第二章 デビルド
「すごい! 本当にひとつなくなって元通りね!」
爽やかな白いブラウスをひらひらさせながら、女性がネックレスを窓から入る夕陽に翳した。 金のプレートに赤いガラス片のようなものが薔薇の形に埋め込まれたデザイン。 純金の鎖が茜色の光を受けて濡れたようにキラキラと輝いた。女性はそれまでと違う少し子供っぽい仕草で、ありがとうございます!! と頭を下げた。その横で女性の夫らしき壮年ぐらいの男性が微笑んだ。感心したような顔をして腕を組む。
「本当にすごいですね」
「いえいえ。ものを直すだけでなくお客さんの顔に笑顔を作るのがわたしたちの仕事ですから。……お役に立てたのなら、幸いです。 またのご来店をお待ちしてます」
キザな台詞をちゃっかりと自然体で言いつつ、店のドアを開けてあげる
と。
「あなたも頑張ってね」
女性が声をかけてくれた。すごく優しい目をしている。 あれ? なんだかその目を見たことがある気がしてそう一度思ったら、女性のことも男性のこともなんだか知っているような既視感を覚えて、首を傾げた。 そんなわけないし、そもそもこの二人は今回初めて店に来たお客さんなはずなんだけど……。
一度来ると大体の人がリピーターとして細なことでも訪ねてきてくれるようなことが多いお店だ。それが口コミなんかでも広がり、 新規のお客さんが来てくれる。 うちの店は結構好景気だ。
「ありがとうございます、頑張ります」
結局、違和感の正体は何もわからないままにとりあえず答えると、今度は男性のほうがにこりと笑った。
「仕事のことだけじゃなくて、色んなことだよ」
優しくて温かみがあるが若干ミステリアスにも思えてきた笑みを僕の瞼に焼き付けつつ、そのまま二人は店を出て行った。 再度礼をいいながら。
はて、あの人たちは一体誰だ?
訝しんでいると、背後で優兄さんがヒュウッと口笛を吹いた。 振り向くと、彼は悪戯っぽい目をして、
「なんか意味深」
まあそうですけど。
この店──優兄さんが店主を務めるこの小さな店は「シャープペンから車までなんでも修理します」 謳う、要するに〈なんでも修理店〉だ。要するにも何もそのまま言ったなんだけど。僕のことを
さて、これで今日の仕事は終わりだ。金属ニスで軽く汚れた(優さんが「汚れもまた味だ」だのなんだの言うため衣服用自動清浄装置をつけていない) エプロンを脱いで畳み、バイト用にしている鞄を取った。
「お疲れ様でした」
優兄さんに声をかけたところで「ちょっと待って」 と呼び止められた。
「明日から二日間、バイト休むんだったよね。 夏休みってことで」
「え? はい」
「どっか行くのかなあって思って」
「ああ……」
あの三人の顔が思い浮かんだ。 正確には、あいつとあの人と、〈あれ〉。明日からは……。
「友達と、海に行って来るつもりです。 一泊二日で」
「ふうん」
優兄さんは何故だかにこにこしていた耽美な顔でそう微笑んでいるとどこかのホストのようである。 平気でキザっぽいこと言うし、割といいルックスの持ち主なのだ。……軽くムッとして「なんですか?」と問うと彼は、
「なんかきらきらしてるなあって思って」
「初めてここに来た時のこと覚えてる? ほら三年前にそれを直して欲しいって言って来た時」
そう言って指を差した先に、僕の肩にかけた鞄がある。いや、正確にはそこに付けられた紙コップでできたストラップに紺色に。
紺色に黄色い星柄を散りばめめた柄は、当時小学校低学年だった僕がちゃちにもクレヨンで描いたものだったが、今は上からきちんとクラフトグルーをかけられて艶が出ている。 その上で紙コップに裏側から金属板を貼って強化してあるので滅多なことでは壊れないようになっていた。三年前一度壊れてしまったこのストラップを直し、綺麗に加工してくれたのが優兄さんだった。
「あ、あの……! 子供っぽいしくだらないものだってわかってるんですけど……。これを、直してください!」
無我夢中で叫んだよな。
中学一年生の僕には大金だった一万円を貯め込んだカードと長い間持っていたために汚れ、折り曲がってしまった紙コップを握りしめて、 放課後 一人で店に入った。緊張していたし、それでもどうにかして直して欲しくて必死だった。結果として優兄さんはお金を受け取ってはくれなかったが。
あの子との、思い出だから。あの夏の、記憶だから。
ただ一世紀も前に描かれた〈ドラえもん〉 一緒に読み耽って、いつだって眩しいほどに輝く笑顔を浮かべていた女の子との夏。真っ青に伸びた飛行機雲が解けていくみたいに、白昼夢の最中にあったみたいに、全てはあっという間だった、けれど。
「ねえ、私たちもう会えないと思う。 お別れだよ」
「待ってよ最後に、さ……」
彼女の使ってみたいと言った秘密道具、おしかけ電話。二人で作って、そして半分に分けた。片方は持っておいて、と。これがあればまた、いつでも会えるよって。
「ありがとう、キミ」
そしてその直後に見たい朱い血、白い顔、僕のように間抜けで責任な、青すぎる空。
あまりにも無知で、変わらない日々に安心しきっていた僕は、すぐそばにいた女の子の抱えていたものにも気づけなかった。 そして今も気づけていないまま。
あれ以来、僕の鞄にはいつだって糸電話の片割れがストラップとしてぶら下がっていて、そして僕は自然とあの漫画の主人公、のび太のようにあることを自分に課すようになった。 好奇心に従うこと、お節介であっても周りの人に干渉すること、能天気に日々を──いいことがなかったとしても、愛すること。
いつの間にか回想に浸っていた僕を、優兄さんが相変わらずのにこにこ (ニヤニヤ?)顔で見ていた。
「ほら、あの時の誠実で切実な感じのがいいなあって思って雇ったのに、仕方ないといえば仕方ないけど、だんだん他の人と変わらないな感じになってたでしょ? でもなんか最近また楽しそうになってきたから。だからなんだってわけでもないんだけどね」
「僕のことそんなふうに見てたんですか……」
しかも他の人が陰鬱だとか。
……うん。 でも、まあ。
もしかしたら僕は今、楽しいのかもしれない。
❇︎
行き先は海。 それも、人がいないところ。
リニアモーターカーに乗るのは何度目かではあるけれど、その揺れのなさと騒音のなさには毎回驚く。最近では人工衛星によって統制された、より最新式の交通手段もあるというので驚きだ。
「火色号っていうんだねぇ」
隣で呑気な声で
神崎は僕のクラスメイトで(と言ってもどうやら仲間になるまで僕の名前を覚えていなかったようだが)、そして今現在クラスの女子たちに虐められている、という背景を持っている。彼女は僕がそのことを知っていることを知っているし、それでも黙っているので、とりあえず僕もなんら変わらずに学校では空気と化し、この〈四人〉の場では普通に喋る。情けないし、自分が卑怯だとも思うけれど、僕が彼女たちにできることなんて何にも無くて。
「というカナデは今回は何も忘れ物をしていないだろうな」
そう言って僕の正面で漆黒の瞳を細めた、少し年上に見える美青年はレイ。 苗字は知らない。なにせ僕ら仲間であるため、名前で呼び合うことになっている。その言わばルールとも言えるものを考えたのはレイ本人だ。そんな熱血キャラじゃなさそうなんだけど、 彼のことについては僕もまだよくわかっていない。 彼と二人で話す機会が圧倒的に少ないから。神崎によれば 〈工学の天才〉だとか。ちなみに、夏休みだというのに今日もアイデンティティ(?)の黒いマフラーを首に巻いていらっしゃる。
で。ここまでならば、割と普通の「高校生の夏季旅行」 って感じなんだけど、残念ながらそうとも言い切れない。
「無いものがあったにしても、どうにかなるわよ。 ハプニングもまた思い出でしょう」
と笑った、〈彼女〉。殺人兵器であり、人造人間の
彼女の精神を完全に人間にする──つまり、
それにしても、海か。
何年ぶりかな。
あの夏の思い出から、夏という季節を楽しもうなんていう気にはどうしてもなれなくて、いつも家の中に閉じこもっている間に行くのを見送っていた。そしてそれを悲しむことも寂しく思うこともなかった。そう思うと、今回のキャンプは僕にとっても〈思い出づくり〉なのかなって思ったり思わなかったり……。
「あと一時間ぐらい着かないし、トランプでもしない?」
神崎は軽くテンションが上がっているみたいだ。ふわっと黒い肩までの髪が揺れた。
「いいよ。ピラミッドとか?」
適当に知っているトランプゲームの名前を上げてみると、「それはひとり遊びじゃないか?」 とレイに突っ込みを入れられた。
「あれ、そうだっけ?」
「まあまあ、ここは王道でババ抜きとか大富豪とかやろうよ」
微妙に噛み合っていないような会話を聞きながら、イオナが人間となんら変わらない表情で笑った。
流れゆく風の中に、確かな潮の匂いを感じる。ざらざらとした波の音が耳に心地よかった。東京にも〈バーチャルシー〉という、仮想の海を視覚、嗅覚、触覚、聴覚で楽しむための施設があるけれど、本物を前にすれば所詮人工物に過ぎなかった。水平線が緩やかに弧を描いているのを見て、ああ地球って丸いんだと、あたり前のことを素晴らしいことのように感じた。
砂浜は──思っていたよりも少ない。気温が上がったためか、海面が軽く上昇しているようだ。波打ち際をペンギン型のゴミ対策ロボットが数体ペタペタと歩いていた。砂浜から海の上にかけて巨大な平たい岩が出ていたりするけれど、今日はその上で野宿だろうか。
「私たち、来たんだね」
防波堤の上に立って神崎が放心したような声を出した。機能的でしかない白いTシャツが夏の日の光を受けて目に眩しい。僕はわざと肩をすくめて見せた。
「そんな感動しなくても、かんざ……カナデが提案したんでしょ? 本物の海見たの初めてなの?」
危ない危ない。レイがいるので名前呼び。
「ううん……。むしろ一人でなら何回も海辺で野宿してるけど。私がこんな仲間と海だなんて青春っぽいことできるんだなぁ、していんだなぁって」
「そりゃあ僕たちも、こう……」
高校生だからね、と言おうとして口をつぐんだ。ああそっか。神崎には、青春するための「友達」というピースが欠けているんだ。──と。
「ハルくんが何考えてるんだかわからないけどさ」
持っていた荷物をそっと場の上においたかと思うと、ひらりと防波堤を小柄な身体が乗り越えた。盛大に水沫が上がる。えっ──!? 見下ろした僕に、彼女は海の中からピースして見せた。「全然深くない、浅瀬みたいだ!」と声をあげ、笑顔で表情をくしゃくしゃにしている。
「今日四人でここに来られて幸せなんだから、私は幸せなんだよっ!」
深かったらどうするつもりだったんだよ、それに理屈が通ってないよ、と心のなかで呟いた僕こそ屁理屈を捏ねていただけだったろうか。
レイもひょいとなんの躊躇もなく海に飛び込んだ。相変わらずの無表情のまま「意外と冷たいな」と呟いている。肩までつきそうな長めの黒髪にマフラー、という軽く暑苦しい格好をしておきながら透明な海水の沫を浴びて、清々しく見える。
「ハル──」
隣で、彼女が手を差し伸べる。
「どうかしら?」
その細くて白い首に彫り込まれた番号が煌めいた。……思い出づくり。うん、そうだな。
流石に手を取り合って飛び込むのは、機械と人間とはいえなんだかなぁという感じがするので、先に防波堤から身を躍らせた。イオナもその直後に続いてきた。レイが軽く手を貸して体勢を整えるのを手伝った。
どうにかこうにか波の中に倒れ込むことなく着地した。ズボン既に波飛沫でびしょびしょだ。それに確かに真夏だというのに、思っていた以上に冷たい。叫び出しそうなほどに、心地よい。
染みる、滲みる、沁みる。
透明な流れの中に。
溶ける、解ける、融ける。
「イオナは水の中に入っていいの?」
「それは完全防水だから問題ないだろ」
「ねえ、波が向こうから来てる!」
「本当だ!」
子供に帰ったかのようにはしゃいで指差したその延長線上。そこに広がるのは空か、海か。
──将来の夢は?
そう聞かれたのは、なんとなく遊び疲れてそのまま砂浜に座り込んだ時だった。いつもの廃ビルでの会話みたいだ。 取り止めもないことを、三人とか、四人とかでただ話す。ひたすらな質問&トーク。大概質問をするのはイオナで、それに答えたり、そこから会話を広げたり。
「なんで急に将来の夢?」
「仲間と海で未来を見つめるのが青春らしいから」
機械生命に「青春らしい」とか言われるとかなわない。イオナはそれを心から言っているのか、周りの空気感を全てデータとして読んだ上で場のために言っているのか。
足の半分ぐらいまで波が来て、そしてゆっくりと遠ざかって行った。真っ直ぐな日差しがひたすらに降り注ぎ、砂が眩しい。
「そうだなぁ……。僕は、一応エンジニアってことになるのかな。それに医療職と技術職だけはあと五十年は必ず仕事があるっていうし」
他の仕事はいつ機械に取って代わられるかわからない。そのため、エンジニアやら医者やらになりたいという人は多いから、僕は少し自信がないんだよな。意志の強さっていうものが僕にないのはわかっている。何を選ぶにもなんとなくで、だからこそ──。
「それは、あのバイトの先輩のこともあるのか?」
口を挟んだレイに、頷いた。
「そう。 優兄さんみたいになりたいっていうのはあるかな。ああいう形で周りのたくさんの人と関わってみたい」
僕の今生きてる軸である、あいつ──のび太。優柔不断だからこそ、僕には誰か人のことを目指して生きるしかないんだ。だから、たくさんの人に関わりたい。 行動基準はいつだって単純で。
「会ってみたいなぁ、優兄さんって人」
神崎の呟きにそうだな、とレイが同調した。
「今度お店においでよ」
「折を見て行ってみようかな」
なんとなく自分の話ばっかりになるのは微妙なので、レイに話を振ってみた。 そういえば彼に関して僕が知っていることは少ない気がする。
「レイは将来の夢とかあるの?」
一瞬、彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「どうだかな。 まだ決まっていない、か」
「へえ」
なんとなくはぐらかされた感じがしなくもない。
高校入学時になんとなくの進路が決まっていないのは、最近では珍しいことではないだろうか。それとも結構高いところを目指しているからあまり言いたくないとか? でもイオナの殺人本能的なものをプログラミングで外したらしい 〈工学の天才〉のレイのことだから、やっぱりそっち系に行くのかな。
「カナデは?」
「私は……そうだなぁ。とりあえず医療方面かな。 こだわりはないんだけどね」
「医学部!?」
「行けたら、ね」
すごいな……思った。 医学部はかなり偏差値が高い気がする。
それにしても高校に入ったばかりで言うのはなんだけど、あと三年で大学である。その頃の僕たちは一体どうなっているんだろう。 進路についてもそうだし、性格やら生活やらのほうもだ。 未来を予想するのは
強いていうなら……。
「みんなが幸せな未来だといいわね」
イオナがすくっと立ち上がった。自動速乾機能で髪や服やらがふわりと浮いたかと思うとあっという間に乾いた。 そのまま風に磨く。
「そうだねえ」
意識して呑気な声で、僕は言った。
ビーチボールとか、バーベキューとか、花火とか。
ひたすらに楽しく喋ったり遊んだりしていたためか、夜が来たのが思っていた以上に早く感じた。 砂浜から岩場の上に登り、平たくなったところに四つ寝袋を並べた。 神崎が家から持ってきたものだ。
「もう寝る?」
まだ明るさが僅かに残る夜空。少しだけ右の方が欠けた月が煌々と光を放つ。その周りで雲が流れるように動いていた。
「俺はまだいいから、その辺を歩いてくる」
歩き出したレイの背中に「それなら私も行くわ」とイオナが着いていく。 僕は何も言わずに彼らを見送ったが、その判断は正しかったようだ。
「なんか思うんだけどさ」
となんとも言えない表情の神崎が首を傾げる。何を言い出すのかと僕は軽く身構えた。思えば神と僕二人きりになることってそうそうない。
「何?」
「あの二人──レイくんとイオナちゃん、なんか知らないけどすごく絵になるよね……」
何を深刻そうに言うかと思えば。僕は軽く吹き出した。
「そりゃあ、イオナは最高に綺麗に造られてるわけだし、レイも生粋の日本人にしては結構な顔立ちだからね」
美青年と美少女じゃあ絵にもなるだろ。
だが神崎は、そうじゃなくて……と言う。
「いや、 それもそうなんだけど、でも私が言ってるのは関係性の話」
「うーん……」
確かにレイが防波堤から飛び降りたイオナに手を貸したシーンは印象に残ってるけど……。でもさあ、神崎。
「それってのは、人間と機械の恋とかそういう話? 勘弁してよ」
どこぞのファンタジー小説ではあるまいし、流石にあり得ない。 実の人間と人造人間との間に恋愛感情が芽生えるなんて、ね。
……あれ? とここで気づいたことが一つ。
この僕たちの〈思い出づくり〉の本来の目的はなんだ?
いや、これ以上考えるのはやめておこう。 僕はぶんぶんと首を振った。〈仲間〉である僕たちの間に変なものが入るのはあまりよくない。
カナデの思考も同じようなところに辿り着いたらしく、彼女は「よし、もう寝ようか」と強引に話題を変えてきた。
「そうだね」
どちらからともなしに、寝袋に入る。 平めなところを選んだとは言え硬い岩を特繊ナイロン越しに感じるんだけど、仕方ない。砂浜で寝ると朝起きた時には海水の中、なんてことになりかねないからね。
「星が綺麗だな……」
別に聞いて欲しかったわけでも無いけれど、真上に広がる星空を見上げて声を出した。対して神崎からは沈黙が返ってきた。
「え? もう寝たの?」
なんでもかんでも口に出して呟きたくなってしまうのは、星空と同じように闇も深いからだ。自分が一人なんじゃないかいう錯覚を起こすくらいには。
「えええっ……。まあ確かに久しぶりに動いて疲れたけどさ」
「ううん。起きてるよ」
突然に自然体で聞こえた声に驚いたが、他でもなくただ神崎がまだ寝ていなかっただけの話だった。
「なぁんだ」
「ねえ、野上くんは星空を見て何を思う?」
「へ? ええっとね……」
急な質問&トークがまた始まった。思わず神の方を向こうとして、寝袋に顔が埋もれかけた。
「色々空想するかな。例えばさ、今見てる中にヒョーガヒョーガ星とか、アクア星とか、かぐや星なんてのがあって、そこを人間がひょんなことから冒険してる、とか」
微かに神崎が笑う気配があった。
「それ、元ネタわかるよ。 ドラえもんでしょ」
「あ、わかった? よく知ってるね」
「そりゃあドラえもんぐらい知ってて当然だよ。だって有名だもん。 藤子・F・不二雄先生も」
映画ドラえもん。そんなのが毎年やってたのも僕が生まれるずっとずっと前、もう半世紀以上前だ。 ドラえもんの漫画を全巻読んだあの夏の後、全部ネットワーキングで調べまわって、見た。 画質荒かったけれど、ストーリーはどこまでも鮮やかだった。どの話の中でも、単純なきっかけからのび太やドラえもん、そしてその仲間たちが地球すら飛び超えて大冒険をする。
「想像力は創造の
「じゃあ神崎は?」
「……んん?」
逃れようとしないでください。 あなたが始めた話題でしょう。
「だから、 神崎は星空を見てどう思うの?」
会話の回転率がやけに遅くなった。でも残念。時間は有り余るほどある。僕は意地悪ながら、沈黙をそのままにして返答を待った。
やがて。
「……安心する」
いつもより幾分低い声で答えが返ってきた。
「安心、するの。 今目の前に広がってる宇宙の中に、今この瞬間も星が生まれ出ているし、死んでいっている星もあって、この地球だってそんな星のつなんだから私たちがなんと言おうと消えて無くなる時は無くなる。……無常観って言うのかな」
「……ああ、うん」
あんなに返事をするのが気が進まなそうだったのに、喋り始めてからは妙に饒舌だ。その口調に引き摺り込まれていきそうになる。
「だからさ、つまりさ、 今起こってることなんてどうせ終わるんだよね。なんなら星の一生なんかより全然早く。 だったらまだ私は生きてられるよなあって、 安心感」
「……」
無言になるのは僕の方だった。「今起こってること」が何を指しているのか、どうしてもわかってしまうから。神崎、一人でなら何度も海辺で野宿したことあるって言っていたよね。こうやって、膨大な年月瞬いて、それでいて永遠に不滅なわけでもない膨大な数の星を見ながら、独りだったんだろう。
無限に
静かに美しく、諦めながら──。
瞼を貫通して差し込んだ、朝なのに強い日の光に目覚めた。寝すぎたかな? 時間の感覚は昨日からとうに消え失せていた。寝袋から苦労して抜け出してから、内部にあったスイッチ一つで簡単に自動開閉できたことを知る。当たり前のようにいつも通りの間の抜けた僕だ。
そっと立ち上がって、辺りを見渡した。どうやら寝過ごしたわけではないらしい。良かった。……というか、他の三名はまだ寝袋の中である。流石に寝顔を覗き込むような野暮な真似はしないけど。
夕べのレイじゃないけど、軽く歩いてこよっかな。ほぼ身動きもせず寝てたみたいで身体が固まっている。
ただ行くところもないので波打ち際を歩いた。足跡がついては、崩れて消えた。昨日より風が強いのか、波が高い気がする。そういえば昨夜は雲の流れが速かった気がする。
例のゴミ対策のペンギンロボが相変わらずうろついていた。最近は街中にもよくいるよな。確か〈
また巨大な岩にぶち当たったので、適当によじ登った。海と砂浜の狭間にあるので見晴らしがいい。強すぎるほどの朝日に水平線が煌めいている。海上に白く輝く光の道を、幾つもの波が絶えず寄せてくる様は壮観だった。
「ハル! ……こんなところで何をしているの?」
と。
振り返った僕の方に、イオナが走ってきた。何も気づかないほどの無音でついてきて、その華奢な身体の三倍ほどもある岩場をよじ登ってここまで? さすがとしか言いようがない。
「寝てなかったの?」
「……寝るも何も、ただスリープ状態に入っていただけだから、周囲で何かしら変化があればすぐに覚醒できるのよ」
愚問でしたか。
「そうだったね。他の二人は?」
「さあ。私はハルが一人でどこかに行くのかと思って追ってきただけ。人が少なそうな田舎とはいえ、危ないでしょう? 色々と」
「そうだね。 ごめん、何も考えずに歩き出した」
ドローンの操作で基本なんでもできてしまう世の中だ。こう無防備でいるのは結構危険だったりする。何年か前にはサイバーと小型無人航空機を利用したテロが起こったりもしている。〈ニホ〉内ではないといえ、当然ユナイテッドワールド内のことだから他人事ではない。こんなただ夏休みを楽しんでいる高校生を襲う輩だっていなくはないからな。「無差別で」だの「人が楽しんでいるのを見るとムカつく」だの。
「別にいいわ。 でも気をつけて」
「ねえイオナ」
僕は〈彼女〉の方を向いた状態で岩の先の方に軽く後ずさった。真っ直ぐにイオナを見つめる。広大な景色を背景に全部背負いこんだような気分になる。
「イオナは、今、楽しい?」
「……? それはどういう意味?」
聞き返したその表情も、首を軽く傾げる仕草も、僕を見つめる目の色も、全部全部、君の中では数値化された動きなのかな。君は今何を思って、何を感じているのだろう。そして同時に君は今、何かを思って何かを感じているのかな? 僕にはわからないよ。
「ええっと……、つまりさ、ここに来られて良かったと思う?」
イオナは「なんだ、そういうこと」と言って微笑んだ。風に煽られて髪が輝く。
「当然よ。みんなでここに来られて嬉しいわ。あのビルの中で話すのももちろん楽しいけれど、こうやって外に出るのもいいわね」
本心なのか、それとも僕に合わせた答えを言っているのか。考えたって何したって、イオナの心なんて推し測れないから、僕は無理やり笑顔になった。腕をがばっと広げて見せた。
「良かった。僕もすごく楽しいよ。今日、東京に帰らなきゃいけないのが寂しい」
その時、一段と強い風に煽られたのは、偶然か。芝居がかった手を広げたポーズで岩の上に僕が立っていたのは、神の悪意だろうか。
見事にバランスを崩した。
「──え……あああっ?」
視界が四分の一回転する。縁に咄嗟に足をかけたところで、パラパラッと岩が粉のように崩れた。なすすべもなく。ひどく自分の落ちていく動きがスローモーションに感じられて。
下、海だよね? 泳げなくないけど、でも意外と高さあるよね、今日風強めだよね。だって風が強いんだもんね。そのせいで今こんな目に……って。そんなこと考えてらんない。落ちる落ちる落ちる落ちる。
落ちてる──!!
と。イオナが僕の落下スピードよりも速く、岩から飛び出すのが見えた。瞬きをする 間も無く、空中の僕を抱え込んでしまう。まるで僕を包み込むみたいに。 二人で落ち始めて。
どうして。
どうして。君は、〈ニホ〉が世界連合から独立するための兵器として、人を殺すために造られたロボットだというのに、なのに。
なのに僕のことを庇おうとするの──?
ガツン、と半ば抱きしめられたような全身に軽い衝撃が走った。海の中に落ちたわけじゃない。一体、何が?
「動かないで。今、私の手が岩に軽く引っかかったところだから。崩れる心配は、大丈夫よ」
恐る恐る顔をわずかに上げるとイオナの静かな瞳に覗き込まれていた。レイのブラックホールのような得体の知れない漆黒じゃない。だけど黒々として、どこか不思議で、何故だか胸を掻き乱されるようで。
宙吊り状態なことも忘れて僕は放心していた。
どうして、どうして、どうして。
「……」
どれだけそのままで時間が経っただろう。いや、もしかしたらほんの数十秒のことだったかもしれない。何事かをイオナが囁く気配があって、なに、と聞き返した。
「……人の体温を半径三メートル以内に感知。心拍数八十一。約十六歳、女性」
その言葉の直後に、上から見知った顔が覗いた。
「イオナちゃん、野上くん……。 はああぁぁ……っ」
思わずと言ったように声を上げて瞳を潤ませた、その顔は。
「かんざき」
泣きそうな表情で僕たちを見下ろしていた神崎カナデがまた見えなくなったかと思うと、大声が頭上から響いた。
「レイくん! いたよー! 大変だから早く来てー!!」
「朝起きたら、二人ともいなくなってるし、見当たらないんだもん……。だから、どうしちゃったのかと思って、レイくんと探して……」
神崎、かなり取り乱してる。申し訳ないとしか言いようがない。
間も無く二人がかりで引っ張り上げられて、イオナの腕の中からも解放された僕は安堵感で岩の上に仰向けに横たわっていた。大きく息を吸う。今になって、心臓がえげつないほどに強く脈を打っていたことに気づいた。
「全く、何も言わずに消えたと思ったら、こんなことになっていたとはな」
レイが冷ややかにも思える目で僕を見下ろす。その横では神崎が「それでも無事で良かったぁ」と胸を撫で下ろしている。僕は謝るしかない。
「本当にごめん。ごめんなさい、ご迷惑をおかけしました。イオナも大丈夫? 痛かったよね……」
イオナが庇ってくれなければ、僕は今頃波に飲み込まれていただろう。死にはしなかっただろうが、想像すればやはり身の毛がよだつ。でも思えば、確実にイオナよりは重いであろう僕の全体重を、彼女の細い腕一本に掛けていたわけだ。かなりの負担だったに違いない。
当の本人は、軽く片手を上げて見せた。
「大丈夫。 私は痛みなんて……」
感じてないから。そう言った後で、小さく言い直した。
感じ、られないから。
その時に走った刹那の感情に、僕は──そして多分、神崎やレイも唇を噛み締めて、頷いた。痛みを感じられることはいいこと? わからないけれど、でも。
「そうだよね。よかった。本当にありがとね、イオナ」
僕は額に手の甲を当てて、空を仰いだ。
なんて──
何を目的として、夢として掲げていいかわからない世の中で、この初々しくて美しい空だけが真実だ。
❇︎
イオナやレイと別れて、夕暮れ時の駅裏を神崎と二人で歩いていた。わざわざ表ではなく裏道を使っているのは、神崎が「万が一にもクラスメイトたちに野上くんと歩いてるところを見られて野上くんに迷惑をかける のは嫌だ」と言ったからだ。 あくまで理由が自分よりも他人である僕を優先したものであるところが、僕的には複雑だ。それに裏道と言っても、真横はそれなりに大きい道路だし、上にも空の交通網が広がっているので意味があるのかもよくわからない。それを言うと彼女は、
「というかそれだけじゃなくて、いいの? 一緒に歩いて帰って。駅までいつものバイクで来たんじゃない?」
「ううん。昨日はここまで徒歩で来たから、
着替えなどの自分以外の共用のものは全て分担して持ち寄ってのキャンプだった。食材やら花火やらをがさがさと持って人乗りバイク乗るのは流石に大変だったので、待ち合わせ場所の駅までは歩いてきたのだった。
Speeder は高校生の僕でも免許が手軽に取れるバイクである反面、一人乗りだし荷物を置くスペースも特にない。小型化にひたすら特化したものだから仕方ない。 「そっか……。楽しかったね。色々あったけど」
「うん」
「〈思い出づくり〉、できたかな」
「……うん。多分」
とぼとぼと、まるで勝負に負けた後のようにオレンジ色の光の中をただ行く。一抹の寂しさが支配した空気が妙に心に滲む。心、に……。
何もかも、単純じゃないなと不意に思った。沢山の感情が混ざり合って、今の景色が見えているんだろう。一筋縄じゃあいかない。
「そういえば神崎はいつレイに会って〈プロジェクト〉に加わったの?」
その恐ろしいほど澄んだ空間と沈黙から逃げたかっただけなんだと思う。僕は神崎に問いかけた。彼女は、そう言えば話してなかったね、と呟いた。
「別にほんと大したことはないんだけど……」
「大したことなんて求めてないよ」
「だよね。えっと……、レイくんと会ったのは、野上くんが仲間になる三ヶ月ぐらい前かな。 結構最近でしょ? 私が一人であのビルのあたりを歩いてたら、レイくんが話しかけてきたの」
あのビルっていうのは。
「〈殺人ビル〉のこと? ところでなんでイオナはあのビルにいるの?」
尋ねると、神崎は一瞬キョトンとした顔をした。
「えっ、あれ、それも話してなかったっけ。じゃあいい機会ってことで。あのビルは
「こういっちゃ悪いけど、イオナって人造人間として失敗作だからビルに捨てられてる状態だったんだよね?」
「うん。そう。成功作はまだできてないらしいよ。その001は人間の感情を持たせすぎたせいで暴走してどこかに行っちゃったし、イオナちゃんは実はその逆。 持たせた殺人能力があまりに強いから、結局起動させるとなく終わっちゃったみたいな」
それをそのままビルに放っておく〈ニホ〉の政府は結構
人間に寄せすぎたDC-001と、攻撃力を優先しすぎた
というか、完全に話が逸れてしまった。
「それで、レイはどうやって話しかけて──」
そう話を戻そうとした時。
キキイイィィィッ──
タイヤとアスファルトが擦れる耳障りな音が辺りに響いた。別れ、自殺、揺れた瞳、あの子──。一瞬であの時のことがフラッシュバックし、目の前が真っ暗になる。
数秒。
「……くん、野上くんっ!」
ハッと我に帰ると、僕は神崎にがくがくと肩を揺すられていた。無意識のうちにしゃがみ込んで耳を塞ぐような体勢になっていたらしい。
僕はイオナがやったみたいに片手を軽く手を上げて、立ち上がった。
「ほんとにごめん。
「嘘つけ!」
結構強い調子で言われた。
辺りを軽く見渡してみると、なんてことはなかった。通りをいつもと変わらない様子で車やらバイクやらが走る。さっきはただ誰かが車をぶつけそうになって急ブレーキを踏んだだけだったのだろう。何事もなかったかのように全ては型にはまって動いていく。
神崎はめちゃくちゃに顔を諦めていた。
「なんか……ブレーキの音に嫌な経験でもあるの? 交通事故にあっただとか」 「ううん。それに今のはブレーキの音に関係なくただ立ち眩みがしただけ。 はしゃぎすぎて疲れたのかもなぁ」
そう言いながら、 僕は上手く笑えていただろうか。
情けないな。車の音にまで記憶が蘇って平静でいられないなんて。 最近ではブレーキ音が鳴るなんて相当なレトロだから耳が慣れていないのもあるけれど、 それにしてもだ。新しい思い出と共に、古い思い出まで、捨てられずに持ってる。全てを抱えて、それでも進む。
「ほんとにー?」
訝しげな顔をしつつも、神崎はそれ以上深追いしようとはしなかった。どちらかといえばその話題を早く終わりにしたいようだ。神崎こそ交通事故に嫌な思い出でもあるに違いない。僕としても好都合なのでうやむやなまま放っておくことにする。
なんとなくで話を逸らし、なんとなくでまた歩き出す。
「それで、なんだっけ。……そうそう、レイくんがなんて話しかけてきたの?」
「突然に……」
彼女は軽く目を伏せて首から下げている赤い石を手で示した。
「俺には今、その石が必要だから手を貸してくれないかってね」
「強引だな。あれ、じゃあその石だけ渡せば別に……」
神崎は必要なかったの、と言おうとして、やめた。流石に酷すぎる。だが彼女は「私も最初なんでだろって思ったけど…」と答えた。
「多分、レイくんは石の他に〈仲間〉って意味で人手が欲しかったんじゃないかな。ほら〈思い出づくり〉なんて一対一でできるものでもないからね」
「ああ」
そのことに関してはなんとなく腑に落ちた。だとすると気になることはもう一つで……。
「その石、なんなの? たしかイオナを起動させるのに使ってたよね」
「そう。首の文字に当てて起動させるの。でも私もよくわからなくて、このペンダントはただ、お母さんの形見みたいなもので……」
形見、と言われるとそれ以上踏み込みづらくなる。閉口した僕に神崎が「別に気にしなくて大丈夫だよ?」と慌てたようにばたばたと手を振って見せた。
「でもこれでなんで起動させられるのか私も興味があるんだよね」
「何でできてるか、じゃない? それって
「え、あ、うん」
まあ見たところで素人の僕にわかるとも思えないけれど。案の定、持ってみても、ただ赤いだけじゃなく真ん中あたりに黄緑の層が入った透明な石だ、ということ意外には発見がなかった。
でも。
「これが何かっていうのを見分けられそうな人に当てがあるよ」
「だれ?」
「優兄さん」
あの人だったら、できるんじゃないだろうか。何せどんな部品や材質でできているものも修理してしまうプ口だから。
「今度お店においでよ」
別に何があるってわけでもないし、この石のことを解き明かしたっていいことはないけどさ。なんとなく神崎と優兄さんを合わせてみたい気がする。
神崎はにこっと少し微笑んだ。その横を夕陽が照らし出していた。
「前から行ってみたいと思ってたんだけど、行く口実ができたね」
手折られた彼岸花のような夏は、最後まで朱く燃えて散った。
また、新しい季節が来る──。
❇︎
カタカタカタ……、と空間に浮かび上がり発光しているキーボードを叩いていた皺々の手がやがて動きを止めた。
「ハハハッハハッッハハハ」
暗い部屋の中、老婆は笑った。あとはこの作ったプログラムを〈あれ〉に施工、執行するだけだ。そんなのはキー一つを押せば簡単にできてしまう。
これで全ての準備は整ったと言えるだろう。なんて簡単だったのだ。 狂ったような笑い声が絶えない。
さあ、復讐の
Enterキーに中指をそっと置いた。 指の腹が大事そうに、慈しむようにキーの表面をつと撫でた。だがそれもほんの僅かな時間だった。 一瞬の後。
カチャン、と。
それはまるで檻の柵が降ろされたように鋭い音で……。
悪夢は続く。終わらせない。
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