その3

 翌日は雨が降った。

 私が店に向かおうとすると、傘もささずにランニングをしている木下さんとバッタリ会った。


「自転車には雨とか関係ないですから」


 真面目な若者は雨に濡れながら、そう答えた。

 まったく、この若者ときたら。

 私は、心の底から木下さんが自転車として売れる日が来て欲しいと思った。


「僕の強みは、電車にも乗れるところだと思います」


 店長はそれをポップに書いていく。

 確かに普通の自転車とは違い、木下さんは電車にも乗ることができて、持ち運びが便利という自転車にはない魅力がある。

 ただし、電車賃は誰が払うのか?

 店長は『電車にも持ち運び可能!』と書いたポップを木下さんの体に貼り付けた。自分の強みをお客さんにしっかりアピールしようという考えだ。


「ライト!」

「はい!」


 彼に跨った店長が言うと、木下さんはおもむろにジャージのチャックを下ろした。


「きゃっ!」


 と私は目を瞑ると、そこからは男性のお稲荷様ではなく、店内で売られている取り付けるタイプのライトが現れて、木下さんの進路を照らした。これは木下さんの工夫だ。

 そして、鍵としての機能も木下さんは成長していた。

 私は店長から頼まれて、木下さんが両手で握っているタオルを思いっきり引っ張る事に。しかし、どんなに引っ張っても彼はビクともしない。

 店長も協力して二人で木下さんの持つタオルを引っ張るが、木下さんは、「絶対にそこを離れない」と言う精一杯の努力を見せた。

 これだけ引っ張ったら普通の自転車なら、もう盗まれているだろう。しかし、木下さんは違う。耐えて、自分が盗まれないように努めていたのだ。


「助けてえ! 助けてえ!」


 木下さんのあげた大声に、近所の人々がお店の中を覗いた。防犯ブザーの機能もちゃんと備えた。

 だが、これには弱点があった。

 私が引っ張り、彼が耐えていると、店長が後ろから彼の脇をこしょぐった。


「キャ!」


 女の子のような声を出して、木下さんの引っ張る力が弱くなり、私は後ろにすっ転んだ。


「脇は触らないでください。って書いておきますか?」


 木下さんが提案する。バレバレじゃないか。


 店長との特訓によって、木下さんは日々、自転車として成長して行ったのだ。


「売れる自信が出てきたんじゃないですか?」


 私は勤務を終え、駐輪場に帰る木下さんに尋ねた。木下さんは駅前の駐輪場に寝袋で寝ている。


「少し」


 苦笑いしながら木下さんは答えた。この小さい笑顔が私には自信に見えた。


「でも」


 その瞬間、木下さんは寂しい表情に変わった。


「売れてしまったら、店長と別れないといけないんですね」


 私と木下さんの間に無言の隙間ができた。

 木下さんと店長との間には、親子に近い絆が生まれていた。


 翌日、店長は木下さんに値札をもたせた。


「今日からこれをつけなさい」


 そこには三五〇〇円と書かれていた。長年自転車を見てきた店長から与えられた評価、それが木下さんの今の実力だ。


 三五〇〇円。


 この値段なら、自分を自転車だと言い張る純粋な若者を買うお客様もいるかもしれない。

 さすが店長、絶妙の値段設定であった。


「今日から、君は商品だ。お客さんが来たら、他の自転車と一緒に並ぶんだ。いいね」

「はい」


 返事をした木下さんの顔は浮かない表情だ。


「できれば、もっといい値段で売れて、店長に少しでも利益を残したかったです」


 もう、自分が売れた気でいる木下さんは昼休みに私にそう漏らした。

 できの悪い自転車の自分に無償の愛をくれる店長に、少しでもいい値段を残したい。それが木下さんなりの恩返しだったんだろう。

 それは三五〇〇円と言う、お店内でダントツの最安値と言う形で叶わぬ夢となった。しかも、その夢を打ち破ったのは店長自身。

 彼は、改めて自転車の世界の壁の大きさを目の当たりにしたようだ。

 昼過ぎになり、お客さんが店にやって来た。


「高校に入学する息子の通学用の自転車を買いたい」


 親子連れのお客さんだった。

 木下さんは既に店の隅に商品として陳列している。午前中、立っていたら店員と間違えられた失敗を生かし、今回はよつんばの自転車の体制、カゴもライトも装着した状態で店に並んだ。

 やっと青年はスタートラインに立てたのだ。どっからどう見ても、もう人間よりも自転車に近い存在だ。

 高校生になる息子の方がママチャリコーナーを見ている。若い子としてはオシャレなロードバイクかシティサイクルに乗りたいだろうが、親のとしては安くて丈夫な物ですませたい。その落としところを確認しながら歩いている。


「あら?」


 その時、お母さんの視線が木下さんに行った。ついに、来るか。


「あの」


 すかさず、店長がやってくる。


「どうされましたか?」


 私の心臓もドキドキと高鳴る。買うの? お母さん。


「あの、この方は?」


 お母さんは、木下さんを指で指した。

 この方。

 自転車に言う言葉ではない。


「ああ、それは自転車です」

「人間、ですよね」


 警戒しているお母さん。


「いえ、彼は自転車です。三千五百円とお求めやすいお値段をしておりますよ」


 店長は他の自転車と平等に木下さんを扱うが、それが余計に不自然に見えたのか、訝しげに木下さんを見る親子。

 当然だ、普通の人間をいきなり自転車と言われても、お客からしてみれば、逆に迷惑だ。いや、怖い。

 この場合、木下さんではなく、むしろ店長がトバッチリを受けた形で親子から変な目で見られ始めた。


「どうでしょうか?」


 店長は怯むことなく、木下さんを親子に勧める。

 唯一の強みは三千五百円と比較的安いところだが、スピードも遅いし、自転車としてみれば、木下さんを買う物好きはそうそういない。

 自転車にとって、真面目な人間はセールスポイントではないのだ。


「どこの高校に行くの?」


 木下さんは営業スマイルで尋ねる。

 これに店長、苦い顔をする。私も舌打ちしそうになる。自転車が喋んな。


「H高校です」


 子供は弱い声で答えた。


「えぇ! 僕の卒業した高校だよ、そこ!」

「そう、なんですか?」


 子供は苦笑いを浮かべた。


「なら、木下くんに乗っていけば、道に迷うこともありませんよ。通学には最適です」


 ここで、店長もなんとか木下さんを売ろうと救いの手を差し出す。申し訳ないが、はたから見ると詐欺にしか見えない。


「えぇ」


 子供はお母さんの顔を見た。

 お母さんも変な物を見る目で木下さんを見ている。

 当然だ。変な物なんだから。

 しかし、誰が頼んだわけでなく、木下さん自身が変な物の道を選んだのだから文句は言えない。


「先輩にまたがって高校に行くわけにはいかないから」


 結局、子供の方が上手い言い訳を残し、親子は二万円のママチャリを買って帰って行った。


「ありがとうございました!」


 親子が店を出て行くと、木下さんはため息をついた。


「行けると思ったんだけどなぁ」


 確かに、木下さん自身が自分の強みをペラペラと喋っていた。しかも安い。私ですら一瞬、イケると勘違いしてしまったくらいなのだ。あれで売れないなら、よっぽど嫌がられていたんだろうと思うしかない。

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