第37話 懐かしい顔
横須賀を出港した多景は、軍令部の書類を持って呉へと向かった。
新戦隊を編成するに当たり、呉工廠で修理中の駆逐艦二隻を受領して速やかにスマトラのリンガ島へ回航せよという命令が出ていた。
未だ次期作戦の詳細は決定していなかったが、日本国内では石油が枯渇している。海上の輸送路はアメリカに遮断されているが、これを強行突破して石油のあるリンガへ行き、戦隊行動の訓練を開始せよ、というのが軍令部の意向だ。
呉に着いた隆は、駆逐艦薄雪を受領すると共に南方ビルマに向けた補給物資の荷積みの指示を出した。リンガ島へ行くついでに、南方に向けた物資と陸軍兵を載せて行くことも軍令部の命令に含まれている。
無論の事、敵中突破で征くわけだから便乗する陸軍兵にとっても命懸けの船旅だ。
乗船する陸軍兵には若年の者が目立った。多くが二十歳になったかどうかで、中には十五、六歳と思しき若者の姿もあった。
恐らく初めて戦地に送られるのだろう。年上の小隊長の指示できびきびと動いているが、その顔は一様に紅潮し、緊張の為か背筋がピンと伸びている。
その姿を見ていると、隆の心は重くなった。
彼らは戦地の現実を知らない。講談で聞く戦争と違い、現実の戦場は暗く、醜く、辛いことの方が圧倒的に多い。できればそんな現実など一生知らないほうがいいのだ。
そんな思いを抱きながら陸軍兵の行列を見ていると、工廠の技官から声をかけられた。
「秋川艦長」
艦長という響きに慣れない為か、自分が呼ばれているのだと認識するのに一瞬の時間を要した。
振り向くと技官が駆逐艦の修理箇所を示した書類を手に持っている。
「何か」
「薄雪の修理明細です。おおよその修理は完了していますが、水密隔壁の一部が破損したままになっております。ここと、ここの隔壁です。
ここに魚雷を受けると、復元が難しくなるので注意してください」
「分かった。ありがとう」
軍艦を沈めるために有効なのは魚雷によって船体に穴を空けることだが、軍艦の方もそれに対する対策は立ててあった。
水密隔壁とは、わざと浸水しても良い区画を船底部に作り、魚雷などで浸水した場合にはその隔壁の中へ海水を注水して転覆を防ぐ仕組みのことだ。
例えば、船体の右側に魚雷を受けたとする。ほおっておけば船体は右に傾いて最悪の場合は転覆するが、船体の左側に注水して左右両方が同じくらいに浸水している状態ならば、とりあえず沈没はしない。
船速は落ちるものの航行は可能だし、傷の状態によっては引き続き戦闘に参加することも可能だ。
こうした『船体の復元』については多くが副長の役目として統率しており、軍令部から落下傘で降りて来たような艦長でもない限り、こうした注意を聞けば戦闘でどう振舞うべきかの予測がつく。
右側に脆弱な部分があるのならば、敵艦に対して右腹を晒さないように立ち回るといった工夫をする。
もちろん、現場たたき上げの将校である隆はそうした技官の注意事項が何を意味するのかを充分に理解していた。
「無事の帰還を、お祈りしております」
技官はそう言って敬礼したが、隆はその言葉に違和感を覚えた。
軍属ならば、通常は軍人に対して『無事』を祈ったりはしない。ほとんどの技官は『武運』を祈るか、あるいは『皇国の為に働くこと』を祈るものだ。
隆は書類から技官の顔へと視線を移した。
特徴的な団子鼻には見覚えがあるような気はするが、どこで見たのかが思い出せない。
隆が必死に記憶の底を漁っていると、不意に技官がぷっと噴き出した。
何故笑われているのか分からず、隆は鳩が豆鉄砲を食らったような顔になる。
「失礼しました。秋川中佐と直接の面識はありませんが、自分は以前から中佐を存じ上げております」
「以前から……?」
「はい。自分は吉田広明と申します。千佳ちゃん――いえ、中佐の奥様とは同郷の幼馴染です」
そう言われて隆も思い出した。
いつも自宅に戻った時、堅田駅で働いてた駅員だ。
「いや、これは失礼をした。今は呉で働いておられたのですね」
「鉄道が軍に接収され、駅員の仕事も無くなりましたから。私は鉄道整備もしておったので機械も多少はいじれました。ですので、こうして船の修理の為に召集されたというわけです」
「そうでしたか。貴重な戦力を維持して頂き、感謝致します」
日本には資源が乏しい。
その為、ミッドウェー敗戦後の日本海軍は戦力の損耗を避けようとする傾向が強くなった。特に艦艇は一隻で多くの鉄や非鉄金属を使う。その為、艦艇をできるだけ沈めないように振舞うのは海軍の常識となりつつある。
そうした負傷艦艇を修理し、戦線に復帰させてくれるのは、こうした工廠技師の働きあってのものだ。
だが、そんな隆の謝辞にも広明の顔は少し曇った。
「もはや、修理して使いまわすのも限界かもしれません。今回だって、本当は隔壁も全て直してお渡ししたかった。ですが、残った資材では修理しきれないのが現実です」
「……」
広明の表情からは、その悔しさが痛いほどに伝わった。
元来が職人気質な男なのだろう。引き渡すのならば完璧な状態に仕上げたい。だが、資材不足という現実がそれを許さない。
その事実に悔しさを滲ませているのだ。
正確に言えば、日本は資源を持っていないわけではない。
南方には未だ日本の占領下にある場所も多く、そうした場所には石油もあれば鉄もある。だが、南方には日本本土の工廠ほど大規模な工場が無く、鉄鉱石を溶かす製鉄所も無い。資源はあっても設備がないのだ。
そして、南方から本土に資源を運ぶ道は、アメリカによって閉ざされている。
アメリカ潜水艦による輸送路の封鎖は、特に足の遅い輸送船にとって脅威となっている。戦闘用の駆逐艦に南方行の物資や兵を輸送する命令が下るのも、輸送船では危なくて送れないからだ。
「……この戦争は、いつ終わるのでしょうか」
随分と思い切ったことを言う。と、隆は思った。
恐らく内心では誰もが同じことを考えている。前線に近いところに居る者ほど、日本の現状が透けて見えるのは当然だ。
現に広明は修理を担う技師として、日本の資源不足に直面している。
だが、それを口に出して言うことは憚られた。
誰が聞いているか分からないし、仮に密告されれば憲兵に捕まって拷問を受けるはめになる。だからこそ、誰も彼もが内心では思いつつも口を噤む。
「間もなく、終わるでしょう。日本が負けを認めれば、そこで終わります」
隆の方も随分と突っ込んだ言葉を吐いた。
こんな話は部下には聞かせられない。広明が直接関りの無い軍属であり、千佳の幼馴染であるということで少し口が軽くなったのかもしれない。
だが、こうした考えは前線で戦う将兵にこそ支配的だった。
大本営は毎度威勢のいいことを言うが、日本に勝ち目がないのは現場に居れば馬鹿でも分かる。
昨日まで励まし合った友が明日には敵の爆撃で戦死するのが戦場だ。その中に身を置いていれば、どんな形であれ一刻も早く戦争が終わってほしいと願うのはむしろ自然な感情なのだろう。
その時、副長が近寄って来て積み荷と人員の乗り組みが完了したことを伝えた。
隆は広明に別れを告げ、リンガ泊地へ向けて出港した。
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