第一章 スクランブル




 ヘルメット越しにも耳元で風が唸ってるのがわかる。

 輪郭のぼやけた月の光が辺りを照らし、霧雨でそれと気づかない間に服と髪がしっとりと濡れる、そんな夜だった。そんな夜から───、

 僕らの物語は、始まる。


 バイト代を貯めて、別居している親から借金までして手に入れたSpeeder空飛ぶバイクに乗って、僕は一羽の隼のように闇夜を切り裂いていた。流石は質にこだわっただけある。鈍い光沢のあるボディは揺れることなく滑らかに飛行していた。

 こうやって夜にSpeederで空を飛び回るのは最近の趣味の僕の趣味だ。ひたすらな上下関係と能力主義の学歴社会に押し潰されそうになっている日々の気晴らしになるのだ。それに夜は空の交通も混んでいないため割と自由に飛び回れる。やはり暗い中での飛行は危険だという認識がまだ一般的だから、夜は陸の交通を使う人が多いには違いない。

 ヘルメットのシールドが細かい水滴で曇る。自動ワイパーが動いて、拭き取った。今更ながら今日は雨の日なんだなと思う。霞にも似た春の雨はしっとりと暖かかった。

 あー、でも。

 風邪ひかないように今日は駅回るだけにして帰ろっかな。

 なにせ最近の高校の授業は一度欠席しただけでも成績を下げられる。かなりシビアだ。高校がこんなんだから、大学なんてもっと厳しい。でも大学を出ない限り、就職できる確率はほぼゼロになってしまうのだ。それだけは避けたい。

 将来の夢、これと決まったものはまだないけれど……。

 でもバイトとして下で働かせてもらっているゆう兄さんは一つの憧れだ。

 二十代でエンジニアの資格を得て、今は小さなお店を自分で立てて働いている。「シャープペンから空飛ぶ車まで なんでも修理します」を謳う店で、客足は絶えない。店舗の拡張に伴って、たまたまその時店を訪れていた僕のことをバイトとして取ってくれたのだった。客だけでなくバイト助手の僕に対しても丁寧で、それでいて作業は巧みで素早くて、すごいのだ優兄さんは。

 なんて考えながら走行しているうちに駅に着いてしまった。

 宙に浮いて空の道を照らしているドローンの線に沿って旋回する。その時、ふと眼下に目をやったのはただの偶然だ。ただ、飛んでいる高さに酔いしれたかっただけなんだと思う。なんだけど……。

 駅の下に知っている顔を見つけて、スピードを緩めた。道から抜けてホバリングする。

 何やってるんだ、あいつ。こんな時間に。

 自分のことは棚に上げて言うのもなんだけど……。

 同じクラスの神崎かんざきカナデだ。傘も差さずにバス停留所でマフラーに顔を埋めて俯いている。確か肩までぐらいあるはずの黒髪がところどころマフラーに入って緩く弧を描いていた。時間は十二時を過ぎてるってのに。明日も学校は普通にあるけど。

 って。どうでもいいだろ、そんなこと。

 まあ関係ないんだし帰ろ。そう思うのに身体は勝手に違う動きをした。少し離れたところに着陸してSpeederを止め、彼女の方にゆっくりと歩いて行った。ヘルメットを外して抱え込む。僕はいったい何をしようとしてるんだろう……。

「何してるの?」

 足音にも掛けた声にも神崎は顔を上げることなく、ひたすら足元に視線を落としていた。

 聞こえなかったのかな? まわり静かだけど。そう思ってもう一度問いかけようと口を開いた時。彼女はぽつりと呟いた。

「なんであなたがもうここにいるんですか。まだ時間になってませんし。私先に待っていられるの嫌いだって知っているくせに。それになにしてるかなんてあなたを待ってるに決まってるじゃないですか」

「なっ……」

 畳みかけるようなその話し方に、僕は閉口した。なに言ってるんだ? 神崎が人に待っていられるのが嫌いだなんて知らないし。待たれる覚えもないし。待ち合わせしてないし。

 沈黙を不審に思ったのか神崎はふっと顔を上げた。そして気まずい一瞬の沈黙の中、彼女は目を見開いた。

「あれっ、あなたは」

 えーっと……と思い出そうともがいているのにたまりかねて「野上のがみだよ」と名乗った。

「野上はる

 この人、クラスメイトの名前も覚えてないのか。当の神崎は戸惑い焦ったように、

「ええっと、の、野上くん、ごめんねっ! 私、人違いしちゃったみたい。黒ずくめの服ってのとちょっと声が似てた気がして……」

「で、こんな時間に何を?」

「ええっと……」

 ええっと、が多い人だ。それに何を考えるって言うんだろう。だって今何をしているか言えばいいだけじゃないか。……そこまで考えて、気づいた。あれ、誰かと待ち合わせしているようだったし、彼氏? だとしたらあまりにデリカシーのない質問だったかも……。

 案の定、彼女はごまかそうとした。

「あのね、私さ、今から図書館に……」

 深夜十二時過ぎの言い訳が図書館かよ。まあいいや。

 じゃ、僕もう行くね。そう言うと、神崎はほっとしたように微笑んだ。

「うん。明日学校でね」

 学校では別に用がない限り喋ることはないだろうけどね、と心の中で呟く。だって名前も覚えないような関係なのだから。

 そして僕は立ち去ろうとして───。

 立ち去ろうと見せかけて、近くの柱の影に隠れた。なんでそんなことをしたのか今となってはわからない。ただ神崎が今からどこに行くのか、尾行して確かめようと思った。それは多分、一瞬だけあった目の奥の黒い瞳があまりにも不安げに慄えていたからなんだと思う。

 

 そんな心配をしてしまうほど、一人で突っ立っている神崎は頼りなさげで、掻き消えてしまいそうで怖かった。Speederをこの霧雨の中に放置しておくのは少し気が引けたけど、仕方ない。こいつから目を離してなるものか。

 前と同じことを繰り返して、なるものか。

 少しだけ自嘲する。あいつ、だったら。そんな理由や過去が無くてもきっと〈友達〉として神崎に話しかけたり「何か悩んでるの?」って訊ねたりできるんだろうな。持ち前の能天気さで、人々みんなを救えるんだろうな。──あいつなら。『ドラえもん』の、のび太なら。

 同じ体勢のまましばらくぼんやりと虚空を見据えていた神崎は、やがて駅の外壁を見上げた。古風なデザインのデジタル時計は十二時十七分を示していた。

「あれ、待ち合わせ場所ここじゃなかった……?」

 そんなことを小さく呟くと、彼女はゆっくりと歩み出した。その足取りはふらふらと揺れている。

 はあっとため息をついて、僕も感覚を上げてついていった。ああ、今夜は眠れなそうだな。


     ❇︎


 昔、僕の隣には一人の少女がいた夏があった。たしか小学校低学年ぐらいの頃だったんじゃないか。僕は暇な日は一人で空き地に行くことが多かった。なにせはっきりと孤立していたわけじゃないが、友達はあんまりいない子供だったから。

 そしてある夏休みの日、空き地の木の下で見慣れないものを見つけた。

 漫画だった。それも紙の。

 オンラインの書籍しかほぼほぼ読んで来なかったため、新鮮だったのだ。手に取る。埃がついているらしく、ざらざらとしたものが手に着く感触があったのを覚えている。汚い、とか嫌だ、とか感じることはなかった。あんまりに古いから、ここに捨てることにしたのかな、なんて思いながら表紙の埃をはらった。

〈ドラえもん 第1巻  藤子・F・不二雄〉

 暖かくて優しい風が吹いた。どこか懐かしいような丸いフォルムのキャラクターがとぼけた顔でこっちを見ていた。青くて丸い頭に、ぴんとした髭。アザラシかな? でも赤い首輪を付けている。

 と、その時。

「ねえ、何してるの?」

 気づけば一人の同い年ぐらいの女の子に見下ろされていた。慌てて言い訳めいたことを口走ったんだと思う。

「あの、ここに本が落ちてたから……」

「それ、私が持ってきたんだ」

 女の子はニカッと笑うと、木の下に腰を下ろした。赤いスカートが地面につくことも気にせずにぺたんと。もっとも最近は服につける小型の自動清浄装置が流行っているから、女の子もそれを付けていて汚れが気にならないのかもしれない。

「家の物置を掃除してて見つけたんだけど……、ママが捨てちゃうって言ったからもったいなくてさ。多分ひいおじいちゃんが持ってたやつだったんじゃないかな」

 とりあえずここに避難させたの、と嬉しそうに言う。そして自信満々に、誇らしそうに、

「面白いんだよ、これ。もしキミが読みたいんなら、貸したげる。ずっとここに置いておくつもりだから」

 まもなく僕は、空き地で名前も知らないその女の子と〈ドラえもん〉を読むようになった。最初キザだと思っていた女の子の「キミ」という呼び方も慣れてしまえばなんともなかった。僕も彼女を名前で呼ぶことはなく、「ねえ」とか「あのさ」とかいう呼びかけ方しかしなかった。外伝も含めて五十冊を超えるそれは、雨や日光で風化しないようにと、同じく空き地にあった土管の中に入れていた。他愛もなくドラえもんや好きな秘密道具なんかの色々なことについてお喋りをしたり、無言のままに漫画に読み耽ったり。

「使ってみたい秘密道具はなに?」

 一度そう聞かれたことがあった。

「うーん。もしもボックス、かなあ? もしも魔法が使えたら、とかさ。面白そうじゃない?」

 「もしも〇〇だったら……」と電話するだけで、そのもしもの世界を体験できてしまう秘密道具だ。基本なんでもありな感じがしなくもない。もしもボックスがあれば、魔法が使えるかもしれないし、自分が人気者になった世界にも行ける。

「そうだね。でもさ、多分やりたいことが多すぎて私には使いこなせないよ」

 彼女は笑いながら小学生には似つかわしくない仕草で肩をすくめた。

「じゃあ……」

「私が使いたいのはおしかけ電話かな。知ってるよね?」

 もちろん知っている。漫画は全巻読んだから。おしかけ電話というのは、糸電話型の秘密道具だ。「もしもし」と呼びかけるだけで反対側の筒の先へと瞬間移動できる。会って話す、ということ以外には何の用途もないシンプルな秘密道具だ。

「いつか本当に逢いたいって思った人に使いたい。悪い使い方なんてやろうと思ってもできないような、簡単な作りの道具だからいいと思うんだ。とはいっても二十二世紀の科学技術の塊なんだけどね」

 女の子はいつも自信あり気に話した。自分の考えを絶対に曲げず、断言するのだ。その強さが、僕には眩しかった。

 そうしているうちにその夏はあっという間に過ぎた。そして。

 終わりは唐突だった。

「ねえ、私たちもう会えないと思う。お別れだよ」

 そう突然に女の子は言ったのだ。なんで、と詰め寄る僕に、彼女は「キミには関係ないことだよ」と寂しそうに笑った。漫画はそのままにしとくね、と言ってそのまま去っていこうとしたその背を、僕は呼び止めた。

「待ってよ、最後に、さ……」

 そして〈あれ〉を一緒に作った。片方はその子に渡した。

「ありがとう、キミ」

 女の子は一瞬だけ泣きそうな表情になったが、すぐにもとに戻った。その顔をよぎった一瞬の迷いに、僕は何故だかぞくりとした。呼び止めようとして、やめた。今では全てが悔いでしかない。彼女は。

 別れた後、家に帰る道の中で車の前に飛び出した。

 しばらくその場でぼーっとなっていた僕がブレーキとサイレンの音を聞いて駆けつけた先で見たものは、担架に乗せられて救助ドローンに乗せられようとするその女の子だった。サナトリウムの床を連想させるような白い顔が目にちらついた。彼女がぶつかったらしい車の下を、赤い液体が流れ、道路脇の排水溝に吸い込まれてゆく。車にはねられた人の体って、消えたりせずに傷ついて血を流すんだ、なんていう当たり前のことが呆然とした頭に浮かんだ。息ができなくなった気がして、吐き気がして、僕はその場に立ち尽くし、口を魚のようにぱくぱくとさせていた。

 あの夏を共に過ごした彼女が、自ら車の前に飛び出したらしい彼女が、今生きているのかどうかは知らない。あの年以来、僕は夏が苦手だ。


     ❇︎


 というわけで、あの子と同じかそれ以上に危うそうに見えた神崎カナデを追ってきてしまったわけだが。

 これ、神崎が仮にストーカー探知機を身につけていたら絶対僕は引っかかってるよな。というか、普通に考えてただ彼女が彼氏と会う約束をしていた可能性だってあるわけだし。僕がもう少し清々しい性格だったなら気負いもなく話しかけられるのに。

 ビルがいくつも立ち並ぶところに入ってきた。神崎はそのうちの古そうなビルを一度仰ぐと、その中に入っていった。あまり高くはないそのビルは、しかし何かのラスボスのように夜空をバックにそり立っていた。

 ってそのビル。

 あの〈殺人ビル〉じゃん。

 約七年前、中で男性死体が見つかったところだ。確か政府がなんとかって。まだ解決していない事件だ。ほぼ捜査は諦められたようだが、当時はいろんな噂が流れたものだ。政府が恐ろしい人体実験をしただの、その死んだ男性の魂が地縛霊となって未だにその場所を彷徨いているだの、それを知り合いの誰々が見ただの。地縛霊とは随分と古い言葉を持ち出してきたものである。死語ではないのか。

 入り口にかけられた黄色と黒の縞の立ち入り禁止を表すテープ。昔っからこの色だよな。でも確かにこの色が危機感を煽る。〈WARNING!!〉って感じで。神崎はこれを跨いで入ったわけ? 冗談だろ。これはもう絶対に誰かと待ち合わせしてデートなどという平和で純情なものではない。ああ、お節介には違いないが行かなくては。

 音が立たないようにそっとテープを跨ぎ越え、耳を澄ます。神崎はどうやら階段で地下に降りて行っているらしい。たんたんたん……と微かに規則的な足音が聞こえた。それを追って階段を降りようとしたその時。

「二十分の遅刻だが? カナデ」

 若い男の声がした。

 えっ? 僕は自然に止まった足を動かしてどうにか階段を降り、壁の影に身を隠した。心臓がバクバクと音を立てている。確かに誰もいないなんて思ってなかったけどさ。まさかの歳上の男性? 見つかったらやばい。かなりやばいって、これ。そう思うのに好奇心に負けて僕は声のする方を盗み見た。三人、人が見える。神崎と向かい合っているのは……、

 美青年!?

 インクのように真っ黒くて肩につきそうなほどの長めの髪。前髪が片目にかかっている。長めの黒いマフラーで首元が覆われていた。黒いブレザーにスラックス。制服みたいだ。でもそんなことはどうでもいいってほどに、何よりも惹きつけられるのは、彼の漆黒の瞳だ。ブラックホールのように得体の知れず全てを吸い込んでしまいそうなその瞳。……僕はさっき神崎にこの人と間違えられたの? 確かに全体的に服装が黒いけれど。声も僕より低い気がする。

 そして二人の前には、一人の少女が目を閉じて壁にもたれかかるように座っていた。眠っているのだろうか、カクンと斜めに傾いた首に掘り込まれたような文字が、窓から差し込むわずかな光に照らし出されていた。

〈DC-107〉。

 なんの意味があるんだろう。人間に番号がつけられているなんて。

「だって待ち合わせ、駅だと思ってたんだもん」

「今日はここ、と言っておいたはずだ。まあいい。あれは持ってきてくれたか?」

「もちろん。ほら」

 神崎がコートのポケットをさぐって何かを引っ張り出した。ペンダントだった。ついている雫型の赤い石がきらりと光った。

「よかった。忘れるんじゃないかとひやひやしていた」

「ひどいなぁ」

 頬を膨らませつつ、神崎は「やるんでしょ? 今から」と青年を見上げた。彼は頷いた。

「当然だ」

 青年は差し出されたペンダントを受け取ると、石の部分をあの眠っているような少女の首に当てた。あの文字が掘り込まれた部分に。

 嫌な予感がする。ヘルメットを抱えた腕にぐっと力が入る。一体、何が。

 眠っていた少女の首の文字がゆらめいたように感じ、やがて少女の長いまつ毛がゆっくりと上がっていった。黒々とした一対の目が焦点を結ぶ。……何故だか全身に鳥肌が走った。

「おはよう、DC-107」

 青年が一歩前に進み出た。

「おはようございます、上官」

 少女はすくっと立ち上がり、青年と神崎を見つめた。いや、目で捉えたとでも言ったほうがいいか。その手や足の動き。人形のような球体関節という訳ではなく、普通の人間の関節に見えるのに……、なんか変だ。

「上官って呼ぶのはやめてくれ。あと敬語も。別に俺は目上の人間ではない」

 すると少女は無表情のまま、

「わかったわ」

 青年はそれでいい、と頷いた。少女が再び口を開く。

「ところでこの場にはあなた様がた以外にも人がいるわ。気づいている? 年齢約十六歳、男性。心拍数九十二。酸素濃度九十六……。状態は極度の緊迫と多少の後ろめたさ」

 えっ──、と声を上げたのは青年ではなく、神崎でもなく、この僕だった。

 やば。

 口を手で覆ったが、もう遅い。発せられた声は消えてしまう前に絡め取られた。

「出てこい。誰がいる」

「排除する?」

 青年の鋭い語気と、少女の笑みが重なった。神崎はただ横であわあわしている。得体の知れない少女が怖かった。口元に微笑を浮かべているのに目だけは無表情なのだ。排除って、殺すってことだよな。それって僕を……。

 ガクガクと震えながら僕はホールドアップして壁の陰から進み出た。壊れそうだ、心臓が。高鳴る鼓動の音が五月蝿い。

「ごめんなさい。わけを説明するので殺さないでください」

「の、野上くん!?」

 神崎が、なんで!? と目を見開いている。……ったく。僕がこんなところに来てしまったのも神崎のせい(?)だっていうのに。

 沈黙に促されて、僕は両手を間抜けに上げた状態のまま話し出した。

「夜バイクで飛ぶのが趣味なのですが、たまたま神崎と会いました。その後も路地に入って飛び回っていたら人の話し声が聞こえて、それが立ち入り禁止ビルだったから気になったんです。入ってみたら、さっき別れたばかりの神崎がいたので驚きました」

 嘘がすらすらと口を滑り出る。神崎に二回もあったのは偶然で、ビルに入ったのは、立ち入り禁止なのに人の声がしたから、なんて。自分も含め、近頃の人間は嘘をつくのが上手いと思う。呼吸をするように自然に嘘を言えてしまう。処世術、とでも言えば聞こえはいいが、褒められたことでないのはわかっている。

 青年はそのきつく顰めていた整った顔を僅かに緩ませた。

「言い訳はいい。まずは名乗れ」

「野上晴といいます。高校一年生です」

「俺はレイという。……ではハル。俺たちは無駄な殺生はしない。そして君が見てしまったことも消せないだろう。全てを忘れることはできないだろう?」

 いきなり名前呼びですか。レイ、と名乗った彼は僕より歳上に見えるけど高校二年生ぐらいだろうか? そして僕をどうするつもりだろう。でもレイの言う通り、きっと僕は今見たものを忘れることはできない。番号を首に掘り込まれたなんだか不思議な感じのする少女。得体の知れないのは少女だけではない。赤い石を使って彼女を目覚めさせた神崎と、あり得ないほど綺麗な顔をした青年のレイ。

 知りたい、と思った。彼らが何なのか、何をしているのか知りたい。

「あなたたちは……」

「仲間、に、ならないか?」

 訊ねようとして中途半端に止まった僕の声に、レイの声が重なった。彼は何故か少しだけ言い淀むような顔をしながら途切れ途切れに言葉を発した。少なくとも僕にはそう見えた。

「レイくん!? いいの!?」

 横で神崎が驚いている。

 ああ、とレイが頷く。さっきまでの表情はどこへやら冷たいまでの無表情に戻っていた。

「人数が多いに越したことはない、そんなふうには言うつもりはないが、三人ぐらいいてもいい。それにカナデとハルは元から知り合いか何かなんだろう? 生半可に話を聞きかじるようなことがあってはならないから、それならハルも巻き込んでしまおうというわけだ」

 神崎とは同じクラスに〈存在している〉というだけで、知り合いとも言えない仲なのだが。それに三人ってどういうこと? 四人じゃないの?

 僕の内心で渦巻く疑問も知らず、神崎は少しだけ納得のいかないような顔をして俯いた。

「……わかった。じゃあよろしくね、ハルくん」

 いきなり呼び方変わったし。「野上くん」から「ハルくん」に。

「じゃあもう二人は帰っていい。カナデ、今日中にハルに俺たちのやっていることをきちんと説明すること。くれぐれも話し忘れのないように」

「うん。……ところで、私たちこれからその子をなんて呼べばいい?」

 神崎が「その子」と言って指したのはあの少女だ。えっ、名前は? 当の少女は当たり前のような顔をしている。

 レイがつと考え込んだ。

「そうだな……。107だから、イオナでいいんじゃないか」

 適当だなぁと神崎は微かに笑った。さて──とこちらを向く。

「帰ろうか、ハルくん」


 神崎が説明してくれた話は、信じられないようなものだった。

「あの女の子……イオナちゃんはね、ロボットなの」

 駅周りの灯りの下、僕は目を剥いた。相変わらずのしとしと雨が降り注いでいた。抱えたヘルメットに映る驚いた顔の自分と目が合って、顔を顰める。

「なんだかすごい難しい政治が関わることなんだけど。今ってほら、〈ニホ〉とかそういう一つ一つの国なんて関係ない、ユナイテッドワールドでしょ? それで〈ニホ〉の文化とか伝統とかも潰されかけて、窒息寸前だし、それに言ってしまえばユナイテッドワールドを仕切る〈US〉の独裁じゃん。だから〈ニホ〉の偉い人たちは、独立をするための武器として最新技術を駆使して殺人機を作ったわけ。まだ作戦が成功する見通しも立ってないから誰も知らないけど、近いうちに〈ニホ〉は立ち上がるんだよ。我が国の権威を守るためにって、ね」

 エッと短く叫ぶ。あまりに驚くべき話だった。

 〈ニホ〉も〈US〉も国、というか今は地域エリアの名前だ。今世界は全て統合され、「全ての国で一つのことに向かっていこう」という風潮が広がっている。〈ニホ〉と呼ばれる僕らの国には昔、〈日本〉という独自の名前があった。だが今は全ての地域の人が発音しやすいように名前を変えられ、もともと使われていた日本語も廃れてきた。学校なんかの公共の場では、僕らは国際語である英語を話す。それに国や地域の境界があやふやになるほどに、人々も出身や人種など関係なく混ざり合ってしまっているというのもある。だから意味はわからなくもないんだけど、なんだかフィクションみたいだ。

「じゃああの女の子は……」

 イオナちゃんね、と訂正するように言ってから神崎は頷いた。「そう。殺人機だよ。人造人間」

 

「なんでそんな国のことなんて知ってるの?」

「レイくんが言ってたの。私は知らなかった。私とレイくんが出逢ったのも、ハルくんみたいにその場の成り行きみたいなものだったから。今日はイオナちゃんを初めて私たちが起動させる日だったの」

 それでね、と話を続ける。

「レイくんはイオナちゃんを人間にしようとしてる。つまりは、殺人兵器としての能力を捨てさせて、……心を持たせようとしてるの」

「そんなこと、できるの?」

 一気に話が飛躍した気がするけど。もはやファンタジーでは。

「わからない。でもレイくんはできるって。これから一緒に過ごして、沢山の経験を一緒にするんだって。要するに思い出づくり、かな? レイくんは工学の天才だから、言うことに間違いはないよ」

 なんだかわからないが、突拍子もないプロジェクトに参加することになってしまったものだ。それにいつあの少女(イオナちゃん?)の本来持っているであろう殺人本能が発動するかどうかもわからないじゃないか。それを神崎に言うと、

「それは大丈夫。今日起動させる前に、結構時間をかけて設定をいじって、殺人本能はほぼゼロにしてある。とりあえずもう人を攻撃したりはしない」

 いや、僕はさっき「排除する?」と言われたけれど。

「ていうか、ごめんね。なんか野上くんのこと巻き込むことになっちゃって」

「それは別にいいよ」

 そういえば呼び方がもとに戻ったね、と指摘する。「さっきは急に名前で呼ばれてびっくりした」

 神崎は苦笑いした。

「それは私たちの決まりなんだよ。仲間は名前で呼ぶもんでしょって」

「レイ、が?」

「そう。だから野上くんもレイくんの前では私のことを名前で呼んでほしい」

 話を聞く限り、あの人は相当に変わっている。無表情で冷酷なように見えて、「ロボットに心を持たせよう」だの「仲間なんだから名前で呼び合おう」だの言っているわけでしょ? もしかしたらイオナ以上によくわからない。

 駅に着いて、立ち止まる。ややあって、

「じゃあまた」

 そう言って背を向けようとしたところで、呼び止められた。「待って」

「……?」

「学校では私に絶対に話しかけないでね。これは野上くんのため。……じゃあ、またね」

 暇な日はあの廃ビルに来てね、とそれだけ神崎は言うとくるりと踵を返して歩き出した。僕もまた首を傾げつつも愛機Speederの方へと向かった。


     ❇︎


 タンタンタンタン……。

 沈黙しじまに閉ざされた薄暗い部屋で、一人の老婆が机を叩いていた。机……? いや、違う。机の上に映し出されたキーボードを叩いているのだ。老婆の前の空中に浮かんで青緑に発光しているかのように見える画面がすごいスピードで進んでいく。

(許さない許さない許さないッ……! あの人が死んだのはみんなあいつらのせいだっていうのに。そうよ、あの人は殺されたのよ。それに起動執行人の役をやらされたあの若い子だって殺されたんじゃない!)

 なのに、なのに。

 老婆はEnterキーを怒りに任せて勢いよく叩きつけた。だが無情にも真っ黒になった画面には大きく赤い字で〈ERROR〉と浮かび上がった。警告ブザーのような不安を掻き立てる効果音が響いた。

(どうして……? だって誰も動かしてないんだから、あれはあそこにあるはずじゃない)

 チッと舌打ちをした。しわくちゃな顔に険悪な笑みが滲んだ。

(遠隔操作ができないというなら、強硬手段に出るのみ……!)


     ❇︎


 あれから二週間が経った。二、三回あの廃ビルに行ったが、レイはいつもそこにいた。この人、毎日来ているのだろうか。いつも白いシャツにネクタイ、スラックス、あと時々ブレザーという制服風の格好だが、どこの学校に通っているんだろう。ちなみにブレザーを着ている日も来ていない日も、例の黒いマフラーはいつも身につけている。アイデンティティだろうか? そしてイオナもまた当然のようにいつだって廃ビルにいた。三人で話したりもしたが、距離感は微妙だ。レイもイオナの扱い方がまだよくわからないようだった。人型殺人機なのだからわからなくて当然か。キリッとして大人っぽく見えるけれど多分同じ高校生なんだし。

 そして神崎も、いたりいなかったりだった。


 ある昼休みのこと。勉強とバイトで忙しい僕は普段、昼休みだけは何も考えず机でボーッとして過ごすのだが、その日はたまたま提出物があったために技術科室に行っていた。その帰り。

「あんたのその優柔不断な感じ、見ててムカつくのよね」

「そうそう。下手に出てヘコヘコしてる感じでさ。何かとえーっとぉって言ってばっかり」

 廊下の途中で何やら集まって話しているらしい女子たちから決して友好的とは思えない言葉が聞こえてきて、僕はどきりとした。だがそこで引き返すのもおかしい気がしてそのまま歩き続ける。どうやら彼女たちは空いている自習室のドア口にいるらしかった。だんだんと近づいている。驚いたことによく知ったクラスメイトたちだ。

 早く通り過ぎてしまおう、さあ、早く。

 はやる気持ちを無視して、足は重かった。

「まじで消えてよ。気持ち悪いんだよッ」

 ひゅっという微かに息を吸い込む呼気の音とともに、何かがガツンと壁かドアに叩きつけられる鈍い音がした。

「──っ!?」

 空き教室の中で壁に打ち付けられて俯いている人物が見えて、僕は息を呑んだ。えっ、そんな、バカな。

 神崎? だよな。

 肩までの黒い髪が顔にかかり、よくは見えないけれど、それでもわかった。震えている唇を噛み締めているのがわかる。

「あれえ、ノガミくん」

 取り巻いている女子たちの一人が、さっきまでとうって変わって微笑みかけてきた。その声を聞いた神崎が顔を上げる。一瞬だけ目が合って、すぐに彼女は目を下げた。困惑と落胆と諦めの色がそこにあった。

「ウチらのことは気にしないで大丈夫だからねーっ」

 神崎はもうこちらを見なかった。僕のことを避けるかのように意固地なほどに下を向いていた。卑怯だって、弱虫だってわかっていながら。わかっていながら、僕は。

 いつの間にか止まっていた足を無理やり動かし、逃げるようにその場を離れた。不自然なほど前のめりになる。僕は汚い。本当に。

 評価され、憶測され、勝手に失望され、判断される。そんな社会だから、当然のようにストレスは堆積し、他者へ刃を剥く。頭じゃわかってる。運が悪く標的にされるのもまた成り行きであり、そういう負の力に対しても生き残らなくてはならない。そんなごちゃ混ぜスクランブルな世界を生きている。でもさ。

 驚いた。僕が仲間になった神崎カナデは、虐められていたんだ。



 駅前ではボーカロイドが美しい声で歌う。空気中のダストに光を当てて移された像は、碧くて長い髪を揺らしながら手を振っていた。そして頭上ではドローンや空飛ぶ車、バイクが飛び回る。

 歌うために生み出されたロボットとか。人や物を送り届けるために生み出されたロボットとか。そして、──人を殺すための兵器として造られたロボットとか。人間も忙しない。

 いつものように周りに人がいないのをなんとなく確認し、立ち入り禁止を訴えかけてくるビニルテープを無視して跨ぎ越えた。多少の罪悪感は未だに感じるけれど、振り切ってしまうことにする。

 ここにくるのは四日ぶりだろうか。今日は放課後にやることが何もなく暇だったのだ。

 階段を降りていくと、階下にいたレイと目があった。

「ああ、今日は仕事バイトなかったのか?」

「うん。優兄さんが今日は用事があって店を閉めるからって」

 彼と話すのもなんとなく慣れた。目上の人扱いするのをレイが拒否したために、呼び捨てかつタメ口だ。もっとも、神崎に〈くん〉付けされているのは許容しているみたいだけれど。そして……。

「ハルが来てくれて嬉しいわ」

 そう言って笑って見せるイオナとも、緊張せずに話せるようになってきた。彼女の正体を知っているのに普通に喋るって結構難しい。そんな僕の狼狽も、全てイオナの頭脳の中で数値化されて気付かれているのかも知れないと思うと、ちょっと怖い。

 「思い出づくり」。そういうだけあって、やること自体はのんびりしている。今のところは適当に他愛のない会話をしているだけだ。話題もその場の成り行きである。前はバイトについて聞かれたから、店のことや優兄さんのことを話した。

 あとはイオナのことももっと詳しく聞いた。作成者はグレンタ・ディーケル氏で、既に逝去していること。そしてその妻、ディーケル夫人は存命で未だにエンジニアとして働いていること。イオナ以外にもたくさんのロボットが造られてきたが、イオナを含めてどれも失敗作であること。それもそうか、と思う。成功したロボットなら、高校生の手に渡ったりするはずはない。さすがに危険すぎる。

 でもレイはなんでそんなことを知っているのだろう。今までに聞いた話だと、レイもまた普通の男子高校生で、生粋のニホの人間だということだった。あと神崎に言わせれば〈工学の天才〉。まあ彼女はレイがイオナの設定(殺人本能だとか)をいじっているのを間近で見たらしいからな。

 と。

 たったったったっ……。頭上から足音が聞こえたかと思うと、それは階段を降りてきた。神崎だろう。ここに入ってくるなんて僕ら以外にはいないんだから。

 自然と僕は身を硬くしていた。当然だ。昼休み、僕は見てしまったのだ。そして神崎もまた僕が見たことに気付いていた。どう接していいかがわからない。虐めのことを慰めるべきか、知らないふりをするのが親切なのか──。

 だがそんな心配はいらなかったようだった。

「あ、みんな。ハルくんも来てたんだね」

 いつもと変わらない笑顔を浮かべて彼女は「やあ」と言った。

「ああ」

「今日は四人揃ったわね」

 レイとイオナも応じる。うん、やっぱり触れずにおこう──。僕は弱くて自分勝手な人間だ、と軽い自己嫌悪に陥りつつ、「僕も今来たばっかりだよ」と応えた。

「ねえ、突然なんだけどさ、みんな夏休みって暇?」

 本人の言葉通り唐突な問いだ。夏休みっていったら、まだまだ随分先の話だ。

「暇な週はあると思うけど」

「俺は基本空いている」

「私もよ」

 よかった、と神崎は微笑んだ。

「えーっと、夏休みに海に行かない? 夜になったら星が見れるぐらい田舎なところに。……ほら、思い出づくりってことだからせっかくだし」

「泊まりってこと? 宿でも取るの?」

 別にバイト代は相当節約して使ってるから宿代ぐらいは払えるけれど。みんながみんなそうとも言い切れない。というかイオナに関してはお金を手に入れる手段を持っていない。

 だが神崎は首を振った。

「そうじゃなくて。うちに寝袋が四つはあったはずだからそれを使って野宿」

「ええっ!?」

 驚愕しているのは僕だけのようで、レイは「別にいいが」と言い、イオナもそれに続いた。べつに僕だってそんなに外で寝るのが嫌なわけじゃないけど、あまりにも無防備なのでは?

 そこまで考えて、気づいた。なんら僕たちには危険がないのだ。だって眠る必要のないロボットがついているわけだから。

「僕もいいよ。じゃあ、夏休みはみんなで海に行こう」




 僕の苦手な夏は、また今年もやってくる。

 だんだんと湿り、苦しいような風を巻き込みながら。

 でも今年の夏はきっと忘れられない夏になる、という確かな予感を抱く。



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