第36話 終わりの始まり
ガダルカナル撤退から一年後の昭和十九年二月。
隆は蒲生と共に霞が関の海軍省を出て、横須賀に向かう車に乗った。
車窓から今しがた出て来た建物を振り返ると、何故ともなく涙が出そうになる。
赤いレンガを基調とした本省の建物は明治以来の日本を象徴するようなある種の明るさを残していたが、悪化の一途を辿る戦況の中ではその明るさが一種の残酷さにも感じられた。
ミッドウェー海戦に始まった日本軍の劣勢はガダルカナル島の撤退により決定的となり、南太平洋での最重要拠点であったラバウル航空基地も一月前に撤退を開始した。
もはや、日本の敗北は誰の目にも明らかとなっていた。
多景の艦体も相次ぐ海戦でかなりの傷を負っており、それらの修理と対空銃座の増設の為に一旦日本へと帰投していた。
「万策尽きた……か」
隣に座る蒲生がポツリと呟く。その顔は深刻さを通り越して悲愴感さえも漂っていた。
軍令部総長として日米開戦を主導した永野修身は、この二月にその地位を追われていた。昨年の四月には連合艦隊司令長官の山本五十六もブーゲンビル島で戦死しており、百武源吾を含めて蒲生が頼りとしていた避戦派の重鎮はことごとく居なくなった。
「永野大将が更迭されるとは、正直意外でした」
「永野さん自身、早期に講和できなかった責任を感じておられたのだろう」
「……」
隆も先ほどまで会っていた永野修身の辛そうな顔を思い出した。
『どうやら、年を取り過ぎたようだ』
最後にそう呟いた永野は、今にも自決するのではないかと思わせるような顔をしていた。
「しかし、これでワシのやることは決まったな」
突然顔を上げた蒲生は、先ほどまでの悲愴感を忘れたようにどこか明るい顔をしている。
隆はその明るさの裏を察した。
蒲生はこの戦争で死ぬつもりなのだ。それが、最後には開戦に賛成してしまった蒲生なりのケジメの付け方なのだろう。
しかし、隆はその決断を支持することは出来なかった。
「自分は反対です。蒲生さんは生きねばならない人です」
「ふふっ。中々厳しいことを言う……」
「永野さんに対しては、そう仰られたではありませんか」
隆の言う通り、蒲生は永野に『死んで楽になろうなどと許されない。この戦争を始めたあなたにはこの戦争の終わりを見届ける義務がある』と言い放った。
その義務は蒲生にもある、と隆は思った。
「何より、我ら軍人が死んで、一体誰が国民を守るというのですか」
「絶対国防圏か。秋川はまだ日本が海の外で戦えると思っているのか?」
「それは……」
そう言われると隆も絶句するしかない。
昨年の九月に陸軍の強い要望で定められた『絶対国防圏構想』では、完全に劣勢となったソロモン諸島を放棄して前線をマリアナ諸島の線まで後退させ、残った戦力を集中して反攻することとしていた。
だが、本当に不足しているのは航空戦力であり、ソロモン諸島で失った夥しい航空機とパイロットの補充に苦戦している日本にとって、絶対国防圏などは絵に描いた餅でしかなかった。
一方のアメリカはソロモン諸島で失った空母機動部隊を既に再建していた。しかも、アメリカが新たに配備した艦載戦闘機のグラマンF6Fは日本の零戦をも上回る性能を実現しており、今や戦闘機の質・量ともにアメリカが日本を圧倒している。
もはや彼我の戦力差は逆転不可能な状況だ。
「マリアナ沖でも散々に負けた。もはや海軍にはまともな戦力は残っていない。
本当に国民を守るのなら、今ここでアメリカに降伏すべきだ」
蒲生は、先ほどまで永野に迫っていた話をここでも繰り返した。
二か月前には絶対国防圏であるサイパン島も陥落し、日本本土への空爆が可能となった。サイパン島を巡る戦いの中では海軍もマリアナ沖で戦ったが、完敗と言わざるを得ない結果に終わった。
既に日本の負けは誰の目に明らかであり、負けたのならば一刻も早く降伏すべきだと蒲生は主張している。『陛下の御前でそれを言えるのは、永野さんだけだ』と蒲生は言った。『今更国民に頭を下げられないのならば、前線指揮官が揃って不明を詫び、国民の前で腹を切って見せましょう』とまで言っていた。
だが、それでも永野は首を縦に振らなかった。
もはや永野自身にもこの戦争を終わらせる手立てが無いのかもしれない。
「それでも、何としても、本土への攻撃だけは防がねばなりません」
本土には家族が住んでいる。隆にとって、今やこの戦争は家族を守るための戦いへと変化していた。もっとも、それは隆一人の考えではない。
絶対国防圏の策定は、アメリカが日本本土を直接攻撃できない地点を元に策定された。言い換えるならば、軍が絶対国防圏で踏ん張っている限りは国民の身の安全は保たれる。
とはいえ、サイパン島が陥落した今ではその絶対国防圏も骨抜きになったと言っていい。サイパンからは、日本本土への空爆が可能だ。
「……そうだな」
蒲生も渋々ながら隆の言葉に同意した。
海軍では、そのサイパン島の奪回作戦が計画されている。蒲生は少将に昇進し、多景を旗艦として新たに編成される第十二戦隊の司令官を任されることが決まっていた。なお、隆も中佐に昇進し、駆逐艦『薄雪』の艦長として引き続き蒲生の指揮下に入ることが決まっている。
蒲生が終戦工作の為に海軍の上層部と会っていることは軍令部にも把握されている。うるさいことを言う奴は前線に出しておけということだろう。これほど目出度くもない昇進も珍しいと、隆も内心で苦笑せずにはいられなかった。
「何故、こうなってしまったのだろうなぁ」
まるで肺の底から吐き出したような蒲生の言葉には、強い後悔と自責の念を感じた。
こんなはずではなかった。
蒲生は心からそう思っているのだろう。満州事変の後、日米開戦を何とか避けようと奔走していた蒲生の姿が思い出される。
「避けられない戦争であったと思います。誰が悪かったと言っても始まりません」
「確かにワシも開戦する時にはそう思った。このままでは内乱が起こり、一戦もせぬままに日本が負ける、とな。どのみち避けられぬのなら、軍が一致して動ける間に戦うべきだと思った」
「その甲斐あって、最初は勝ちました」
「そうだ。やはりそれが悪かったのだろうなぁ。
最初は勝ってしまった。国民も軍も、その勝ちを忘れられなかった。下手な博打打ちと一緒だ。
勝ちの味を忘れられず、負ければ負けるほど取り戻そうと躍起になって次々に賭けた
隆の頭にも次々に落とされていく航空機や沈んでいく軍艦が思い起こされた。ソロモンで、ブーゲンビルで、マリアナで、次々に日本は貴重な戦力と人命を失った。
蒲生の言う通り、最初に勝たなければここまで損失を重ねることも無かったのだろうか。
「日本は一度、
「政府も軍も国民も、それほど愚かではないはずです。我々が海の外で踏ん張っている間に戦争が終わる。そう信じましょう」
「……そうだな」
それきり蒲生は口を閉ざしたため、隆は窓の外に視線を移した。
車窓からはボロボロの衣服を着て遊び回る子供の姿が見える。
清と同じ年頃だろうか。
そんなことをぼんやりと考えていた。
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