第8話 海軍暮らし


 七日間の半舷上陸も残り二日となり、明日の夕刻までには呉に戻らねばならない。隆は再び黒い軍服に身を包み、本堅田駅の改札口に立っていた。終わってみれば、あっという間の三日間だった。


 見送りに駅まで来た千佳も出来る限りのおめかしをしている。お気に入りの小袖に袖を通して行灯袴を履いた姿は、どこかの女学生と見まがうばかりだ。

 周囲では女性達のひそひそと話す声が耳に入る。この時代の軍人はエリートであり、特に海軍将校は女性の憧れの的だった。どちらかと言えば陸軍はもっさりと垢ぬけない印象があったが、海軍将校は理知的でスマートなエリート集団であり、どんな不細工でも海軍軍服に身を包めばそれなりにモテたほどだ。ましてその軍服に身を包んでいるのがとびっきりの男前と来ては、女性達がチラリチラリと視線を送るのも無理からぬことではあった。


 当然ながら、隆を見た女性達の視線は向かいに立つ千佳にも注がれる。いかにも田舎臭い小娘がそこに立っているのを見ると『なんだ。あれがお相手か』という無言の声が聞こえてきそうだった。

 優越感と劣等感が入り混じり、千佳は思わず顔を赤らめて下を向いてしまった。そんな千佳に隆が言葉を掛けた。


「顔を上げてください」

「え、でも……」

「またしばらく会えなくなります。千佳さんの顔をしっかりと目に焼き付けておきたいのです」


 隆にそこまで言われて千佳もおずおずと顔を上げる。母に施してもらった化粧は似合ってはいたが、日焼けした肌の色は隠しようがなく、お世辞にも美人とは言えない。そんな自分の顔を見られるのが妙に気恥ずかしく、村を出てからここまでまともに隆の顔を見ることが出来なかった。

 千佳の顔を正面から見た隆は、口の端を少しだけ上げて笑って見せてくれた。


「では、行って参ります」

「は、はい。夏にはスイカも獲れます。きっとおいしいスイカになりますから」

「それは楽しみです」


 隆はそう聞くと心底嬉しそうに笑った。村にいるあいだ、隆は新次郎の畑を手伝うことを日課にしていた。スイカなどさして珍しい物でもないが、生まれて初めて自分で世話した農作物には思い入れもあるだろう。


「では」


 最後にそう一言呟くと、隆は踵を返して改札に向かって歩いて行った。


 ――無事のお帰りを


 そう言おうと思っていたのに、最後まで言葉には出来なかった。


 当時の日本は、イギリス・アメリカと並んで世界三大海軍と称されるほど強大な海軍力を有しており、アジアの中では唯一五大国の一角に数えられる『列強』だった。しかし、大正十一年のワシントン海軍軍縮条約並びに昭和五年のロンドン海軍軍縮条約の締結により、日本を含む五大国の艦艇保有数は制限された。


 それを受けて、日本国内は野党政友党やマスコミなどから提起されたいわゆる『統帥権干犯問題』に揺れている真っ最中だった。


 折しも時代は昭和恐慌の最中であり、日本国内には失業者があふれ、その分だけ軍事力によって満州権益を守ろうとする声は高まった。もっとはっきり言えば、不況にあえぐ日本にとって満州の開発は残された最後の希望だった。

 満州を開発し、発展させることこそが日本が生き残る唯一の道と明言する者も居た。その為には、欧米各国の干渉を退けるだけの軍事力が必要だ。


 帝国主義の時代にあっては、軍事力こそが外交力に直結する。武力を背景としない外交は所詮机上の空論に過ぎず、強大な軍事力を有することこそ実の有る外交を行うための唯一の手段であった。


 世の中はそういった不穏さを内包していたが、そんな難しいことは千佳にはわからない。ただただ隆が無事に帰って来て欲しいと純粋に願うのみだ。

 汽車に乗る隆の背中を声も無く見守り、やがて隆を飲み込んだ汽車が出発すると、千佳は何故ともなく胸が締め付けられた。二度と会えないわけでは無い。三か月後にはまた半舷上陸が許可される予定になっていると聞いた。それでも、しばらく会えなくなる寂しさが胸を締め付けた。




 隆は巡洋艦『八雲』の副長室の扉をノックした。「失礼します」と声をかけると、中から「入れ」と声がかかる。言葉通りに扉を開けると、ちょうど艦長代行の蒲生がもう喜八郎きはちろう中佐が書類から目を上げた所だった。隆は机の前まで進み、その場で敬礼の姿勢になる。


「予定通り、あと三十分で上海へ到着致します!」

「ご苦労。陸戦隊には上陸の準備を整えさせておけ」

「ハッ!」

「待て」


 隆が下がろうとした時、蒲生中佐から再び声がかかった。何か追加の指示があるのだろうと思って隆が再び直立の姿勢に戻る。だが、蒲生中佐の口から出たのは意外な言葉だった。


「そう言えば、貴様は少尉に任官して早々に婿入りしたそうだな」

「ハッ! 良きご縁を頂き、身を固めました」


 あくまでも緊張の姿勢を崩さない隆に対し、蒲生中佐は少しだらしなく椅子に掛けている。その顔には薄い笑いが浮かんでおり、まるで気軽な世間話でもするような雰囲気だ。


「勿体無い話だな。農地持ちとは言え、百姓の婿では出世の助けにもならんだろうに」


 蒲生中佐に悪気は無い。この時代では軍人の結婚は政略結婚という側面もあった。

 帝国海軍において、海軍兵学校を卒業した者は一律で少尉候補生となり、その後実地研修として遠洋航海に出航する。いわゆる練習航海としてアメリカやヨーロッパなどに渡航するわけだが、その中で一年ほどかけて航海や艦隊行動の実務を学んでゆくのだ。


 遠洋航海を終えれば全員が少尉に任官され、実戦艦隊に配備される。各階級には少尉二年、中尉三年、大尉六年といった停限年数が設けられており、大尉まではほぼ同期横並びで昇進していく。出世に差がついてくるのは少佐からだが、停限年数を過ぎても昇進できない者は予備役に編入され、現場の第一線からは外される。

 予備役に編入されるということは、すなわち出世競争からの脱落を意味した。


 無論、その先の少佐・中佐・大佐・少将まで停限年数があり、中将まで出世する者は稀であった。中将になれれば艦隊司令長官の資格を得られるし、海軍大臣や軍令部長のポストに就くことも可能だ。

 そうした競争社会において、海軍士官の中で将来有望な者は少将や中将の娘を娶って出世競争に弾みをつけるというのが王道の出世コースになっている。


 またある者は、エリート将校という肩書を武器に土地の名士の家に婿入りし、その地盤を使って選挙に出て代議士になったりもする。


 だが、隆が婿に入った秋川家はそのどちらでも無かった。


 また、それでなくとも海軍将校はモテるのだから、大尉昇進までは独身貴族として女遊びを楽しむ者も少なくない。海軍では『玄人と遊び、素人と結婚しろ』という格言があったが、これは遊ぶ相手は後腐れの無い商売女を選べということだ。それはつまり、そう言って戒めなければならないほど海軍将校が女性にモテる存在だったということの裏返しでもある。

 そういった意味から言っても、少尉任官早々に結婚した隆は変わり種であった。


「お言葉を返すようですが、自分は後悔しておりません」


 隆の言葉に蒲生中佐が低い笑いを漏らす。もっとも、嘲るような調子では無く純粋に面白がっているという雰囲気だ。

 海軍兵学校出の少尉ということは、海軍における出世コースの第一歩を踏み出したということだ。多くの者は将来軍の中枢に座ることを夢見て日々の任務をこなしていく。そんな中で出世に興味を示さない隆のことを蒲生中佐は面白い男だと思ったのだろう。


「まあ、貴様の人生だ。貴様が好きに選べばいい。だが、妻帯しているからと言って特別扱いはせんぞ。皇国の為に身命を捧げる覚悟で任務に臨め。いいな」

「ハッ!」


 隆が改めて敬礼すると、蒲生中佐は「下がってよろしい」と言って再び書類に目を落とした。これから向かう上海は日本を含む列強の共同租界がある。第一次世界大戦以後には日本も次々と上海に進出し、様々な商業権益を確保してきた。それは先人たちの血と汗によって築かれた権益であり、それらの権益を保護することこそが軍人に与えられた至上命題だった。


 軍人が御国の為に働くというのは、日本国の経済的利益を守る為に働くことと同義だった。

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