第6話 自分の話を聞いて下さい
「やはり美しい……」
隆は、昨日と同じ峠の中腹で昨日と同じ景色を見ながら、昨日と同じ言葉を呟いた。もっとも、今日は隆の方も動きやすそうな服装をしている。聞けば江田島の兵学校時代に着ていた水兵服だそうだ。それに加えて足元も歩きやすそうなブーツに履き替えていた。そのせいか、今日は昨日ほどには息が乱れていない。
「ここの景色を気に入っていただけたんですね」
「ええ。ここから見る琵琶湖は本当に美しい。自分は海ばかり見ていましたが、このように湖水の向こうにも山が広がる景色は初めて見ました」
隆の言う通り、琵琶湖の中でも堅田辺りは対岸との距離が近く、湖の向こうに広がる守山の平野部も一望できる。その奥には甲賀の山々がはるかに見えており、他に類を見ない独特な景観を作り出していた。
二人で並んで座り、おやつ代わりの蒸かしたサツマイモを食べた。既に様々な醜態を晒してしまったからか、今では隆のことを怖いとは思わなくなっている。千佳はごく自然に隆に話しかけた。
「あの……隆さんの故郷はどんな所なんですか?」
「私の?」
「はい。昨日もどろきさんのお話をした時に『うらやましい』と仰っていたので、もしかしたら隆さんも故郷が懐かしいのかなぁと思って」
千佳の何気ない質問に対し、隆は無言で口元をきゅっと引き結んだ。千佳は何か変な事を聞いてしまったのだろうかと慌てて話を繋いだ。
「あ、いや、別に何か深い意味があるわけでは無いんです。あまり言いたくないことなら……」
「いや、隠していて良いことでもありません。少し、私の話をさせてください」
「は、はい……」
ほんの軽口のつもりだったのが、先ほどまでとは打って変わって真剣な顔になった隆に胸が騒いだ。何かとんでもないことを聞いてしまったのだろうかと不安になる。
よほどに言いにくかったのか、隆の方も覚悟を決めた顔でポツリポツリと話し始めた。
「実は、私には故郷と呼べる物はありません。実家は京都にありますが、もはや縁は切れているも同然です。幼い頃は海沿いの家に住んでいましたが、十歳になった頃には京都の実家に引き取られました」
「引き取られた?」
生まれてから今までずっと伊香立村で過ごして来た千佳にとって、実家に引き取られるということの意味がよく分からなかった。実家とは、気が付けばそこにある物だ。
「ええ。私の産みの母は、結婚せずに私を産みました。私は、いわゆる
妾腹と聞いて千佳は衝撃を受けた。知識としてそういう事があると知ってはいたが、まさか目の前の人がそうであるとは夢にも思わなかった。
「母が亡くなったことで、私は京都の実父の元に引き取られましたが、そこに私の居場所はありませんでした。常に使用人や正妻の目が光り、腹違いの弟や妹と遊ぶことも許されませんでした」
隆の言葉が一旦途切れる。隆は次の言葉を絞り出すように、一つ息を吸って再び口を開いた。
「長兄や次兄は、私を不憫に思い何かと気にかけてくれていました。ですが、商用でロンドンに行った帰りにドイツ海軍の攻撃で船が撃沈され、兄二人はそのまま帰らぬ人となりました。
跡取り息子を一度に二人も亡くしたことで父も気落ちし、一年もせずに兄二人の後を追いました。
父が亡くなると、私に対する正妻の目はますます厳しい物になりました。長兄・次兄に次いで私が三番目の男子だったからです」
当時のことを思い出しているのだろうか。隆の声は、少し震えているように感じた。
「父の死後、私は息を潜めるように暮らしていましたが、十六歳になって兵学校に入学が認められると同時に、家を出たのです」
一気に話し切った隆は、そこで一息つくと千佳の方に顔を向けた。千佳はあまりのことに言葉を失っている。だが、隆が今この時にこの話をした理由は何となく察せられた。
この時代、結婚とは家と家との結びつきという側面が強い。明治に比べれば女性の社会進出も進んでおり、恋愛によって結婚相手を決めるということも無くはなかったが、多くの女性は父あるいは兄の決めた相手と結婚した。
それは、結婚がお互いの家同士をより深く結びつける手段だったからだ。
隆の言葉を信じれば、今回の婿取りによって京都の佐々木家と縁が深くなるという可能性は少ない。自分はいわば厄介払いされた立場であり、今後秋川家が何かに困ったとしても、佐々木家から援助の手が伸びるということは期待できないと考えてもらいたい。
隆はそう言いたいのだ。だからこそ、「隠していて良い」ことではないと考えたのだろう。
それに、隆が口下手になった理由も何となくわかった気がした。
京都での暮らしは相当に息苦しいものだったのだろう。心を許せる人を一挙に失い、周囲に味方は誰も居なかった。いつも怒っているような隆のしかめ面は、決して自分の心を他人に見せない為に身に着けた鎧だったのかもしれない。
「私が藤原旅子をうらやましく思ったのは、それが自分には無い感情だったからです。死んでまで帰りたいと思える故郷があることが、純粋にうらやましかった。私には帰る家が無い。
ですが、
失礼。長々と話し過ぎました」
千佳の顔を見た隆は、寂しそうに少しだけ口の端を上げて話を切り上げた。
――今、私は……
どんな顔をしていただろう、と千佳は自問した。痛ましそうな顔か、同情した顔か……。
だが、隆は同情して欲しくてこの話をしたのではないだろう。むしろ、夫婦として隠してはいけない話だと思ったからこそ、この話をしたのだ。他人事のように気の毒そうな顔をする千佳を見て、隆はどう思っただろうか。
隆が話を途中で切り上げたのが、その答えのような気がした。自分はそんな隆の気持ちを汲み取れず、隆を傷つけてしまったのではないだろうか……。
千佳は何とか隆に話しかけよう必死に言葉を探した。だが、口から出た言葉は千佳自身にも場違いに感じるほど軽い物だった。
「じゃ、じゃあ、これからここが隆さんの故郷ですね。いい所ですよ。水は綺麗だし、ホタルは飛ぶし」
途中から何を言いたいのか千佳自身にも分からなくなる。こんな言葉が慰めになるはずは無い。だが、千佳は何とか場を和ませようと必死に言葉を繋いだ。
「そ、それに、陸にも帰って来る所があるのも悪くないんじゃないですか? ほ、ほら、ちょうどもどろきさんは帰郷の神様ですから。だから、だから……」
そこまで言った時、不意に千佳の目から涙がこぼれた。
――こんなことを言いたいんじゃない
私はあなたの妻なのだから、何も気を遣わなくていい。佐々木の家の事など関係ない。そう伝えたかった。その想いが上手く言葉にならずに、ただただ涙だけが次々に溢れてしまう。
「あ、あれ? 変だな。な、泣きたいのは、隆さんですよね」
そう言って笑おうとした時、不意に隆の手が千佳を抱き締めていた。
「ありがとう……そう言ってもらえて、嬉しいです。どうにも千佳さんを怖がらせてしまったのではないかと心配でしたので」
――そうか。
隆も不安だったのだ、とこの時初めて知った。考えてみれば、見知らぬ土地に一人でやって来て心細くないわけが無い。いくら鍛えられた軍人さんでも、隆も一人の人間なのだ。
千佳は隆の背中に自分の手を回し、ためらいがちに抱き合った。背中に伝わる隆の手は、とても温かかった。
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