第35話

 先生と顔を合わすのは、かなり久しぶりだった。高校の頃の担任の先生。あの人がいなければ、確実に今の俺にはなってない。俺は、たいしたことのない人間だけど、俺の考えかたの一部に先生は浸透してる。

 ハッキリ言って差し障りない、特別じゃない、当たり前みたいなもので、他の誰かが言われてもなんとも思わないのかもしれない、けれど、あの時の俺に必要な言葉で、誰かにとっての当たり前を、わざわざ教えてくれたあの人に、俺はずっと感謝するだろう。

 記憶の糸をたぐっていくと、あの頃はほんとうにクソガキで、今もクソガキだけれども、もっとクソガキだ。なんにもせずに、なにも知らない、なにも知ろうとせず、それでいてなんでもできるような氣になっていて、今の俺の目の前にあの頃の俺がいたら説教をするような、なんにも今と変わらないけれど、全然違う、今振り返ると全く別の人間で、一年単位なら正直いって変わらないのかもしれないけれど、それが積み重なると、もう前の自分には戻れない、成長してるみたいには思えないけれど、成長しているんだと、ちょっとだけ思ってもいいのかな。

「畑野、もっとちゃんとしろ」

 ただ、先生にこの言葉を言われただけだった。

 ただ、それを面と向かって、真っ直ぐに言われたら、心の底に染みこんだ。

 なんてことない言葉。

 なんだけど、心臓に杭が打ち込まれて、もっと大人になろうと思うようになっていた。

 先生の言葉が心の楔となっている。

 その後も、沢山楔がうちこまれることになるのだけれど、俺の構成要素の一つ。

 今もちゃんとはしていない。

 そもそも、今いわれないといけないのかもしれない。

 あの日に言われ、歯車が組み替えられて、少しだけ人間がまともになった。

 きっと、あの時までそんなこと言ってくれる人、いなかったから。

 親にはほっとかれて育った。

 まともに関わってくれる大人は、あまりいなかったんじゃないのかな、そう思う。

 自分に向き合ってくれる人って人生でどれくらいいるんだろ。

 沢山いる人は、羨ましい。

 インターホンを鳴らし、しばらく待っていると、白いドアが開かれた。

「お久しぶりです」

「おお! 畑野、久しぶり」

 先生は相変わらずのはじけるような笑顔で俺を迎えた。今は実家に住んでいるそうだ。

「ありがとうね、来てくれて」

「いえ」

「あがって、あがって」

「お邪魔します」

 入ってすぐの大きな窓が印象的で、金木犀の匂いが鼻をくすぐった。

 客間に入り、碧のソファーの上にあるクリーム色のクッションに背を落ち着ける。

 花のつぼみの照明が上の方から下がってる。

「珈琲でいいかな」

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