第7話 私の話も聞いて下さい
随分長い時間を過ごしたように感じたが、二人が神社から戻った時には、まだ夕暮れに少し時間があった。
隆は家に戻った後、父と共にスイカ畑に行き、夕方の水やりに精を出している。千佳の方はといえば、洗いたての隆の軍服に火熨斗を当てていた。
朝のうちに千佳が洗濯した軍服は、昨日の汚れもすっかり落ち、火熨斗で皺を伸ばすとピシッとした折り目も付いた。
「よし。出来た」
千佳にとってこうした家事はお手の物だったが、今は夫の仕事着を整えているのだと思うと感慨もひとしおだった。
――出会ってまだ一日なのに……
今では当然のように隆を夫と認識している自分が少し可笑しかった。だが、隆が身の上を打ち明けてくれたことで、千佳は隆がぐっと自分に近寄ってきてくれたようにも感じた。
今度は千佳の方から隆に歩み寄りたい。自分のことをもっと知ってほしい。そして、隆のことももっと知りたい。そう思いはするが、どうすればいいのか皆目見当もつかない。
――そうだ
千佳が閃いた時、ちょうど父と隆が水やりを終えて帰って来た。
「お帰りなさい」
「ただいま」
昨日よりも自然に隆と言葉を交わすことができた。勢いに任せて、千佳は隆にもう一つ声をかけた。
「あの、隆さん」
「はい」
「良かったら、ホタル……見に行きませんか?」
昨日隆はホタルを見て喜んでいた。千佳はそのことを思い出し、もう一度ホタルを一緒に見たいと思った。それに薄暗い川原ならば気負わずに自分の気持ちを伝えることができるような気がした。
「ええ。喜んで」
村はずれの川べりには、既にいくつかの光が浮かんでいた。周囲には一面の田んぼがあり、その外には獣避けの罠が仕掛けてあるので、この辺りまでは山の獣も降りてこない。そのため、近所の子供達も安心してホタルを捕まえに来ていた。
川べりの原っぱでは、子供達の虫取り網の動きに合わせて光が揺れながら浮かんだり消えたりしている。一人の子が網を一振りすると、網の中に二つの光が入り込んだ。そうしてはしゃぐ子供達の姿を見守りながら、野良仕事を終えたばかりのおじさん達があぜ道で一服している。
千佳と隆は、それらから少し距離を置いて橋の上に並んで立っていた。
「ホタル……お好きなんですね」
「はい。昔、母がまだ生きていた頃、時々こうして一緒にホタルを見に行きました。ホタルを見たのはそれ以来です。
江田島や佐世保では訓練に必死で、こうしてゆっくりホタルを眺める機会もありませんでしたし……」
隆が橋の
暗さが増してくるにつれてホタルの光は数を増し、今では川面に光の渦を作り出すほどになっている。無作為に動く光を川の流れが反射させ、ある種の幻想的な光景を作り出していた。
不意に千佳が視線を落とし、ゆっくりとした口調で話し始める。しかし、その口調にはどこか必死さがにじんでいた。
「実は、私には五歳上の姉が居たんです」
何の脈絡もない話に、隆が少し驚いた顔で千佳を見る。それほどに千佳の話は唐突だった。
「昼間に隆さんのお話を聞き、正直驚きました。でも、隆さんも勇気を振り絞って話して下さったんだと思います。なので、今度は私の話を聞いてもらおうと思って」
「……伺います」
隆の方はそう言うと、欄干から手を離して背筋を伸ばした。気楽に聞いてもらうためにわざわざここまで来たのだが、隆は千佳の話を正面から聞こうとしている。その生真面目さがいかにも隆らしくもあり、千佳は内心で可笑しかった。
「ご承知の通り、父には男子が居ません。子供は私と姉の二人でした。父は『いずれ姉が婿を取り、秋川家を継ぐのだ』と常々言っていました。その父の言葉が知らず知らずのうちに重圧になっていたのだと思います。
……四年前、姉は仕事先で知り合った男性と駆け落ちしてしまいました」
話ながら、千佳は口の中がカラカラになった。緊張で思わず目の前がチカチカする。だが、自分のことを隆に知ってもらいたいという思いに背中を押されて話を続けた。
「父は知りませんでしたが、姉はずっとこの村を出たがっていました。姉が駆け落ちしたと聞いた時、私は驚きましたが、同時に何となく納得しました。
ああ、そうだろうなぁって……。
でも、こうも思いました。
次は私の番なんだって……。」
そこまで言って、千佳はゴクリと唾を飲み込んだ。
この先の事は、まだ誰にも話したことは無い。父にも、母にも。
だが、『隠していて良い』ことではないと思った。
「姉が駆け落ちしたことに父は怒りましたが、今更どうしようもありませんでした。その代わりに『千佳に悪い虫が付かないように』というのが父の口癖になりました。
そして、私が尋常小学校を卒業すると、進学も就職も認めずに家に留め置くようになりました。『お前は家の手伝いだけしていればいい』と言って……」
戦前の教育制度では、現代の小学校に当たる尋常小学校を卒業すると、多くの者は旧制中等教育に進んだ。いわゆる旧制中学や高等女学校などだ。義務教育は尋常小学校までであり、旧制中学や高等女学校への進学は任意だったが、時代が大正から昭和となったこの頃では、ほとんどの者が中等教育に進学する。家が貧しくて進学できない者は、小学校卒業後に就職する。千佳のように小学校を卒業してから就職もせずに家で過ごす者は珍しい部類に入った。
「でも、その父の思いが私には重たかった。私がもどろきさんによくお詣りに行っていたのは、お姉ちゃんに帰って来て欲しかったからなんです。
……お姉ちゃんさえ帰って来れば、私も女学校に行って友達と遊んだり、おしゃれな服を着て町を歩いたりできるかもしれない。もしかしたら、素敵な男性とお付き合いしたりもできるかもしれない、なんて……。
卑怯ですよね。
お姉ちゃんが苦しんでいるのを見て見ぬふりしていたくせに、いざ自分の番になると、姉を身代わりにしてほしいと神様にお願いしていたんですから」
途中から千佳の話す声が震え始める。自分の中の目を背けたい本性をさらけ出すことが、こんなにも苦しい物だと初めて知った。昼間の隆が必死の形相をしていたことも心から理解できた。
「だから、昨日隆さんと最初に出会った時には『とうとうその時が来たんだ』って思いました。私の人生はこれで決まってしまったんだって。
私は隆さんが怖かったのでは無く、これで自分の一生が決まってしまったと思うことが怖かったんです。
……ごめんなさい。隆さんには、何の関係もない事なのに」
千佳はそう言って詫びたが、隆は一言も発さなかった。
二人の間にしばし無言の時間が流れる。だが、その沈黙が重苦しいとは千佳は感じなかった。自分の心の底にあった物をさらけ出したことで、いっそ清々しい思いすらもあった。
「あの……」
隆がためらいがちに口を開くと、千佳が隣に立つ隆を見上げた。既に辺りは暗く、目鼻立ちもはっきりとは見えなかったが、隆が何やら言いにくそうにしているのだけは分かった。
「何ですか?」
「自分が来てしまって、ご迷惑だったでしょうか?」
「そんなことはありませんよ。早く父に孫の顔を見せてあげたいというのも私の本心ですから。それに、来て下さったのが隆さんで良かった。
だって、こんなに素敵な……」
男性と結婚できるなんて、と言おうとして、千佳が慌てて口を噤んだ。自分の気持ちを話すことに抵抗が無くなっていたのか、つい口が滑ってしまった。
隆のことを素敵な男性だと思ってはいるが、それでも面と向かって言葉にするのはまだ恥ずかしい。
やがて隆がほんの少し顔を上げた。ただならぬ気配を感じて知らず知らずに千佳の背筋も伸びる。
「千佳さん」
「は、はい」
「昨夜は……その、すみませんでした。着替えて横になったら、急に眠気が襲って来てしまい」
一瞬時間が止まる。一拍の時間を置いて、千佳の脳裏に昨夜と今朝の醜態が蘇った。
「い、いえいえいえいえ。こ、こちらこそすみません」
はしたない姿をお見せして、と言おうとしたが、後半はゴニョゴニョと口ごもるばかりで言葉にはならなかった。
今更ながらに思い出して千佳の顔が赤くなる。自分の事を知ってほしいとは思ったが、出来ればそんな姿は一生知られたく無かった。
「何分、不慣れな物ですから緊張してしまって」
「不慣れ?」
「その……秘め事と言いますか」
千佳はその言葉に驚いて思わず隆の顔をまじまじと見た。目鼻立ちは判然としなかったが、暗闇の中で隆が顔を赤らめているような気がする。
意外な心持で千佳は隆を見つめた。
「志保さんから聞きました。千佳さんががっかりしていたと」
志保とは坂本の叔母のことだ。元々隆の上官と志保の夫が知り合いであったことが縁で今回の縁談が持ち上がった為、志保叔母は隆と千佳双方を取り持つ役目を持ってはいた。だが、千佳から見れば志保叔母はあまりに悪戯が過ぎる。あるいは叔母は純粋に楽しんでいるだけではないかとさえ思えてくる。
「それは叔母の嘘です。私は別に、そんな……」
「え? でも、昨夜はあんな格好で……」
「そ、それは叔母にからかわれただけで、私は期待なんてしてません」
千佳が強い口調で否定すると、途端に隆がしょげる気配がした。隆からすれば、自分が拒否されていると思ったのかもしれない。千佳はつい強く言い過ぎたと思った。
「いや、その、決して隆さんが嫌とかそういうわけでは無くてですね。私としてはもう少しゆっくりと、時間をかけてもらえれば嬉しいわけでして、今日の今日でいきなりというのはちょっとどうかと言うか、私も心の準備をする時間が欲しいというか」
早口で一息にまくしたてた千佳が、大きく息を吸った。その瞬間、隆がクスクスと笑う声が聞こえた。
「そうですか。良かった」
「や……はい。私も初めてなもので、よろしくお願いします」
千佳がそう言うと、隆がクスリと笑った。つられて千佳もクスリと笑う。やがて二人のクスクスという笑い声が夜の橋の上に響いた。
家までの帰り道、千佳は隆の浴衣の裾をつまんで歩いた。さすがに手を握るのは恥ずかしいが、何とはなしに隆の一部と繋がっていたいと思った。
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