アマチュア自転車 木下さん

ポテろんぐ

その1

 木下さんがこの街で一つしかない自転車屋の門を叩いたのは高校を卒業してすぐだったという。


「小さい頃から自転車に憧れていて、大きくなったら自転車になりたいと、ずっと思っていました」


 店に入って左の奥、ママチャリや少しオシャレなシティサイクルなどの自転車に並んで、木下さんも売られている。

 入社当日、木下さんはヤル気をアピールするために、全身グレーの光沢がかったタイツを着て店に現れたそうだ。

 店長さんに「この店で売ってください」と頭を下げ、若者の威勢に負けた彼の計らいで、晴れてその自転車屋の店員兼商品になったという。

 だが現実は厳しい。

 木下さんがこの店に来て一年が経つが、未だに買い手がつかない。


「卒業して、すぐに売れるとばかり思っていたんですけど。そう甘くなかったです。普通、一年売れないと店から廃棄されるんですが、店長の計らいでなんとか置いてもらっています」


 今では、お店の手伝いをしながら、木下さんだけはレンタルとして使われ、日々腕を磨いているという。

 店の壁には『木下 一日百円』と書かれた張り紙があった。最初は千円と書いてあったらしく、何度も赤で罰が書かれ、値段が下がっていったのだ。そこまで需要がないのか。

 はたから見た木下さんは、短髪で背の高い真面目そうな青年。

 こんな真面目そうな人がなぜ自転車になってしまったのかと不思議に思うだろう。親がよく許可したな、と私は放任主義すぎる両親にいささか怒りを覚えた。


 そんな木下さんの自転車としての乗り心地はどんなものなのだろうか? 一日レンタルをして確かめてみることにした。


「い、いいんですか?」


 私がお願いすると、不安そうな表情で確認してくる木下さん。おいおい。

 まるで初めてのピアノの発表会でお母さんを探している子供のような表情で店長の顔を見た。


「勉強させてもらいなさい」


 店長が肩を叩いて不安な様子の彼を励ます。


「し、失礼します」


 外に出た私の前に木下さんはオンブをする体制で跪いた。どうやら、おんぶの状態で人を載せるようだ。

 私は彼の背中に乗り、町を一回りしてもらうことにした。


 私が彼に乗って十分が経って、欠点はすぐに分かった。

 正直、遅い。

 歩いた方が速かったと、本当のレンタル目的のお客さんならこの辺で気付くだろう。

 しかし、高校時代、陸上の一万メートルで全国大会に出たこともあるというだけあって、スタミナは大したものだ。人間にしては。私を背中に乗せて一時間が経っても、息は切れているがスピードは落ちない。もともと落ちるほど出ていないが。

 乗っていると、彼を自転車として評価するときと、人間として評価しているときとマチマチな自分がいることに気付いた。

 これでは自転車失格だろう。自転車としてのみ評価されなくては。


「ベルを鳴らしたい場合はどうすればいいんですか?」


 わたしが尋ねると、彼は息を切らしながら


「あ、頭を、た、叩いてください」


 試しに、目の前を歩いていた歩行者がいたので、木下さんの頭を叩くと、

「イテッ!」

 と、反応するだけでベルは鳴らなかった。人の頭を叩いた私にだけ罪悪感が残り、通り過ぎたお爺ちゃんに鋭い目で睨まれた。全部、私が不都合をかぶっているような気がする。


「ベルじゃないんですか?」

「あ、すいません。ちょっと、久しぶりで」


 彼はそう言って苦笑いをした。自転車に苦笑いされるのは困ったものである。

 そして半日くらいかけて、木下さんは街を一周して自転車屋に戻った。

 私を下ろした瞬間に地面にへたり込み、店から出てきた店長が酸素の缶を彼の口にあてた。


「パンクしちゃいけませんから」


 と、店長なりのジョークが飛び、私は愛想笑いをした。なんて、気を使う自転車なんだろう。

 途中何度も「下ろして」と言おうと思ったか。最後の方は姥捨山に捨てられにいくお婆ちゃんのような心境でしがみ付いていた。


 丸一日、木下さんに乗ってみたが、とても良い乗り心地とは言えない。唯一自転車より優っているとしたら、雨でも錆びないことぐらいだろうか。


「どうでしょうか?」


 木下さんが自信なさげに尋ねて来た。今度は私が店長の顔を伺う羽目になった。

 振り返ると店長は「言ってやってください」という真剣な表情をしていたので、私は思ったことを率直にいうことにした。


「まず、遅い」


 彼は、それを真剣にメモしていく。やる気もある、根性もある、しかし自転車として何かが完全に欠けている。


「本日はありがとうございました」


 そう言って、彼は私を店の前にまで見送ってくれた。本当に気持ちのいい青年である。なんで、自転車になろうと思ったのか。こんな真面目な青年の躾を間違える親がこの世にいると言うのが凄いことだ。

 確かにいい人だ。

 いい人ではあるが、いい人だけでは自転車としてはやっていけない。

 自転車はそんなに甘くないのだ。


 後日、私は店長に話を聞くことにした。


「いい子です」


 真っ先に店長の口から出たのは、その一言だった。全く自転車として見ていないじゃないか。ある意味、一番非情な言葉だ。


「でも、自転車としては三流です。私も長年、自転車屋をやって来ましたが、あんな無能な自転車は見たことがありません」


 あまりも直接的な言葉に、私は何故だか満足してしまった。


「なぜ、正直に言ってあげないんですか?」


 店長は考え込んだ。


「自転車というのは、長くて十年乗れればいい方です。でも、彼が自転車になれたとしたら、彼はこれから四十年以上も自転車として人々の足になれるんです」


 店長の口から出た言葉は、私らの立場では考えもしなかった事であった。言われて見れば、確かにそうだ。


「彼には自転車として、そういう強みがあります」

「彼が売れるかもしれないという事ですか?」

「そうではありません。彼も世の中に貢献できると言うことです」


 店長の言葉に、長年自転車に携わってきた人の考え方が見えた気がした。彼のことも、お客様のことも考えている、懐の深い言葉だ。


「彼は、売れますかね?」


 私の問いに店長は考え込んだ。


「売れてほしいねぇ、できれば。売るとしたら八千五百円くらいかなぁ」


 私はその言葉にジーンを熱いものがこみ上げて来た。店長は、木下さんが売れる日を心待ちにして、ちゃんと値段まで考えていたのだ。

 それにしても、八千五百円は少し安すぎるが、木下さんが一日も早く売れてほしいという、店長からの願いなのだろう。


「この前、厳しい言葉を言っていただいてありがとうございました」


 店長は私に頭を下げた。


「あれで、目が覚めたみたいです。私達は彼にキツいことを言ってあげられなくて。本当に顔つきが変わりました」


 優しい店長だ。木下さんを息子のように思っているのだろう。


「私も、覚悟を決めました。彼が錆び始める前に、売ってあげたいです」

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