第36話

「はい、いただきます」

 先生は冷蔵庫から黒い液体の入ったピッチャーをとりだして、ガラスのコップ二つに注ぐ。目の前の丸い形のローテーブルにそれは置かれた。氷は入ってなかった。

 一口飲むと、めんつゆだった。

「先生!」

 先生はニヤリッとしてピースサインを向けてきた。

「大成功」

 先生の悪い癖。相変わらずだと思った。

 あらためて珈琲が注がれる。

「今はなにしているの?」

「今はなんも」

 俺は苦笑いを浮かべ、

「そっかあ」

 先生は笑い顔で応えた。

「この間、仕事辞めてニートですよ」

「大丈夫なの?」

「なんとか」

「お前がいいならいいけどさあ」

 先生は優しい顔のままだった。

「先生、見ただけだと元氣そうですけど……」

「あは、親にも言われるんだよね、脳だしさなにがあるかわかんないし手術受けるんだけど、かなり難しいって言われててさあ、成功しても障害とか残ったりする場合とかあるみたいで、それでまあ、死ぬのかなあとか考えてて、色々ね、それで、ああ、畑野と話したいなあって思たんだよねえ、不思議なことに」

「そう言ってもらえると嬉しいですね」

「だってさ、心配なんだよね、お前って」

「ひっどいなあ」

「しっかりしてるようで、してないしさ、考えているようで考えてないじゃんお前」

「間違いないですね」

 なんか可笑しくて二人で笑いあう。

「こんな風に話すのも最後かもね」

「そんなんなったら俺、泣きますよ」

「嬉しいこと言ってくれるじゃん」

 先生とその後もたわいない話をしてた。


 俺がもし死んだとしたら泣く人は、どれくらいいるのだろうとふと思う。

 自分のために涙を流す人がいるって嬉しいよ。

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