その2

 それから店長と木下さんの血の滲む努力が始まった。

 昨日まで太陽のように優しかった店長は、その日を境に鬼となったのだ。


「私の自転車人生の全てを彼に叩き込もうと思います」


 店長と自転車、立場が違えど同じ人間。親心が湧いてしまのうはしょうがなかった。これはある意味、店長が己自身に鞭を打つ行為とも言える。


「とりあえず、私を乗せてその辺を走ってください」

「え?」


 いきなりの店長の言葉に木下さんは戸惑った。


「その『え?』ってなんですか? 『え?』って言う自転車を見たことがありますか!」


 いきなり、檄が飛んだ。


「いや、でも」

「自転車が人に反抗するんですか?」

「え、いや」


 戸惑いながら木下さんは、いつも通り跪いて店長をオンブしようとした。


「ちょっと待ってください」


 しかし、店長は乗ろうともせず、木下さんに問いただす。


「あなた、自転車ですよね?」

「はい」

「なのに、なんでハンドルがないんですか?」

「あっ!」


 私はハッとした。

 彼の背中に乗った時の違和感の正体はこれだったのだ。彼に乗っても自転車に乗っているという感じはしなかった。

 まるで誰かにおんぶされているような、そんな感じにしか思えなかったのだ。

 さすが店長、私なんかでは気付かないことにスグに気付いていく!


「ハンドルがないのに、今まで自転車を名乗っていたんですか!」


 これはラーメン屋を名乗る店のメニューにラーメンが一つもないようなモノだ。


「すいません」


 木下さんもこれには打ちのめされた表情で謝った。


「ハンドルは、こうでしょ!」


 そう言って、店長は木下さんの両腕を後ろに引っ張った。


「イタっ」


 と、木下さんは関節技を決められたような大勢になり顔をしかめた。


「自転車が痛いって言うな!」

「すいません」

「さぁ、走ってください」


 木下さんは、顔をしかめながら、立ち上がった。


「なんで、立つんですか? あなたのサドルはどこなんですか?」


 店長の質問に私は再び、ハッとした。

 私が木下さんに乗った時の違和感の正体はこっちだったのかもしれない。彼にオンブをされても、自転車に乗っているという気分にならなかったのだ。まるで人間にオンブをされているような気分で、そもそも座るところがなかったのだ。


「あなたのサドルはどこですか?」

「え、えっと」


 店長からの追求に木下さんは、戸惑っている。


「サドルも決めずに、今まで自転車をやっていたんですか!」


 そう言って、店長はまた怒る。


「自転車が聞いて呆れますよ! そんなんでお客さんに乗ってもらえると思っているんですか?」

「すいません」

「どこですか? サドルはどこなんですか?」

「お、お尻です」

「聞こえません!」

「お尻です!」


 木下さんの声も店内に反響する。サドルはお尻、木下さんの体はまた一つ自転車に近付いた。


「お尻ですね。お尻に座ればいいんですか?」

「はい」


 店長は木下さんのお尻に腰掛けようとした。しかし、木下さんの上半身が起き上がりすぎていて、お尻に座れない。絵画のナポレオンの乗っている白馬くらい上半身を起こしてしまっている木下さん。


「ペダルがお尻なのに、なんで頭がそんなに高い位置にあるんです? これで、どうやってお客さんは座れるんですか!」

「すいません」


 木下さんは顔をしかめながら、上半身を地面に近付け、よつんばに近い体勢になった。自転車は大変である。


「ほら、腕は横に広げるんでしょ! なんで、ハンドルが前に行ったり来たりするんです! 手漕ぎボートですか、あなたは!」

「すいません!」

「自転車は謝らないでしょ!」


 木下さんは店長を乗せたまま、店の外に出たが、思ったようにスピードが出ない。拷問に近い無理な体勢で人を乗せている、走れという方が無理である。


「走れ!」


 しかし、店長に同情などない。自転車に同情してくれる人などほとんどいないのだ。


「自転車がこんなのろのろと移動しますか! これなら歩いた方がマシですよ」


 その激に、私は「よくぞ言ってくれた」と心の中で思ってしまった。

 木下さんは苦悶の表情のまま、前に進んで行く。

 近所のコンビニで店長は木下さんを降りて、買い物をする。

 一緒に店に入ろうとした木下さんは頭を引っ叩かれて、外で待つことに。当たり前だ。


「厳しいですね」


 そう言った木下さんの額には汗の玉がいくつもできていた。


「でも、店長は本気で僕を鍛えてくれてるみたいです」


 コンビニの買い物袋を持った店長が戻ってきた。


「そういえば、鍵は?」

「え?」

「あなた、自転車なのに鍵がないじゃないですか!」


 しかし、これには木下さんも言い返す。


「鍵は乗る人の責任です。鍵がかかってないのは、私の責任ではありません。お店に帰ったら、ちゃんと鍵を購入してつけてください」


 予想外の言い返しに店長は小声で「うん」と納得したように、再び木下さんに乗り込んだ。今のやり取りは何だったのか。店長は間違えたのか?


「あなた、荷物はどうしたらいいでしょう」

「あ、口にくわえますので、貸してください」

「口にくわえたら汚いでしょう」

「でも、カゴはありませんので」

「もしかして、今までもそうしていたんですか?」

「はい! カゴは別売りですので、お店でお求めください」


 またしても木下さんが正しかった!

 これは、木下さんではなく店長の経営方針なので、言い返せない。カゴを別売りで売る姑息な商売をしている店長が悪いのだ。

 これには店長が一本取られた形だ。私もおもわず、クスッと笑ってしまった。木下さんも負けていない。

 その後、三十分かけて、木下さんは店長をお店に運んだ。自転車だったら五分で着かなければいけない距離だ。

 今日という一日だけで、木下さんの自転車として足りない部分が見えた。

 それは全てだ。


「明日もよろしくお願いします」


 木下さんは店長に頭を下げた。店長は店のレジに、鍵と荷物を入れるカゴの値段を入れて、木下さんにつけた。

 カゴは木下さんの顔にお面のように付けられる事となった。しかし、鍵はつけるところが見当たらなかった。


「いいか、死んでも盗まれるなよ!」

「はい!」


 木下さんのいい返事。

 頼まれても、誰も盗みたくない。

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