒、私の頭をよぎったのは、明るくて楽しい思い出をくれた男の子だったと思う」

 恐怖、興奮、感動。様々な重なる感情からか、神崎は泣いていた。

「ねえ、野上くんがさっき手を差し伸べてくれたの、すごく嬉しかったよ。でもね、人間ってすぐに変わっちゃうの。変わらないものなんてないもん、当たり前だよね」

 今年の夏に星空を見上げて話したのを思い出す。

『今起こってることなんてどうせ終わるんだよね。なんなら星の一生なんかより全然早く。だったら私はまだ生きてられるよなあって、安心感』

 無常観、という言葉を、彼女は使ったっけ。

「だから今の私は、野上くんが好きでいてくれた、笑顔を向けていてくれた私じゃない。野上くんがさっき手を差し伸べてくれた私からも、どんどん別の私に変わっていっちゃうよ。変わっていっちゃうんだよ……」

 僕は振り向くことなくSpeederの操縦を淡々としながら「いいじゃん」と言った。あの廃ビルで四人で話す質問&トークだと、いつも顔を突きつけ合っているためにそこまで気障ったらしいことは言えないけど、今だけは何故か口に出せる気がする。

「確かに変わっていっちゃうね。そういうもんだし。でも僕は、変わってしまったとしても今この瞬間が確かに存在していたことを、ただ忘れない。それだけじゃ駄目なのかなぁ?」

 忘れない。

 この土砂降りの雨音、風音──。

 恐怖に対する慟哭──。

 背にかぶさった熱──。

 些細に響く呼吸──。

「君と出会ってから、僕はいつも、のび太の背を追ってる。一生懸命に、でも楽しく、能天気に日々を愛すること。怖いし、訳わかんない今だって、多分心のどこかで楽しんでる。どうにかなるって思ってるよ。……仲間とだから」

 振り向かないで、と吐息と共に聞こえた。絶対だよ、と念を押す。その直後、わああああ……と堰を切ったように叫び声ともつかない声が夜の闇に流れた。



 この夜の終わりはまだ来ない。

 廃ビルに駆け込んだ僕たちが見たのは、壁に打ちつけられるようにして倒れていた、あの彼の姿だった。

「レイ!」

「レイくんっ!」

 ほぼ同時に叫んで駆け寄る。

 体裁も何も考えずに二人で抱き起こした。息は、息はしている……? 硬く閉じられた瞼には温かさも冷たさも何も感じない。精気の一切感じられない、白い肌。

 目を覚まして。ねえ、レイってば……。

 ビルの、いつもの殺風景な部屋の一室。だけど何も変わってないわけじゃない。壁は傷ついて所々凹んでいる。無数にコンクリートの破片が落ちて、部屋全体が粉っぽい。暴走したイオナが暴れたんだな。そしてレイはそれを止めようとして……。

 レイの首に巻きついたマフラーが、壁から飛び出た鉄骨の棒に引っ掛かってる。これじゃあ首が締め付けられて苦しいだろうに。まったく、あああっ……。

 もどかしく思いながら、黒いマフラーを取り払った。

 脈を計らなきゃな、なんて思って視線を彼の上に落とした時、視界に入ったものに僕は唖然とした。

「神崎、これ……」

「……!」

 初めてマフラーを外した、レイの首に。

 金で穿たれた文字──番号。そこには書いてあったのだ。

 DC-001、と。

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